第18話 鉄鍋亭
その日の仕事は、珍しく予定より早く終わった。
中層北西側の点検は午前中に大きな異常もなく終わり、午後に予定されていた補助導灯の交換も、別の班が先に対応していた。管理院へ戻って記録を書き終えた頃には、いつもならまだ迷宮の中にいる時間だった。
ルアンは資材室で工具を返しながら、少し落ち着かない気分になっていた。
時間が余った。
七番倉庫へ行くには早すぎる気がするし、月兎亭へ戻ってもマーサは夕食の仕込みをしている頃だろう。大門市場を見て回ることも考えたが、特に買いたいものはない。
それ以上に、腹が減っていた。
「飯でも食って帰るか」
後ろからダグの声がして、ルアンは振り返った。
「奢ってくれるんですか?」
「何でそうなる」
「先輩が誘ったから」
「誘ってねえ。独り言だ」
「聞こえるように言いましたよね」
「知らん」
そう言った本人は、結局別の職員と飲みに行くらしく、ルアンを置いてさっさと管理院を出ていった。
一人になったルアンは少し考えたあと、久しぶりに鉄鍋亭へ向かうことにした。
迷宮大門から少し離れた裏通りにある鉄鍋亭は、探索者や運搬人、管理院の職員がよく利用する食堂だった。店の奥には名前の由来になった大きな鉄鍋が三つ並び、昼から夜まで何かしらの煮込みが火にかけられている。
値段は安い。
量は多い。
そして、料理はだいたい茶色い。
ルアンには十分だった。
扉を開けると、まだ夕食には少し早い時間にもかかわらず、店内の半分ほどが埋まっていた。壁際には仕事を終えた運搬人たちが座り、奥では探索者らしい三人組が大きな皿を囲んでいる。
空いている卓を探していると、店の奥から声がした。
「おい、灯守」
ルアンはそちらを見る。
セインだった。
四人掛けの卓に一人で座り、すでに大きな木皿を前に置いている。皿の上には肉の煮込みと黒パンがあり、その隣にはさらに空になった皿が一枚重なっていた。
「一人?」
「今はな」
「今は?」
「一緒に来た奴ら、酒飲みに行った」
どうやらあの時に一緒にいた探索者たちらしい。セインはまだ十七歳なので、酒場へついていかず、そのまま食事だけしているようだった。
ルアンは空いている卓へ行こうとした。
「何でそっち行くんだよ」
「え?」
「ここ空いてるだろ」
セインが向かいの椅子を足で軽く押した。
別に一緒に食べる理由はない。しかし、断る理由もなかった。
ルアンは少し迷ってから席へ座った。
「何食う?」
「まだ決めてない」
「肉煮込みうまいぞ」
「それ二皿目?」
「三皿目」
「嘘でしょ」
セインは平然としていた。
ルアンは壁に掛けられた品書きを見る。鉄鍋煮込み、黒パン付きで銅貨八枚。肉増量で十枚。卵をつけるとさらに二枚。
所持金を頭の中で数えた。
卵までつけられないことはない。ただ、昨日仕事着の補修代をマーサへ渡したばかりだった。今週は工具用の手袋も買い替えたい。
「普通ので」
店員へ注文する。
セインが不思議そうな顔をした。
「卵つけないの?」
「何で分かったの」
「ずっと見てただろ」
「見てないよ」
「見てたって」
見ていたらしい。
「今日はいい」
「銅貨二枚だぞ」
「その二枚が大事なんだよ」
セインは分からないという顔をした。
「お前、金ないの?」
「普通」
「普通って?」
「普通は普通」
説明する必要もないと思った。
灯守見習いの給料で宿代と食費を払い、残った分で必要なものを買う。贅沢をしなければ暮らせるが、何も考えず使えるほど余裕があるわけではない。
セインが何か言おうとしたところで、店の扉が開いた。ルアンは特に気にせず品書きを眺めていたが、少しして別の方向から聞き覚えのある声が飛んできた。
「何でここにいるの?」
顔を上げると、素材籠を背負ったミレーナが立っていた。
今日は迷宮帰りらしく、上着の袖と膝に少し土がついている。籠の中はほとんど空で、素材を市場へ売ったあとらしい。
「ご飯」
ルアンが答える。
「見れば分かる」
「じゃあ何で聞いたの?」
「何となく」
ミレーナは店内を見回した。
ほとんどの卓が埋まっている。空いているのは、ルアンたちが座っている四人掛けの残り二席だけだった。
ミレーナの顔に、一瞬だけ嫌そうなものが浮かんだ。
「座れば?」
ルアンが言う。
「何で?」
「他に空いてないから」
「もう少ししたら空くかも」
「立って待つの?」
「……それも嫌」
しばらく迷ったあと、ミレーナはルアンの隣へ座った。
向かいのセインが軽く手を上げる。
「腐蝕苔」
「私の名前じゃないんだけど」
「俺だって銀貨十二枚じゃないぞ」
ルアンは少し笑った。
「それ僕だから」
「そうだった」
三人とも呼び方がひどかった。
店員がやってきた。
ミレーナは品書きを一度見る。
「鉄鍋煮込み。パン一枚追加」
「肉増量は?」
「いらない」
「卵は?」
「いらない」
「飲み物は?」
「水でいい」
迷いがなかった。
店員が離れると、セインが尋ねる。
「少なくない?」
「普通」
「足りる?」
「足りる」
「俺だったら無理」
「だから三皿食べてるの?」
ミレーナはセインの前に重ねられた皿を見た。
「四皿目もいける」
「お金もったいなくない?」
「腹減ってるし」
「家で食べればいいのに」
「家?」
セインが聞き返す。
ミレーナは「宿でも何でも」と言い直した。それ以上、誰も住んでいる場所の話を広げなかった。
ルアンは少し安心した。自分も聞かれれば月兎亭と答えるだけだが、わざわざ互いの暮らしについて詳しく話したいとも思わない。今は同じ卓で飯を食べるだけで十分だった。
ルアンの料理が先に届いた。
大きな鉄鍋からよそわれた煮込みには、角切りの魔物肉と根菜が入っている。黒パンは少し硬いが、汁へ浸すとちょうどよかった。
ルアンが食べ始めると、セインは向かいからじっと皿を見た。
「何?」
「やっぱ卵つけた方がうまいぞ」
「まだ言うの?」
「俺の一個やろうか」
「いいよ」
「何で」
「人の卵もらうほど困ってない」
真面目に答えると、ミレーナが横で笑った。
「何?」
「いや。銀貨十二枚の時も思ったけど、変なところ真面目だよね」
「どういう意味?」
「そのまま」
ルアンにはよく分からなかった。
ミレーナの料理も届き、三人で食事を始める。
最初の数分は、それほど会話がなかった。セインは本当に腹が減っていたらしく、かなりの速度で食べている。ミレーナは反対にゆっくりで、煮込みの中から肉と根菜を順番に食べていた。
ルアンはその二人を何となく眺めた。
迷宮の中では、二人とも少し違って見える。セインは槍を持つと、周囲を見ながらほとんど迷わず動く。ミレーナは足跡や岩、苔を見ただけで、ルアンには分からないことを次々に見つける。
今はただ、飯を食べている。
それが少し不思議だった。
「何見てんの?」
ミレーナに言われた。
「何でもない」
「今見てた」
「セインにも同じこと言われた」
「じゃあ見てるんじゃん」
逃げ道がなかった。
「迷宮にいる時と違うなって思っただけ」
「誰が?」
「二人とも」
セインがパンを持ったまま首を傾げる。
「俺は同じだぞ」
「槍持ってないじゃん」
「飯食う時に槍持つ奴いるか?」
「そういう意味じゃなくて」
前にも似たやり取りをした気がする。
ミレーナが聞く。
「私も違う?」
「市場ではふっかけてるし」
「それ仕事」
「迷宮ではすごく真面目だし」
「それも仕事」
どちらも仕事だった。
ルアンは少し考える。
「じゃあ今は?」
「ご飯食べてる」
「そうだね」
あまり意味のある会話ではなかった。でも、妙に楽しかった。
セインが三皿目を食べ終え、店員へ声を掛けようとする。
ミレーナが止めた。
「まだ食べるの?」
「四皿目」
「同じもの四回?」
「うまいし」
「もっと安いのあるよ」
ミレーナは壁の品書きを指した。
麦粥と小肉盛り、銅貨六枚。
「煮込みより二枚安い」
「量少ないだろ」
「パン一枚足せば七枚」
「肉が少ない」
「肉増量して九枚」
「だったら煮込み十枚でよくない?」
「煮込みはパン追加すると十一枚」
「何でパン追加するんだよ」
「四皿食べる人がパン一枚で足りるわけないでしょ」
セインが黙った。
ルアンも頭の中で計算する。
ミレーナはさらに続けた。
「麦粥大盛り八枚、肉増量一枚で九枚。たぶんそっちの方が量ある」
「……本当?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「見た感じ」
セインはしばらく悩んだあと、麦粥大盛りを注文した。
「素直だね」
ルアンが言う。
「安くて多いならそっちの方がいいだろ」
「じゃあ最初から品書き見ればよかったのに」
「肉煮込みしか見てなかった」
迷宮では周囲を見るのに、食堂では一つしか見ていないらしい。
ミレーナも同じことを思ったのか、少し笑った。
「槍持ってないと駄目なんじゃない?」
「何が?」
「周り見るの」
「関係ないだろ」
三人で笑った。
そこから、会話は少しずつ増えていった。といっても、立派な話はほとんどなかった。
セインが昨日、探索者組合で依頼票を読み間違え、薬草採取だと思って受けた仕事が害草除去だったこと。ミレーナが回収した鉱石をバッカスへ銀貨九枚で売ろうとして、最初は四枚と言われたこと。ルアンが初めて中層へ入った日に、地下湖を見て口を開けていたとダグとリサの二人から言われたこと。
「絶対開けてない」
「二人に言われたなら開けてたんじゃない?」
「僕は覚えてない」
「俺も初めて中層入った時、天井見て壁にぶつかったぞ」
「セインも?」
「そのあと仲間に三日くらい言われた」
「それは開けてたよりひどいね」
ミレーナにそう言われても、セインはまだ納得していない様子だった。
やがて麦粥が届く頃には、ルアンの煮込みも半分ほどになっていた。セインはさっそく一口食べ、少しだけ考えるように噛む。
「どう?」
ミレーナが尋ねた。
「煮込みの方がうまい」
「安いとは言ったけど、美味しいとは言ってない」
「先に言えよ!」
「聞かれてないし」
ルアンは思わず吹き出しそうになった。
セインは文句を言いながらも、結局全部食べた。四皿分に近い量を食べ終えても、まだ腹に余裕がありそうなのが恐ろしい。
「そんなに食べて、動けるの?」
ルアンが尋ねる。
「今から迷宮行くわけじゃないし」
「毎日こんなに食べるの?」
「仕事した日は」
「食費すごそう」
ミレーナが真顔で言った。
「それ、考えたことなかった」
「考えた方がいいよ」
「何で」
「お金なくなるから」
「なくなったら依頼受ける」
「順番逆じゃない?」
セインは少し考え込んだ。どうやら本当に今まで深く考えたことがないらしい。
ルアンは二人の会話を聞きながら、少しだけ羨ましいと思った。
セインは自分よりずっと金の使い方が雑だ。ミレーナなら、たぶん銅貨一枚までかなり細かく考えている。自分はその中間くらいだろうか。
「ルアンは?」
ミレーナが聞いた。
「何が?」
「お金。貯めてる?」
「少しは」
「何か欲しいものあるの?」
「手袋」
「地味」
「仕事で使うんだよ」
セインが笑う。
「剣とか欲しくないの?」
「短剣あるし」
「もっといいやつ」
「高いでしょ」
「強くなりたいなら武器も大事だぞ」
「今の僕がいい武器持っても、たぶん武器に負ける」
冗談のつもりではなかった。
セインも少し考えてから頷いた。
「それはあるかも」
「そこは否定してよ」
ミレーナがまた笑った。
「じゃあ、何で戦う練習してるの?」
その質問に、ルアンは少し考えた。
探索者になりたいから。
そう答えるほど、まだ決めてはいない。
迷宮の奥へ行きたい気持ちはある。自分で自分を守れるくらいにはなりたいし、戦える人たちを見れば、自分もできるようになりたいと思う。でも、それだけでもない気がした。
「できないより、できた方がいいからかな」
結局、そう答えた。
ミレーナは特に深く聞かなかった。
「まあ、それはそうか」
セインもパンをちぎりながら頷く。
「灯守でも魔物出るしな」
「この前、針尾蜥蜴に襲われた」
「ああ、聞いた」
「誰から?」
「ダグって人」
「何で知ってるの」
「管理院の前で会った時、あいつまた無茶したって」
「余計なこと話してるなあ」
ダグの中で、自分はかなり危なっかしい見習いとして扱われているらしい。
ミレーナがルアンを見る。
「怪我した?」
「服だけ」
「また?」
「今回は短剣落とさなかったよ」
「それ前にも聞いた」
マーサと同じ反応だった。
「でも一回は避けた」
「そのあと?」
「動けなくなった」
「駄目じゃん」
「ダグさんにも言われた」
話しているうちに、ルアン自身も笑ってしまった。数日前は悔しかったことでも、こうして話すと少し違って聞こえる。
セインが尋ねる。
「何したら動けなくなった?」
「脚に魔力流して避けて、そのあと腕に流して短剣振った」
「身体強化?」
「たぶん」
「すごいじゃん」
セインは素直に言った。
ルアンは少し意外だった。
「でも一回だけだよ」
「一回できたなら、またできるだろ」
「ダグさんには、一瞬だけ強くなれるだけだって」
「それも強いだろ」
セインは何でもないことのように言った。
「一瞬しか使えないなら、その一瞬で使えばいいじゃん」
ルアンは手を止めた。自分にはなかった考えだった。
ダグは、一瞬だけの力を強くなったと勘違いするなと言った。セインは、一瞬しかないなら一瞬として使えと言う。
たぶん、どちらも間違っていない。
「でも、使ったあと動けない」
ルアンが言う。
「じゃあ動けなくてもいい時に使う」
「そんな時ある?」
「仲間がいる時とか」
セインは麦粥を食べながら答えた。あまりにも普通の言い方だった。
ルアンは少し考えた。
仲間。
その言葉に何か特別な意味があるわけではないのだろう。探索者なら誰かと組むことは珍しくないし、セインも今日まで何度も他の探索者と一緒に行動している。
それでもルアンには、まだ少し馴染みのない言葉だった。
ミレーナが口を挟む。
「でも、一回使ったら動けなくなる人と組む側は大変そう」
「そこは鍛えればいいんだよ」
「いつ?」
「これから」
「適当だなあ」
セインは笑った。
会話はそこで終わった。誰も「じゃあ一緒に行こう」とは言わなかった。
それでよかった。
食事を終えた頃には、店内はかなり混み始めていた。仕事帰りの探索者や運搬人が次々に入り、空席を探している。
三人も席を立つことにした。
会計はそれぞれ別だった。
ミレーナは自分の分をきっちり払い、セインは皿の数を店員と一緒に数えることになった。本人が何皿食べたのか途中で分からなくなったらしい。
「四皿と麦粥」
「煮込み三じゃなかった?」
「私が来た時、もう空の皿が一枚あったでしょ」
ミレーナが指摘する。
「そうだった」
「自分で食べたものくらい覚えなよ」
「腹に入ったら同じだろ」
「店には違う」
最終的にセインが払った金額は、ルアンの倍をかなり超えていた。
店を出ると、もう外は暗くなっていた。
迷宮大門周辺の通りには導灯とは違う街灯が並び、仕事を終えた人々が行き交っている。大門市場の店も片付けを始め、昼間の喧騒は少しずつ静かになりつつあった。
「じゃあ私こっち」
ミレーナが市場側を指した。
「まだ仕事?」
「籠返すだけ」
「また明日も中層?」
ルアンが聞く。
「たぶん。依頼次第」
「そっか」
それ以上、特に言うことはなかった。
ミレーナはセインにも軽く手を上げる。
「苔踏まないようにね」
「もう踏まねえよ」
「薄皮石もあるから」
「何それ」
「今度教えてあげる」
セインが嫌そうな顔をした。
ミレーナは少し笑い、そのまま市場の方へ歩いていった。
残ったルアンとセインも、大門前まで一緒に歩いた。
「お前、明日も仕事?」
「うん」
「俺も中層」
「また会うかもね」
「会ったら飯食う?」
「また?」
「一人よりいいだろ」
ルアンは少し考えた。
今日、三人で食事をする予定などなかった。セインがいて、自分が座り、そこへミレーナが来た。ただそれだけだった。
「まあ、会ったら」
ルアンはそう答えた。
「じゃあな」
「うん。また」
セインは探索者組合の方へ歩いていき、ルアンも月兎亭へ向かった。
途中で、今日のことを少し思い返す。
何か大きなことがあったわけではない。誰かを助けたわけでも、魔物と戦ったわけでもない。新しい導灯を直したわけでも、魔力を長く使えるようになったわけでもない。
ただ、セインとミレーナと飯を食べた。それだけだった。
月兎亭へ戻ると、マーサが食堂から顔を出した。
「遅かったね。飯は?」
「食べてきた」
「珍しい」
「鉄鍋亭」
「一人で?」
「二人と」
マーサの眉が少し上がった。
「友達かい?」
「え?」
ルアンはすぐには答えられなかった。
セインとは何度か話している。ミレーナとも中層や市場で会うようになった。一緒に食事もした。
けれど、友達と言われると少し違う気がする。
「……知り合い」
「そうかい」
マーサはそれ以上何も聞かなかった。
ルアンは部屋へ戻り、仕事着を脱いだ。今日は七番倉庫へ行く予定だったが、気づけばいつもより時間が遅くなっている。無理に行くほどでもないと思い、そのまま寝台へ腰を下ろした。
セインの言葉を少しだけ思い出す。
“一瞬しか使えないなら、その一瞬で使えばいい。”
“仲間がいる時なら、動けなくなってもいいことがある。”
その考え方は、明日七番倉庫で試してみたいと思った。
ただ、それより先に浮かんだのは、鉄鍋亭でのどうでもいい会話だった。
卵をつけるかどうか。四皿も食べるのか。銀貨一枚をどう考えるのか。
迷宮の中では知らなかった二人のことを、ほんの少しだけ知った。それだけで、今日は妙に長い一日だった気がする。
ルアンは寝台へ横になり、目を閉じた。
明日また二人に会うかどうかは分からない。会わなくても、別に困らない。
ただ、会ったら少しくらい話すのだろう。
今は、それくらいでちょうどよかった。




