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第23話 どうして来たの?

二つ目の導灯(どうとう)は、思っていたより遠かった。曲がり角から見えた時には十数歩ほどに感じたが、通路は途中から緩く下り、その先でもう一度折れている。


ルアンは携帯灯を前へ向けながら、背後から届く声との距離だけは意識して進んでいた。まだ戻れる。そう思っていた。


青白い光の前まで着くと、すぐに外殻(がいかく)の中を確かめた。番号札はなく、見慣れた魔石が弱い光を放っている。これまで見つけたものより出力は安定していたが、内部に残る魔力はやはり片側へ強く偏っていた。


「やっぱり……」


流れは、さらに奥へ続いている。


知りたかったことは分かった。ここまで来たこと自体は間違いだったかもしれないが、あとは戻ってハルトたちに伝えればいい。


そう考えて振り返ったところで、ルアンは背後から聞こえていた声が途切れていることに気づいた。


「ハルトさん!」

「セイン!」


返事はなかった。耳を澄ませても、自分の声が石壁に反響して戻ってくるだけだった。


思っていたより奥まで来てしまったのかもしれない。あるいは曲がり角が重なり、声が届かなくなっただけかもしれない。どちらにしても、これ以上進む理由はなかった。


ルアンは携帯灯を握り直し、来た道へ戻ろうとした。その時、通路の奥から石を擦るような音が聞こえた。


一度だけではない。硬いものが岩を引っ掻くような、短く不規則な音が続いている。


足を止めて携帯灯を奥へ向けた。光の中には何もいない。けれど音は少しずつ近づき、やがて灯りの届くぎりぎりの場所で何かが動いた。


壁ではない。天井だった。


長い腕が岩の縁から伸び、その先に赤黒い爪が見えた。続いて細い胴体が天井から逆さに降りてくる。


赤爪猿(あかづめざる)だった。


ルアンは短剣へ手を伸ばした。赤爪猿は裂牙犬(れつがけん)より大きく、細身に見える身体に不釣り合いなほど腕が長い。壁や天井を使って動くため、狭い場所ほど厄介だという話は聞いたことがあったが、実際に戦ったことはない。


ゆっくり後ろへ下がりながら、周囲を確認する。戻る方向にはさっきの導灯があり、その先に曲がり角がある。そこまでたどり着けば、まだ逃げられる。


赤爪猿が天井から床へ降り、四つ足のような姿勢でこちらを見た。ルアンも目を逸らさず、相手だけでなく周囲を見る。


左は壁。右にも壁。後ろには導灯、そのさらに先が帰り道だ。逃げるなら、赤爪猿が動いた瞬間しかない。


一歩だけ下がると、赤爪猿も前へ出た。さらに下がれば、また距離を詰めてくる。このまま背中を向ければ追いつかれる。


ルアンは胸の奥から右脚へ魔力を通した。紋脈(もんみゃく)の代わりに自分でつくった細い通り道を魔力が走り、身体がわずかに軽くなる。


次の瞬間、赤爪猿は真正面ではなく壁を蹴って横から飛び込んできた。


速い。


床を蹴って身体を後ろへ逃がすと、目の前を赤い爪が通り過ぎ、石壁を引っ掻いて白い粉を散らした。ルアンはそのまま曲がり角へ走る。距離は十歩ほどしかないが、赤爪猿は着地した直後に壁へ跳び、すぐに追ってきた。


身体をひねり、魔力を右腕へ移す。振り下ろされた腕を短剣で受け止めるのではなく、横から弾いて進路だけをずらした。衝撃で腕は痺(しび)れたものの、倒れずに済んだ。


感覚では六秒ほど。まだ動ける。


再び右脚へ魔力を戻し、導灯の横を抜けたところで、来た道の方から別の物音が聞こえた。石壁の影から、もう一頭の赤爪猿が姿を現す。


ルアンは足を止めた。一頭目が後ろから追ってくる。二頭目は帰り道を塞ぐように低い姿勢を取り、こちらが近づくのを待っている。


七秒、八秒と時間が過ぎていく。狭い通路では二頭が横に並ぶことはできない。それなら一頭ずつなら何とかできるかもしれないと考えた瞬間、ルアンの中に同じ言葉が浮かんだ。


十三秒あれば。


さっきまでは頼れる数字だった。それが今は、急に短く感じられた。


一頭目が迫り、ルアンは短剣を構えた。ぎりぎりまで引きつけて横へかわし、すれ違う瞬間に脇腹へ刃を入れる。手応えは浅く、赤爪猿は痛みに声を上げただけで、すぐ壁を蹴って向きを変えた。


やがて十秒を越え、脚が重くなり始めた。十一秒を過ぎる頃には二頭目も動き、このままでは前後から挟まれる。


ルアンは来た道へ走ることを諦め、反対側へ身体を向けた。さらに奥へ逃げれば、少なくとも二頭を同じ方向へ集められる。だが十二秒を越えたところで足元がふらつき、十三秒で魔力の流れが途切れた。


身体から一気に力が抜け、壁へ肩をぶつける。それでも短剣だけは落とさなかった。以前よりましだったが、それだけだった。


十三秒あれば、いろいろなことができる。その考えは間違っていなかった。ただ、十三秒では足りないこともある。


そこまで考えていなかった。


赤爪猿がゆっくり近づいてくる。脚は重く、今すぐ走るのは難しいが、立つことくらいはできた。ルアンは短剣を両手で握り直しながら、もう一度周囲を見る。


前方には二頭。後ろへ下がれば、さらに迷宮の奥へ進むことになる。右側の床には細い亀裂が走り、その向こうには消えた導灯が一基見えていた。そこへ行ったところで何ができるかは分からない。それでも、この場に立ち続けるよりはましだった。


一歩下がった時、赤爪猿の一頭が身体を低くした。飛びかかってくる影に向かって短剣を構えたが、分かっていても脚が動かない。


その瞬間、横から長い棒が突き出した。


赤爪猿の肩を強く叩き、軌道を変える。獣はルアンの横を飛び越え、そのまま壁へぶつかった。


「ったく!」


聞き慣れた声だった。


セインが狭い通路から飛び出し、槍を両手で構えながらルアンの前へ立つ。そのすぐ後ろから、携帯灯を持ったミレーナも現れた。


ルアンは二人を見た。本当に、ただ驚いた。すぐにはそれ以外の感情が出てこなかった。


「どうして来たの?」

「お前が一人で行ったからだよ!」


セインは振り向きもしなかった。ルアンが何も言えずにいると、ミレーナが横を通り過ぎる。


「その質問、本気でしてる?」

「でも、ハルトさんが……」

「ハルトさんは入口にいる。あとの二人と戻る道を確保してる」

「じゃあ二人は?」

「来たの」


それ以上の説明はなかった。


赤爪猿が再び動き、セインが槍を構える。一頭が壁を蹴ると、セインは槍先を追わずに少し後ろへ引き、着地する場所へ穂先を置くようにして進路を変えた。もう一頭が横から回り込もうとすると、ミレーナがすぐに声を上げる。


「右!」


セインは槍の石突きを床へ打ちつけ、その勢いで身体を回した。赤爪猿の爪が柄を掠(かす)めるが、前へ抜けさせない。


ルアンは壁に背を預けながら呼吸を整えた。脚はまだ重く、戦いに戻れる状態ではない。セインは一人で二頭を抑えているものの余裕があるわけではなく、狭い通路では槍を大きく振れないぶん、壁や天井を自在に使う赤爪猿の方が動きやすそうだった。


「これ、まずいな!」

「見れば分かる!」


そう答えながら、ミレーナは敵ではなく床を見ていた。


「ルアン、そこ動かないで」

「え?」

「足元」


ルアンが下を見ると、先ほど気づいた細い亀裂がある。ミレーナは携帯灯を低くし、石の表面をしばらく確かめた。


「薄皮石(うすかわいし)」

「これ?」

「たぶん下が空洞。しかも広い」


以前、ミレーナに教えられたものだった。見た目は普通の岩床とほとんど変わらないが、中が空洞になっていて、重さがかかれば割れることがある。


ルアンも周囲の床を見ると、亀裂は一か所だけではなかった。右側から通路の中央近くまで、不規則につながっている。


「どこまで?」

「まだ分かんない。ちょっと、動かないでって言ったでしょ」


ミレーナは腰袋から細い金属棒を取り出し、床を軽く叩いていった。場所によって音が違い、乾いた硬い音と、それより低く響く音が交互に返ってくる。


「あそこまで」


ミレーナが指したのは、赤爪猿の一頭が立っている少し手前だった。


「下、空洞だと思う」

「落とせる?」

「簡単に言わないで! 私たちも落ちる!」

「じゃあ、どうする!」


ルアンは床と導灯を交互に見た。消えた導灯は薄皮石の向こう側にあり、そのさらに奥にも道は続いている。今の位置から逃げるなら、三人とも脆い床を越えなければならない。


逆に、赤爪猿をそこへ乗せられればいい。


「ミレーナ」

「何?」

「この床、どれくらいで割れる?」

「知らない。薄皮石にも厚さあるから」

「二頭乗ったら?」

「だから知らないって。でも一頭よりは割れやすい」


それで十分だった。


ルアンは消えた導灯を見る。この道にあるものには地面から魔力が流れ込んでいるため、光が消えていても完全に死んでいるわけではない。


「セイン、二頭をこっちに寄せられる?」

「どっち?」

「薄皮石の方」

「できると思う。でもお前らいるじゃん」

「先に向こうへ渡る」


ミレーナがルアンを見る。


「走れるの?」

「走るのは無理。でも歩ける」

「それ一番困るやつ」


セインが一頭の突進を槍で逸らしながら叫ぶ。


「決めるなら早くして!」


ルアンはもう一度、消えた導灯を見た。灯りが使えれば、赤爪猿の動きを変えられるかもしれない。


「ミレーナ、赤爪猿って明るいの嫌う?」

「急に強い光が来るのは嫌う。夜行性だから」

「じゃあ使えるかも」


壁から身体を離そうとしたところで、ミレーナがすぐに腕を掴んだ。


「どこ行くの」

「あの導灯」

「だから走れないんでしょ」

「歩けば行ける」

「そういう問題?」

「どこ踏めばいい?」

「私の後」


二人は壁際へ寄り、ミレーナが安全な石を選びながら一歩ずつ進んだ。ルアンは彼女が踏んだ場所をなぞるように歩いていく。途中で足元から低い音が響くと、ミレーナはすぐに止まった。


「そこじゃない。左」

「こっち?」

「もう少し。そう」


言われた位置へ足を移す。自分一人なら、たぶん気づかなかった。


二人は薄皮石の範囲を抜け、消えた導灯までたどり着いた。


「セイン!」

「もういい!」

「了解!」


セインは槍を大きく前へ出した。一頭を突くのではなく、通路の左側から圧力をかけ、赤爪猿が逃げる方向を限定する。もう一頭が壁へ跳んでも追わず、着地する位置だけを見て槍の柄で進路を塞ぎ、二頭を少しずつ同じ側へ寄せていった。


倒そうとしているのではない。動かしている。


ルアンが以前に見た、セインの戦い方だった。


「ルアン、できる?」

「やってみる」


ルアンは外殻を開いた。今まで触れずにいた、番号のない導灯だった。本来なら管理院へ持ち帰って調べるべきものだが、今はそんなことを言っていられない。


魔石も配線も入っていて、形式は普段使っているものとほとんど同じだった。調整環を見つけて指をかけたが、長い間触られていないのか固い。両手で力を込めると、ようやく少しだけ動き、内部へ流れ込む補助魔力が増えた。


魔石の奥に小さな光が生まれる。


「点く?」

「まだ」


さらに調整環を回すと、青白い光が少しだけ強くなった。それでも通常の導灯ほどではなく、魔力が足りない。


自分から流せば、もっと早い。


その考えが浮かんだが、脚も腕も十三秒の反動がまだ残っている。ここで無理にもう一度魔力を流せば、今度こそまともに動けなくなるかもしれない。


ルアンは手を止めた。


一人なら、たぶん使っていた。


今は違う。


「セイン! もう少しだけ待って!」

「今けっこう頑張ってる!」


声だけは元気だった。


ミレーナも導灯を覗き込み、すぐに周囲を見る。


「他にできることない?」

「地面から来てる魔力が弱い」

「じゃあ増やせない?」

「流れが来てる方を開ければ……」


ルアンは台座の下へ目を向けた。補助魔力を取り込む溝の一部に、細かな砂と白い鉱物片が詰まっている。


「これかも」

「退いて」


ミレーナは細い採取具を取り出し、詰まりを少しずつ掻き出していく。ルアンなら工具で無理に削っていたかもしれないところを、彼女は溝を傷つけない角度を選び、固まった砂だけを外していった。


「これ、何?」

「石灰砂。水気あると固まる」

「取れる?」

「今取ってる!」


最後の塊が外れた瞬間、導灯の光が強くなった。


ルアンはすぐに調整環を回し、青白い光を外殻いっぱいまで広げる。突然強くなった灯りを嫌い、二頭の赤爪猿が甲高い声を上げて顔を背けた。


「セイン、今!」


セインが槍を振るい、一頭目の進路を右へずらす。もう一頭もその後ろへ追い込み、光を避けようとした二頭をそのまま薄皮石の上へ誘導していった。


一頭目が着地した時には何も起こらなかった。だが二頭目が同じ場所へ乗ったところで、床から低い音が響いた。


「来る!」


ミレーナの声とほとんど同時に、石床へ亀裂が走った。赤爪猿の一頭が異変に気づいて壁へ跳ぼうとするが、セインがその前へ槍を入れる。ただし突きはしない。逃げ道だけを塞ぎ、二頭を脆い床の上に留めた。


次の瞬間、薄皮石が大きく割れた。


石片と砂が一気に落下し、二頭の身体も暗い空洞へ沈んでいく。セインは崩れる直前に後ろへ跳び、残った床へ着地した。かなり下の方から鈍い音が響き、そのあとには静けさだけが残った。


「……落ちた?」

「近づかない!」

「はい」


珍しく素直に下がった。


ルアンは導灯から手を離した。強くなった青白い光が、そのまま三人と崩れた床を照らしている。全員が無事だと分かったところで、ようやく肩から力が抜けた。


「助かった……」

「こっちの台詞」

「僕?」

「お前以外に誰がいるんだよ」


ミレーナも採取道具を腰袋へ戻しながら口を挟む。


「一人で来て、十三秒使い切って、魔物二頭に挟まれてた人が何言ってるの」

「……見てた?」

「途中からね」

「最初から見てたらもっと怒ってる」


それは少し怖かった。


ルアンは二人を見た。さっき聞いた言葉が、まだ頭に残っている。


“お前が一人で行ったからだよ。”


「僕、自分にしか分からないなら、自分が行った方がいいと思ったんだ」


セインは少し考えたあと、意外にも否定しなかった。


「それはいいんじゃない?」

「いいの?」

「分かる奴が見るのは普通じゃん。でも、一人で行くのは別だろ」

「別?」

「うん。お前が導灯見ればいいし、俺が魔物見ればいいじゃん」

「私は床見る」

「……床」

「大事でしょ」

「すごく大事だった」


それは認めるしかなかった。


三人の後ろには、大きな穴が開いている。一人だったら、ルアンは薄皮石に気づかなかった。セインだけなら番号のない導灯の意味は分からず、ミレーナ一人なら二頭の赤爪猿を好きな場所へ動かすことも難しかっただろう。


誰か一人が、全部できたわけではない。


それでも三人なら、帰るための道を一つつくることができた。


ルアンは青白く灯る導灯を見た。その先には、まだ知らない道が続いている。けれど、もう一人で確かめに行こうとは思わなかった。


「戻ろう」

「今度は三人でな」

「うん」

「先頭は私」

「何で?」

「床見ない人が二人いるから」

「俺も?」

「さっき段差につまずいてたでしょ」

「あれ見てた?」

「見てた」


ミレーナが先に歩き出し、ルアンがその後ろにつく。セインは槍を持ったまま最後尾へ回った。


一人で来た道を、三人で戻った。

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