第24話 今日は、ちょっと静かだな
狭い通路の入口まで戻ると、ハルトは腕を組んで待っていた。ルアンの姿を確認した瞬間だけ、少し安堵したようにも見えたが、それはほんの一瞬だった。すぐに眉間へ深い皺が寄り、隣にいた二人の探索者まで何となく距離を取る。
「三十歩」
「はい」
「何歩行った」
「……数えてません」
「声が届く範囲」
「途中から届かなくなりました」
「何か見えても近づくな」
「近づきました」
「異常があったら、調べる前に戻る」
「……戻りませんでした」
ハルトはしばらく何も言わなかった。ルアンも、今回は何を言っても自分が不利になることくらいは分かっている。
「俺が言ったこと、一つも守ってねえな」
「……はい」
「でも生きてる」
「お前は黙ってろ。一緒に追いかけた側だ」
「はい」
セインまで素直になった。ミレーナは少し離れた場所から二人を見ていたが、助け舟を出してくれる気はなさそうだった。
ハルトは深く息を吐き、ルアンの頭から足元まで確認した。
「怪我は?」
「ありません。魔力を使った反動が少し残ってます」
「少しって?」
「今は普通に歩けます」
「あとでちゃんと診てもらえ」
怒られるのは当然だった。むしろもっと強く叱られると思っていたので、ルアンは素直に頷いた。
ハルトは次にセインとミレーナを見る。
「お前らも怪我なし?」
「ない」
「私も」
「分かった。説教は帰ってからだ。まず帰る」
その一言で、全員の顔つきが少し変わった。赤爪猿を退けたからといって、帰り道が見つかったわけではない。地図にない通路は残り、元の経路も途中から形を変えている。
ルアンはハルトへ、奥で確認した導灯の状態を説明した。番号札がなかったこと、内部の魔力が一定方向へ偏っていたこと、その方向がほかの導灯とおおむね一致していたこと。最後に見た灯りでは、その偏りがさらに強くなっていたことまで、見たものと推測を分けながら話す。
ハルトは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「つまり、その流れを追えば帰れるかもしれない」
「はい。ただ、そうだとはまだ言えません」
「少しは学習したな」
「はい」
「一人で行くなって方も学習しろ」
「……はい」
その横でセインが小さく笑った。ルアンが見ると、すぐに目を逸らす。
ハルトは床へ地図を広げた。今いる場所は書かれていないが、方角だけなら確認できる。導灯の魔力が偏っている方向は、やはり南西寄りだった。
「このまま来た道を戻っても、既知の経路には出られない可能性が高い。なら、今ある手がかりを使う。ただし今度は全員一緒だ」
ハルトは地図を畳み、それぞれに役割を振った。
「ルアンは俺の横。導灯だけ見ろ」
「はい」
「勝手に先行するな」
「はい」
「セイン」
「ん?」
「後ろ見ろ。魔物が来たら知らせろ。追いかけるな」
「分かった」
「ミレーナは足元だ。危ない地面があったら止めてくれ」
「了解」
ほんの少し前なら、ただ同じ場所に居合わせただけの顔ぶれだった。それぞれ別の仕事があり、別の目的で迷宮へ入っている。それでも今は、誰が何を見るのかが自然に決まっていた。
六人は再び歩き始めた。先頭はハルトで、そのすぐ隣をルアンが歩く。導灯を見つけるたびに立ち止まり、内部に残る魔力の偏りを確かめる。ミレーナは前方の地面や壁際を見て、セインは最後尾から時々振り返りながら周囲を警戒していた。
最初の分岐では、導灯の流れは右を示した。二つ目では左。そのたびにハルトが白墨で印を残し、全員で進んでいく。
途中、床に見慣れない黒い筋が走っている場所でミレーナが足を止めた。全員が少し身構えたが、彼女はしばらく観察してから首を振る。
「これは大丈夫。古い水の跡」
「何でも分かるわけじゃないんだ」
「当たり前でしょ」
「ちょっと安心した」
「何で?」
「ミレーナだけ全部分かったら、僕とセインいらなくなるから」
「俺は魔物倒せるよ」
「じゃあ僕だけ?」
「導灯見るんでしょ」
「そっか」
「今その話する?」
「歩いてるだけだし」
「迷ってる最中だけどね」
「帰る途中だよ」
「まだ帰れてない」
その通りだった。それでも、さっきまでより空気は軽くなっていた。
しばらく進むと、導灯の間隔が少しずつ狭くなってきた。光も安定し始め、完全に消えているものは見かけなくなる。
ルアンは次の一基を調べ、外殻を閉じた。
「今までより強いです」
「偏りは?」
「あります。でも小さくなってます」
「近づいてるってことか」
「何に近づいてるかは分かりません」
「よし。その調子だ」
少し褒められた気がした。
さらに進むと道幅も広がり、天井も高くなってきた。ところどころ壁には古い金具が残っており、そのうち一本に錆びた小さな板が取り付けられているのをミレーナが見つけた。
「何か書いてある」
ハルトが携帯灯を近づけ、表面の汚れを布で拭う。そこから現れた数字を見て、ルアンは一瞬だけ息を止めた。
四十二。
「北西四十二号……?」
管理院の地図を開く。北西四十二号導灯は確かに存在しており、中層北西区域の南端に設置されている。中層詰所までなら、通常の経路で三十分ほどの場所だった。
ただし、地図上の位置とは合わない。
「番号、本物か?」
「少なくとも管理院の刻印だ」
ハルトが金属板を確かめる間に、ルアンも導灯を調べた。外殻も配線も見慣れたもので、何より番号札がついている。そのことが、こんなにも安心できるとは思わなかった。
「これ、いつもの導灯です」
「出力は?」
「正常です。地面からの補助魔力も問題ありません」
内部の魔力にも、これまでのような強い偏りはなかった。ハルトは地図と周囲を見比べ、しばらく考える。
「位置はおかしい。でも四十二号まで来たなら、ここから先は通常系統につながってる可能性が高い」
今度は誰もすぐには喜ばなかった。一度、地図が役に立たなくなる経験をしている。まずは確かめる。それが全員の共通した反応になっていた。
四十二号から先へ進むと、五十歩ほどで次の導灯が見えた。四十三号。その先には四十四号があり、どちらも正常に灯っていた。通路の形も管理院の地図と一致している。
「戻ったな」
ハルトの言葉を聞いて、ようやく全員の緊張が緩んだ。セインが大きく息を吐き、真っ先に腹を押さえる。
「腹減った」
「最初にそれ?」
「帰れるって分かったら急に」
「さっきも減ってたけど」
「ずっとじゃん」
ルアンも笑った。地図に載っている道を歩く。それだけのことが、今日はずいぶんありがたく感じられた。
中層詰所へ戻った頃には、出発してからかなり時間が経っていた。詰所では管理院の職員が何人も待っており、予定時刻を過ぎても戻らなかったため、捜索班を出す準備まで始まっていた。
その中にはダグもいた。
ルアンが入口へ入ると、ダグはこちらを見た。
「帰ったか」
「はい」
それだけだった。もっと何か言われると思っていたが、ダグはまずハルトから状況を聞き、負傷者がいないことを確認してからルアンの前へ来た。
「腕」
「大丈夫です」
「出せ」
言われた通り右腕を差し出す。握る、開く、肘を曲げる。次に脚の状態も確認され、最後に呼吸を見るように顔を覗き込まれた。
「身体に魔力流したな」
「はい」
「どれくらい」
「十三秒です」
「聞き方間違えた。何回だ」
「一回です」
「なら今日はもう使うな」
「はい」
ダグはそこで一度黙り、ルアンを見る。
「で?」
「……で?」
「何やった」
「一人で少し先を見に行きました」
「少しじゃない」
ハルトが横から訂正する。
「……一人で先を見に行きました」
「理由」
「導灯の状態を見られるのが、僕だったからです」
「それで?」
「僕が行った方が早いと思いました」
「結果」
「魔物に挟まれました」
「誰に助けられた」
「セインとミレーナに」
ダグは短く息を吐いた。
「じゃあ覚えとけ。一人でできることと、一人でやるべきことは違う」
「……はい」
使えることと、安全であることは違う。そこに今日、新しい一つが加わった。
できることと、やるべきことも違う。
「報告書」
「何枚ですか?」
「今のところ三枚」
「増えるんですか?」
「内容次第だな」
「減ることは?」
「ない」
少し離れたところでセインが笑っていた。今度はミレーナまで笑っている。ルアンだけは笑えなかった。
その後、六人は順番に聞き取りを受けた。道が変わっていた場所、番号のない導灯、赤爪猿、薄皮石、そして北西四十二号へつながった経路まで、見たことを一つずつ確認していく。
管理院は北西区域の閉鎖範囲を広げることになった。原因はまだ分からない。通路が本当に変化したのか、もともと存在していた別の経路が何らかの理由でつながったのか、それすら確定しておらず、四十二号の位置が地図と合わなかった理由も含め、翌日から改めて測量班が入るという。
ルアンは自分の報告書にも、分からないことを分からないまま書いた。
ただ一つ、確かなことがあった。
地図にない道は、本当にあった。
管理院を出る頃には、空が夕方の色に変わっていた。セインとミレーナも探索者組合への報告を終えており、大門前でまた顔を合わせた。
三人とも朝よりずっと汚れていた。セインの上着には赤爪猿の爪でついた細い傷があり、ミレーナの膝には白い石灰砂が残っている。ルアンの服も、壁へぶつかった肩のあたりが灰色になっていた。
セインが自分の袖を見る。
「今日、結局依頼できてないんだよな」
「裂牙犬の調査?」
「そう。途中で道なくなるし」
「私は水晶蟻の抜け殻、一個も採ってない」
「僕も普通の点検、途中で終わった」
三人とも、それぞれ仕事へ行ったはずだった。誰一人として予定通りの一日になっていない。
少しの間、顔を見合わせたあと、セインが笑った。
「今度、普通に迷宮行こうぜ」
「普通に?」
「道が消えないやつ」
「それ、選べるの?」
「たぶん」
「私は仕事ならね」
「遊びじゃ駄目なの?」
「何で危険な場所にタダで行かなきゃいけないの」
「じゃあ依頼受ければいいじゃん」
セインが簡単に言う。
ルアンは少し考えた。探索者組合には、三人程度でも受けられる仕事がある。魔物討伐だけではなく、素材回収や浅い区域の確認依頼もあったはずだ。
「じゃあ、仕事探す?」
「いいじゃん」
「報酬分配は先に決めるからね」
「まだ何も決まってないよ」
「そこを先に決めるの」
ミレーナらしかった。
いつ行くのか、何の依頼を受けるのか、誰が申し込むのか。そんなことは何一つ決まっていなかった。
それでも三人は、「また」と言って別れた。
その夜、ルアンは月兎亭で夕食を食べた。マーサには服の汚れを見ただけで何かあったことを見抜かれたが、詳しく話す前に「まず食べな」と皿を置かれた。煮込みと黒パン、それに今日は卵までついている。
「卵、頼んでないけど」
「生還祝い」
「この前もそんな感じじゃなかった?」
「生還しすぎなんだよ、坊や」
「僕もそう思う」
食事を終えたあと、本当ならそのまま部屋へ戻るつもりだった。身体には疲れが残り、ダグにも今日はもう身体へ魔力を流すなと言われている。それでも足は、いつもの道へ向かった。
七番倉庫。
扉を開けると、見慣れた暗い空間が広がっていた。積み上げられた古い木箱、使われなくなった導灯部品、壁際に置いた訓練用の袋。昨日までと何も変わっていない。
ルアンは携帯灯を置き、いつもの場所へ座った。今日は訓練をするつもりはなく、身体の中へ魔力を通すこともせず、ただ壁に背を預ける。
ここへ来ると、いつも静かだった。
一人で失敗し、一人でもう一度試す。何秒続いたかを考え、翌日になればまた試す。それが嫌だったことはないし、むしろこの静けさは好きだった。
ところが今日は、倉庫が妙に広く感じられた。
セインの声がない。ミレーナの呆れた声もない。誰かが床を見ろと言うことも、十三秒で十分だと言うこともない。
昨日までなら、これが普通だった。
なのに今日は、少しだけ違う。
ルアンは薄暗い倉庫の中をしばらく眺めてから、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「今日は、ちょっと静かだな」




