第19話 昨日の道
翌朝、ルアンはいつも通り月兎亭を出た。
昨夜は鉄鍋亭でセインとミレーナと食事をしたせいか、七番倉庫へ行かなかったにもかかわらず寝つきがよかった。何か特別なことをしたわけでもないのに、起きた時にはいつもより身体が軽く感じられた。
食堂ではマーサに「昨日の知り合いとはまた会うのか」と聞かれたが、ルアンにも分からなかった。
「迷宮で会えば」
「約束はしてないのかい?」
「してないよ」
「変な友達だね」
「だから友達じゃなくて、知り合い」
「はいはい」
まったく信じてもらえていなかった。
迷宮管理院へ着くと、資材室の前にいつもより多くの職員が集まっていた。
大消灯の時ほど慌ただしい様子ではない。ただ、壁に広げられた中層地図を囲み、何人かが同じ場所を指しながら話している。
ルアンも少し離れたところから地図を見た。
中層北西区域。昨日、自分とダグが標識の点検をした辺りだった。
「何かあったんですか?」
近くにいたダグへ尋ねる。
「道が一本ずれてるらしい」
「ずれてる?」
「測量班から報告が上がった」
ダグは地図の一か所を指した。
第三補助路から枝分かれする細い通路がある。昨日、ルアンたちも近くを通った場所だった。
地図では、その通路は北へ三百歩ほど続いたあと、小さな広場へ出ることになっている。ところが今朝、測量班が確認したところ、二百歩ほどで行き止まりになっていたという。
「崩れたんですか?」
「見た感じ、崩落じゃないらしい」
「じゃあ地図が間違ってた?」
「それを調べる」
迷宮の地図が常に完全とは限らない。それはルアンも、中層勤務を始める前に教わっていた。
小規模な崩落で道が塞がることもあれば、地下水の流れで地形が少し変わることもある。長く使われていない脇道なら、古い測量記録そのものが間違っている場合もある。迷宮は石でできているからといって、永久に同じ形を保つわけではない。
珍しいことではあるが、あり得ないことでもなかった。
「今日はそこ見るぞ」
ダグが言った。
「点検ですか?」
「導灯と標識の確認。測量は別班がやる」
「分かりました」
少しだけ気になった。昨日通った場所の近くなら、自分も何か覚えているかもしれない。
その考えが顔に出ていたらしく、ダグが先に釘を刺した。
「探偵ごっこすんなよ」
「しませんよ」
「お前、何かあるとすぐ考え込みすぎるからな」
「仕事には必要じゃないですか?」
「必要なのは、見たもんを正しく報告することだ」
オズにも同じことを言われた。
“見たことと、考えたことを混ぜるな。”
ルアンは頷いた。
中層へ入ると、北西区域は昨日とほとんど変わっていなかった。
導灯は正常に灯り、分岐の標識も見覚えのある位置にある。裂牙犬が増えているという報告を受け、探索者向けの注意札が一枚追加されているくらいだった。
昨日、セインたちが戦っていた広い通路も、そのまま残っている。壁際には戦闘の跡があり、裂牙犬の爪が石床につけた傷がいくつか見えた。
ルアンはそこを通り過ぎながら、昨日の光景を少し思い出した。セインの槍。回り込む裂牙犬。後ろの仲間まで見ながら動く姿。
その先へ進むと、昨日ミレーナが腐蝕苔を教えた場所もあった。橙色の苔はまだ残っているので、ルアンは念のため少し離れて歩いた。
「覚えたな」
ダグが言う。
「踏んだら靴底駄目になるんですよ」
「俺も昨日知った」
「ダグさんも?」
「迷宮のこと全部知ってる奴なんかいねえよ」
しばらく歩くと、前方に測量班の職員が見えてきた。
三人ほどが壁際へ杭を置き、距離を測っている。通路の途中には白い紐が張られ、一般の探索者が入らないよう簡単な封鎖がされていた。
「ここだ」
ダグが言う。
ルアンは地図を見た。確かに、この通路だった。
昨日、自分たちは入口の前を通っている。中までは入っていないが、入口の形には覚えがあった。右側の壁に縦長の亀裂があり、その隣に古い案内札がついている。昨日も、セインたちと別れたあとに一度ここを見た。
その点は変わっていない。
測量班の職員がダグへ説明する。
「入口から百九十八歩で終わってる。崩落痕なし。壁面も古い」
「古い?」
「昨日今日できた壁じゃないってことだ」
ルアンはその言葉に引っ掛かった。
道が塞がったのなら、新しい崩落の跡があるはずだ。ところが行き止まりの壁は周囲と同じように古く、以前からそこにあったように見えるらしい。
「前の測量が間違ってた可能性は?」
ダグが尋ねる。
「今のところ、それが一番ありそうだな。記録は五年前のものだし」
「最近通った奴はいないのか?」
「探索者組合にも確認中。採取系の依頼では使われてるはずだ」
話を聞きながら、ルアンは地図を見た。
昨日はこの道へ入っていない。だから自分には、奥がどうなっていたのか分からない。それでも何となく気になる。
入口だけは昨日と同じ。その奥だけが、地図と違う。
「入るぞ」
ダグに言われ、ルアンも封鎖された通路へ入った。
中は狭く、二人が並んで歩くのがぎりぎりだった。導灯も置かれておらず、測量班が持ち込んだ携帯灯だけが数十歩おきに岩壁を白く照らしている。
足元には砂が薄く積もっていた。人の出入りが少ない場所らしい。
百歩ほど進んだところで、ルアンは壁へ目を向けた。特に異常はない。その先にも同じような石壁が続き、百五十歩を越え、さらに進むと、二百歩近くで本当に道が終わった。
目の前に岩壁がある。
崩れた石が積み上がっているわけではない。最初から一枚の大きな壁だったように、通路そのものがそこで途切れていた。
ダグが近づき、手袋をした手で壁へ触れる。
「新しくないな」
「はい」
ルアンにも分かった。
大消灯のあとに黒くなった導灯の外殻とは違い、壁の表面には長い時間をかけてついた汚れや細かな傷がある。下の方には薄い苔まで生えていた。
少なくとも、昨夜突然現れた壁には見えない。
測量班の職員が記録板を見る。
「五年前の記録じゃ、この先に四十歩ほどの通路があって、その先が小広場だ」
「昔はあった?」
「記録を信じるならな」
ルアンは壁を見つめた。黒くなった二十号導灯。大消灯。地面へ吸われるように流れていた魔力。そして今度は、地図にあるはずの道がない。胸の奥に、落ち着かないものが残った。
つながっているのかもしれない。けれど、それは考えただけで、証拠はない。ルアンは口に出さなかった。
「灯り見るぞ」
ダグの声に、ルアンは壁から視線を外した。
この通路には常設の導灯がないため、入口近くにある補助灯と案内標識が点検対象だった。ルアンは壁から離れ、仕事へ戻る。
補助灯そのものに異常はなく、魔石の出力も安定している。案内標識だけは、地図の変更が確定するまで布をかけて使えないようにすることになった。
作業を終えたところで、入口側から別の職員がやってきた。
「組合から返事来たぞ」
測量班の責任者が振り向く。
「どうだった?」
「一週間前に探索者が一組使ってる」
「奥まで?」
「小広場で灰鋼鉱を採った記録がある」
その場の空気が少し変わり、ルアンも思わず顔を上げた。
一週間前。
五年前の古い地図だけではない。つい最近まで、この先には道があったことになる。
ダグが尋ねた。
「本人たちは?」
「今日中に呼ぶ。今のところ事故報告はない」
測量班の責任者が腕を組む。
「崩落痕なし。壁は古い。一週間前には通行記録あり、か」
誰もすぐには答えなかった。
ルアンはもう一度、行き止まりの壁を見る。やはり古い。苔もある。触れてみたい気持ちはあったが、勝手に触らないと決めているので近づかなかった。
ダグが横から言う。
「顔に出てるぞ」
「何がですか?」
「触りたい」
「……ちょっと」
「駄目だ」
「分かってます」
以前なら、たぶんもう触っていた。そこだけは少し進歩したと思う。
昼前には、一度管理院へ戻ることになった。
地図そのものを修正するのか、区域を閉鎖して調査を続けるのかは、測量班と管理責任者が決める。ルアンたちの仕事は、周辺の導灯と案内設備に異常がないことを確認し、その結果を報告するところまでだった。
帰路につく途中、ダグが言った。
「気になるか?」
「はい」
「何が?」
「一週間前まで通れた道なのに、壁が古いっていうのが」
ダグは歩きながら頷いた。
「俺も気になる」
「ダグさんも?」
「そりゃな」
少し意外だった。もっと「考えるな」と言われると思っていた。
「でも、だからってすぐ大消灯とつなげるなよ」
「言ってないです」
「顔に書いてある」
「そんなに分かりやすいですか?」
「かなりな」
マーサにもよく言われる。ルアンは少し不満だった。
ダグは続けた。
「迷宮じゃ、変なことはいくらでも起きる。昔の記録と違う道もあるし、水が流れて地形が変わることもある。今回だって、まだ測量のミスかもしれねえ」
「一週間前に人が通ってますよ」
「記録した場所を間違えたかもしれん」
「なるほど」
「だから調べるんだよ」
分からないものを、分からないままにする。ただし、放っておくわけではない。記録して、確かめる。灯守の仕事も、管理院の仕事も、その繰り返しなのかもしれない。
午後は別の区域へ回り、通常の導灯点検を行った。何事も起きず、外殻を開いて魔石を確認し、固定具を締める。案内標識の汚れを拭き、次の導灯へ向かう。いつも通りの仕事だったが、ルアンは普段より周囲の通路をよく見るようになっていた。
この壁は昨日もここにあったか。この分岐は同じ幅だったか。岩の形は変わっていないか。
もちろん、すべてを覚えているわけではない。七十歩を覚えていたからといって、迷宮の全部を知っているわけでもない。むしろ、知らないことの方が圧倒的に多い。そのことだけは忘れないようにしようと思った。
管理院へ戻ると、例の通路について新しい情報が出ていた。一週間前にそこへ入った探索者三人のうち、一人が組合へ来たという。
本人の話では、確かに小広場まで行き、灰鋼鉱を採った。帰りも同じ道を戻っており、場所を間違えた可能性も低いらしい。
それでも、結論は出なかった。
ひとまず区域は閉鎖。翌日から測量班と地質担当が詳しく調べる。
一般の職員へ共有されたのは、それだけだった。
ルアンも記録を書いた。
《北西第三補助路枝道、地図との差異を確認》
《補助導灯・案内設備に異常なし》
《当該枝道は調査のため一時閉鎖》
文章にすると、驚くほど短かった。
一週間前にはあった道が、今日はない。その不思議さは、三行の中にはほとんど残らない。
「また三行ですね」
ルアンが呟く。
隣で記録を確認していたダグが聞いた。
「何が」
「この前の地下湖も、今日も。実際に見たことはいっぱいあるのに、記録になると三行くらい」
「必要なことだけ書くからな」
「でも、変な感じです」
「そのために日誌がある」
ダグは別の帳面を指した。設備記録とは別に、現場で気づいた細かなことを書く日誌だった。
ルアンは少し考えてから、そこへ一文を加えた。
《行き止まりの壁面は周辺岩壁と同程度に風化。下部に苔あり。新規形成には見えず》
考えたことではなく、見たことだけを書く。
それで十分だった。
仕事を終えて管理院を出ると、大門前はいつもの夕方の景色だった。探索者が帰ってくる。市場へ素材を運ぶ者がいる。宿へ向かう人もいる。昨日までと変わらない。
ルアンは月兎亭へ戻る途中、一度だけ迷宮大門を振り返った。巨大な入口の向こうには、今日見た行き止まりの壁がある。昨日通った場所のすぐ先に、一週間前までは存在していた道が、今はもうない。
気にはなった。けれど、それ以上ではなかった。
月兎亭へ戻ると、マーサが夕食を用意していた。今日は卵がなかったが、ルアンも特に欲しいとは言わなかった。
食事を終えると、そのまま七番倉庫へ向かった。昨日行かなかった分を取り戻そうとは思わず、いつも通り短剣の練習と、魔力を流す訓練を少しだけ行う。
正面だけではなく、周囲も見る。右の壁、左の木箱、足元、自分が動ける場所。一歩動いて止まり、もう一度確かめる。
何度か繰り返しているうちに、ふと昼間の壁が頭に浮かんだ。
一週間前には通れた道が、今日はない。もし本当に迷宮そのものが変わるのなら、地図だけを信じて歩くことはできない。
ルアンは短剣を下ろした。まだ、そんなことが起きているとは決まっていない。測量の間違いかもしれないし、記録の間違いかもしれない。それでも明日同じ場所を通ったなら、今日と同じかどうかくらいは見ておこうと思った。
右手を前へ出し、指先へ魔力を流す。小さな白い光が灯り、その光が目の前の床と壁を照らした。
迷宮を全部覚えることはできない。けれど、自分が見たものくらいは、少しずつ覚えていけるかもしれない。
その夜は、それだけ考えて訓練を終えた。




