第21話 十三秒
地図にない道へ入ってから、しばらくは何も起こらなかった。
ハルトは十歩から十五歩おきに白墨で壁へ印を残し、曲がり角では必ず二重に線を引いた。探索者の一人も念のため細い縄を腰袋から取り出し、分岐があれば目印を結んでいる。
ルアンは歩きながら、導灯と周囲の壁を見ていた。通路には長い時間をかけて水が流れた跡があり、床の石もところどころ丸く擦れている。さっき突然できた道には見えないどころか、少なくとも何年も前からここに存在していたように思えた。
それなのに、管理院の地図にはない。
「これ、昔使われてた道とかじゃないの?」
セインが尋ねる。
「その可能性はある」
「じゃあ地図に書き忘れたとか」
「この辺りの測量は何度もやってる。忘れるには道が長すぎるな」
ハルトは前を向いたまま答えた。すでに百歩以上は進んでいるが、通路が終わる様子はない。
ミレーナは壁際や床を見ながら歩いていた。先ほど見つけた足跡はまだ続いているものの、途中から砂の少ない岩床へ変わったため、だんだん追いにくくなっている。
「これ、本当に人の足跡だった?」
セインが聞く。
「だったよ」
「何人くらい?」
「分かんない。重なってたから。でも一人じゃないと思う」
「最近?」
「たぶんね。少なくとも何年も前って感じじゃない」
そう答えたミレーナが、不意に足を止めて壁際へしゃがみ込んだ。指先で拾い上げたのは、片側が黒く焦げた小さな木片だった。
「何それ?」
「松明の柄」
ハルトが受け取り、表面を確かめる。燃えた跡は残っているが、木はまだ乾き切っておらず、指で触れると繊維がわずかにささくれた。
「古くはないな」
誰かがここを通っている。そのことだけは、少しずつ確かなものになってきていた。
さらに先へ進むと通路が広がり、正面に小さな空間が現れた。そこから左右へ二本の道が分かれ、中央には石造りの台座が一基置かれている。その上には、見慣れた形の灯りがあった。
「管理院の型です」
ルアンは足を速めかけたが、すぐに思い直してハルトの隣まで歩いた。
「ああ」
外殻の形も、固定金具も普段使っているものとほとんど同じだった。ただし、通常なら外殻の下部についているはずの番号札がない。
ルアンはしゃがみ込み、灯りを観察する。光は三十五号よりさらに弱く、青白い明かりが呼吸するようにわずかに揺れていた。
「触っていいですか?」
「外からだけ見ろ」
指示に従い、外殻は開かずに周囲だけを確認する。台座の根元には補助魔力を引くための溝があり、それも管理院で現在使われている方式と同じだった。
「古い型じゃないですね」
「俺もそう見える」
「でも番号がない」
セインが灯りを覗き込む。
「記録にない導灯が、管理院と同じ方式で置かれてるってこと?」
「今はそこまでだ」
ハルトがすぐに遮った。
「分からないことに名前をつけるな。戻ってから調べる」
オズとよく似た言い方だった。ルアンは小さく頷き、もう一度周囲を見る。
右の道には、さっきまで追っていた足跡らしい砂の乱れが残っている。左側は床が湿り、水が細く流れていた。ハルトは迷わず右を選び、六人は再び歩き始めた。
道は緩やかに下っていた。天井が少しずつ高くなり、空気にも湿気が混じってくる。途中には人が置いたらしい古い木杭や壁に打たれた金具も残っており、ルアンはそれを見るたびに妙な感覚を覚えた。
知らない道なのに、人の手が入っている。誰も知らないはずなのに、誰かが使っている。
やがて前方から水の音が聞こえてきた。地下湖ほど大きな響きではなく、もっと近くを流れている音だった。
曲がり角を越えると、幅の広い裂け目が通路を横切っていた。下には黒い水が流れており、小さな地下水路になっているらしい。向こう岸までは三歩ほどだが、かつて架かっていた石橋は中央部分が崩れていた。
「来た人、どうやって渡ったんだ?」
セインが縁から下を覗き込むと、ミレーナがすぐに服を引いた。
「近づきすぎ」
「落ちないって」
「落ちる人みんなそう言う」
ルアンも少し離れた場所から裂け目を見た。携帯灯を向けても黒い水面までしか見えず、その下がどれほど深いのかは分からない。
橋の残っている部分には、靴跡らしい泥が付いていた。向こう岸にも同じ跡が続いている。
「渡ってるね」
ミレーナが言った。
探索者の一人が縄を取り出し、先に向こう岸へ飛び移った。問題なく着地すると縄を固定し、残りの者も順番に渡っていく。ミレーナ、セイン、もう一人の探索者、ルアンと続き、最後にハルトが渡った。
「帰りもここ使う?」
「他に道がなければな」
ハルトが縄を回収しながら答えた。
その時、背後で低い唸り声が響いた。一つではない。石壁の向こうから、重なるように複数の声が聞こえてくる。
セインの表情が変わった。
「来る」
槍を構えると、探索者たちもすぐに武器を抜いた。通路の曲がり角から灰色の獣が姿を現し、その後ろにも同じ影が続く。
裂牙犬だった。
全部で四頭。
「さっき調べてた奴ら?」
ルアンが聞く。
「分かんない。でも四なら少ない方」
セインは答えながら、すでに前へ出ていた。
先頭の裂牙犬が飛びかかる。セインは槍先を正面へ突き出すのではなく斜めに払い、犬の進路をずらした。そこへ横から剣が入り、一頭目が床へ転がる。
残りの三頭は止まらなかった。
ルアンは壁際へ下がり、前へ出たセインたちと周囲を同時に見る。今の自分が正面から戦える相手ではないことは、嫌というほど分かっている。
前にはセインと二人の探索者。少し後ろにはミレーナとハルト。そして自分たちの背後には、さっき渡った裂け目がある。下がれる場所は広くない。
「右から一頭回る!」
セインが叫んだ。
一頭が壁際を駆け、前衛の脇を抜けてくる。剣を持つ探索者が追うが、間に合わない。
裂牙犬の向かった先にはミレーナがいた。
「ミレーナ!」
ルアンが叫ぶ。
ミレーナも気づき、横へ避けようとした。しかしその先には裂け目があり、踏み出しかけた足が一瞬だけ止まる。
裂牙犬が跳んだ。
ルアンは考えるより先に、自分の中へ魔力を通した。胸の奥から右脚へ、自分でつくった細い道を魔力が走る。床を蹴った身体が一気に前へ出た。
以前より速かった。
ルアンはミレーナと裂牙犬の間へ入り、短剣を抜いた。噛みついてくる顎を避けながら横へ斬るが、刃は毛皮を浅く切っただけだった。
裂牙犬は着地すると、すぐに向きを変える。
ルアンは右脚へ流していた魔力を止め、そのまま右腕へ切り替えた。一秒、二秒。まだ流れは安定している。三秒を越えたところで再び脚へ戻し、相手の踏み込みに合わせて位置をずらした。
今までは、一か所へ通すだけで精一杯だった。それでも今日は、脚から腕へ、腕から脚へと、完全ではないながら戦いの中で流れを切り替えられている。
裂牙犬が再び飛び込んできた。
五秒を越えたところで、ルアンは半歩だけ横へずれて短剣を突き出す。刃は肩へ入り、深くは刺さらなかったものの、犬の身体がわずかに傾いた。
「ルアン、下がれ!」
ハルトの声が聞こえた。
分かっている。ここで終わればいい。以前の失敗を考えれば、その判断が正しいことも分かっている。
けれど、裂牙犬はまだ動いていた。その後ろにはミレーナがいる。
七秒を越えた。
犬が前脚を踏み込む。
ルアンは相手だけでなく、その周囲も見た。肩、顎、脚の動き。左ではセインが二頭を抑え、右には剣士がいる。背後には裂け目があり、その手前にはミレーナが立っている。
先日見た、セインの戦い方が頭をよぎった。
“怖いから見るんだよ。”
目の前の一頭だけに捕まらない。
八秒を越えたところで裂牙犬が口を開き、ルアンは身体を横へずらした。さらに身体を回しながら短剣を横から入れると、今度は首元まで刃が届いた。
十秒。
裂牙犬がよろめいた。
同時に、身体の中を流れていた魔力が乱れ始める。いつもの感覚だった。もう長くはもたないことを、ルアン自身が一番よく分かっている。
それでも今回は、十秒を越えても流れが完全には切れなかった。
十一秒。腕が急に重くなり、脚にも鈍さが広がる。それでもまだ動ける。
裂牙犬が最後に身体を起こした。
十二秒。
ルアンは震え始めた右手で短剣を握り直した。もう強く踏み込めない。それでも、一歩だけ前へ出る。
十三秒。
横から槍が伸びた。
セインの一撃が裂牙犬の胴を強く打ち、身体を横へ弾き飛ばす。倒れたところへ剣士が入り、そのままとどめを刺した。
ほとんど同時に、ルアンの中から魔力の流れが消えた。両脚から力が抜け、そのまま膝が落ちる。
「うわ」
床へ座り込んだ。
短剣は握ったままだったが、すぐには立てない。息も苦しく、脚も腕も自分のものではないように重かった。それでも意識ははっきりしている。
「十三秒」
思わず口から出た。
「何が?」
ミレーナが駆け寄ってくる。
「十三秒」
答えてから、自分でも少し笑ってしまった。
戦いながら時計を見ていたわけではない。それでも、何度も魔力を流す訓練をしてきたせいか、どれくらい保てたのかは身体の感覚でだいたい分かった。
前は十秒。今日は十三秒。
たった三秒だった。けれど、戦いの中ではずいぶん長く感じた。
残りの裂牙犬も、ほどなく倒された。
セインが槍を肩へ戻し、床に座っているルアンの前まで来た。
「お前、強えじゃん」
「十三秒だけね」
「十三秒あれば十分だろ」
「そのあと動けないけど」
「だから言ったじゃん」
セインは何でもないことのように言った。
「動けなくてもいい時に使えばいいって」
鉄鍋亭で聞いた言葉だった。
あの時は、そんな都合のいい場面が本当にあるのかと思っていた。けれど今、自分が十三秒動いたあとも戦いは続いている。セインがいて、ほかの探索者もいる。ミレーナもハルトもいて、自分一人で全部を終わらせる必要はなかった。
「……仲間がいる時とか」
ルアンが言う。
セインが笑った。
「そう、それ」
ミレーナは横からルアンの腕を掴んだ。
「いい話っぽくしてるけど、立てる?」
「ちょっと待って」
「全然十分じゃないじゃん」
「十三秒は十分だった」
「そのあとが十分じゃないの」
もっともだった。
少し休むと、ようやく脚に力が戻ってきた。
ハルトは裂牙犬の死骸を確認したあと、ルアンのところへ来た。
「怪我は?」
「たぶんないです」
「たぶんじゃなく確認しろ」
言われた通り、腕、脚、脇腹を一つずつ確かめる。裂牙犬に噛まれた場所はなく、短剣を握った右手に小さな擦り傷がある程度だった。
「さっき力が抜けたのは?」
「魔力を使った反動です」
「例のやつか」
「はい」
「どれくらい使った?」
「十三秒です」
「数字は聞いてねえよ」
ルアンは口を閉じた。
ハルトは呆れたように息を吐いたが、それ以上は責めなかった。
「歩けるまで休む。どうせ急いでも道が分からん」
「すみません」
「謝るところじゃない。次から使うなら、使った後どうするかまで考えろ」
それも、もっともだった。
休憩の間に、セインたちは裂牙犬の身体を通路脇へ寄せた。ミレーナは牙や爪の状態を一度だけ見たが、採取道具には手を伸ばさなかった。
「取らないの?」
ルアンが聞く。
「持って帰れるか分からない時に荷物増やさない」
「なるほど」
「生きて帰ってから考える」
以前も似たようなことを言っていた。
素材より、帰ること。
ルアンは少し笑った。
「何?」
「いや。ミレーナも灯守みたいなこと言うんだなって」
「嫌なんだけど」
「何で」
セインが笑い、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
二十分ほど休むと、脚の震えもかなり治まった。完全ではないが、歩く分には問題なさそうだった。
六人は再び先へ進んだ。
さっきまで以上に慎重になっている。
裂牙犬がどこから来たのかは分からない。元々この区域にいた群れなのか、通路の変化によって別の場所から入り込んだのか、それを判断できる材料もなかった。ただ、セインたちが依頼を受けていた区域とは離れていることだけは確かだった。
地図にない通路は、まだ奥へ続いていた。
二度曲がり、小さな空間を抜け、再び細い道へ入る。ハルトが残していく白墨の印も少しずつ増えていった。
ルアンは歩きながら、さっきの十三秒を思い返した。
十秒を超えたことだけではない。今までは脚なら脚、腕なら腕と、一か所へ通すだけで精一杯だった。今日は途中で流れを切り替え、完全な同時使用ではないにしても、戦いの中で身体の使う場所を変えることができた。
十三秒は短い。終われば、しばらくまともに動けなくなる。一人なら危険だ。
ダグに言われたことも忘れてはいない。
自分は強くなったのではなく、一瞬だけ強くなれるようになっただけだ。それでも、その一瞬にできることは確実に増えていた。
裂牙犬を一人で倒したわけではない。最後はセインに助けてもらったし、戦いが続けば自分は何もできなかっただろう。
それでもミレーナの前へ入ることはできた。攻撃を避け、短剣を当てることもできた。十三秒あれば、前より多くのことができる。
その事実は、素直に嬉しかった。
やがて通路の先に、また導灯が見えた。
今度のものは消えていた。台座だけが暗闇の中に浮かび、外殻の内部には光がない。
ルアンが近づく。
番号札はなかった。先ほど見つけたものと同じだった。
「またこれか」
ハルトが言う。
「見てもいいですか?」
「外からな」
ルアンはしゃがみ込み、外殻越しに内部を覗いた。魔石は入っており、完全に壊れているようには見えない。さらに近づいて確かめると、ごくわずかに魔力の気配が残っているように感じた。
「消えてから、そんなに経ってないかもしれません」
「分かるの?」
「たぶん。魔石の中に少し残ってます」
ハルトも覗き込む。
「直せそうか?」
「外殻を開けないと分かりません」
「今はやめる」
当然の判断だった。記録にない導灯を、原因も分からないまま触るべきではない。
ルアンは立ち上がろうとして、もう一度その灯りへ目を向けた。魔石に残った魔力が、いつもの導灯とは少し違って見える。全体に薄く残っているのではなく、どこか片側へ寄っているような感覚があった。
「どうした?」
セインに聞かれ、ルアンは少し考える。けれど今は、まだ何も分からない。なら、分からないままにしておけばいい。
「何でもない」
そう答えて立ち上がると、通路の先へ目を向けた。道はまだ続いている。地図はなく、帰り道も見つかっていない。
それでも、さっきまでより少しだけ気持ちは落ち着いていた。
十三秒。
たったそれだけだった。
けれど十三秒あれば、できることは増える。今まで届かなかったところへ、もう一歩だけ届くかもしれない。
ルアンはそう思いながら、消えた導灯の横を通り過ぎた。




