第8話 花が咲くとき
「エルナ、魔封印を見せて」
イグニスが全力のブレスの反動で動きを鈍らせている間に、私はエルナの元へ駆け寄った。
エルナが懐から小さな札を取り出した。手のひらより少し大きい紙片で、表面に青白い紋様が描かれている。触れた瞬間、指先に冷たい魔力の感触が伝わってきた。
これが魔封印か。
八年前にはなかった技術。魔法を封じ込めた、一度きりの消耗品。
「借りていい?」
「はい」
私は札を受け取り、内部の魔法式に意識を向けた。
——読める。
札の中の魔法式は、通常の魔法と構造が違った。実行ではなく待機状態で保存されている。凍結されたプログラムのようなものだ。発動命令を与えた瞬間に解凍され、一度だけ実行される。
構造はシンプルだった。氷の属性魔法を圧縮して閉じ込めてある。発動すれば半径五メートルの凍結が展開される。
——書き換えられる。
待機状態の魔法式なら、実行前に手を加えることができる。走っているプログラムを書き換えるよりも、実行されていないプログラムを書き換える方がずっと楽だ。
「エルナ、この札に少し手を加えていい?」
「手を加える?」
「魔法式を書き換えて、効果を最適化する。凍結の範囲はこのままで、浸透する深さと効果時間を伸ばす。鱗の表面だけじゃなく、内側まで凍らせたい」
エルナが目を見開いた。
「そんなことが……できるんですか?」
「やってみる」
私は札の魔法式に指先で触れ、内部構造を走査した。氷の生成パラメータ。展開速度。凍結深度。持続時間。それぞれの変数を確認し、書き換え先を頭の中で組み立てる。
凍結深度の変数を引き上げる。単純な数値変更ではなく、凍結が進行する際のループ処理を追加する。一度凍らせて終わりではなく、凍結が内側へと浸食し続ける構造に書き換える。
持続時間も延長する。元の式では発動から数秒で効果が消えるが、ループ処理の追加で凍結を自己維持させる。魔力消費は増えるが、私の魔力で補填すればいい。
書き換え完了。
札を裏返して確認する。紋様の色がわずかに変わっていた。青白い色から、深い藍色に。
「……できた」
「本当に書き換えたんですか」
エルナが信じられないという顔で札を見つめている。
「発動方法は?」
「紙片を握って魔法名を唱えれば」
「分かった。使うのは私がやる。エルナの魔力はもう余裕がないよね」
エルナは悔しそうに唇を噛んだが、頷いた。
私自身の魔力も余裕があるわけではないが、今はステラからも魔力を借りることができる。魔封印を懐にしまい、ステラの属性剣を握り直した。
——『作戦は?』
ステラの声が頭の中に響いた。
「接近して、魔法で角を起点に凍結させる。それで根元を覆う鱗ごと、角をステラの剣で斬る」
——『シンプルだね。いいと思う。でも、角に近づくのが一番難しいんでしょ?』
「うん。だから、翼を貸して。私の風魔法と合わせて飛ぶ」
——『分かった。……八年ぶりだね、二人で飛ぶの』
ステラの声が少しだけ柔らかくなった。
「エルナ」
「はい」
「私が角に向かう。その間、イグニスの注意をできるだけ引きつけてほしい。無理はせず、最低限の火球でいいから」
「分かりました」
エルナが槍を構え直した。消耗しているはずなのに、目に力が戻っていた。
「お姉ちゃんの分まで——」
小さな決意の声が私の耳に届いた。
* * *
イグニスが体勢を立て直した。
まだ動きは鈍いが、それも長くは続かない。今が最大のチャンスだった。
「——行きます!」
エルナが走った。
イグニスの正面に向かって、槍を構えたまま突っ込んでいく。
「こっちよ!」
エルナが叫びながら、火球を連射した。一発、二発、三発。イグニスの顔面に向けて撃ち込む。鱗に弾かれるが、眩い閃光と爆音がイグニスの注意を引いた。
イグニスの首がエルナの方を向いた。
今だ。
私は風を足元に叩きつけて跳んだ。同時に、背中のステラの翼が広がった。
——飛翔。
風と翼が私の身体を空へ持ち上げた。ステラの翼は私には十分には扱いきれないが、風魔法と組み合わせることで十分な高度と速度が得られた。
イグニスの背中の上を滑るように飛ぶ。漆黒の鱗が眼下に広がっている。首筋に沿って加速する。角が見えた。右の角。まっすぐに天を突く、黒い角。
——あと八メートル。
イグニスが私に気づいた。首を捻じってこちらを向く。
——あと五メートル。
頭部が横殴りに振られた。
今までならここで弾かれていた。けれど今は——ステラの翼がある。
翼が羽ばたき、私の身体を斜め上に跳ね上げた。イグニスの頭部が空を切る。その上を越えて、角の真横に到達した。
——『今!』
ステラの声に応えるように懐から魔封印を取り出し、角に叩きつけた。
「——"アルタ・グラキエス"!」
私の改変により、変化した魔法名を叫ぶと魔封印が溶けるように消えた。
青白い——いや、深い藍色の光が弾けた。
凍結が始まった。
角を中心に、半径五メートル程の範囲に、氷が広がっていく。漆黒の鱗が白い霜に覆われ、表面にびしびしと亀裂が走った。
凍った範囲には氷の白椿——ステラの意匠になっている花が美しく咲き誇っていた。
凍結は表面で止まらない。書き換えたループ処理が機能し、氷が鱗の内側へと浸食していく。
イグニスが咆哮した。痛みなのか怒りなのか、凄まじい叫びが空気を震わせた。首を振って私を振り落とそうとする。
私は翼でイグニスの背から足を離し、角の様子を確認する。
急冷された角の表面には霜が張り、根元の鱗で覆われた部分は細かな亀裂が走っている。
ステラの属性剣を振りかぶった。
——『アリア!』
ステラの声。
冷やされた角に必要なのは熱だ。
急冷された物体に急激な熱を加えれば、内部と外部の温度差で構造が崩壊する。
意識を集中する。
ステラを最強と言わしめた属性剣の特徴、それは全属性の付与。イメージし、右手の剣に火属性を宿す。
さらに、私の妖狐の狐火を注ぎ込む。高耐久なサラの属性剣だからこそ可能な荒業。
白銀の刃が赤熱する赤色に変わった。狐火の炎が刃の表面を舐め、冷えついた周囲の空気の中で、白い蒸気が噴き上がる。
「——はああああッ!」
炎を纏った属性剣を、凍って脆くなった角の根本に振り下ろした。
氷と炎が同時に弾けた。
冷却と加熱の温度差が、鱗を破壊し、角の内部まで一気に走った。今までの戦いで一度も感じなかった、確かな手応えを感じた。
だが——まだ折れない。
角は太い。根本は特に頑丈だ。氷で脆くなり、亀裂が入っても、一撃では折りきれない。
イグニスの首の振りがさらに激しくなり、角から剣が抜けてしまう。
——もう一撃…もう一撃だけ!
「——ステラ!」
——『うん!』
背中の翼が、大きく羽ばたいた。
その力で、崩れかけた体勢を立て直し、今練れるだけの魔力を全てに右手に集めた。ステラの属性剣がその全てを受け止めて、刃が輝きが更に増す。
赤熱する赤から、白へ、そして限界を突破するかのように金色へ。
二撃目。
力強い羽ばたきで近づき、一撃目で刻んだ亀裂の、同じ場所に、同じ角度で振り下ろし、
——ズバッ!
そのまま振り抜いた。
根本から切り離された右の角が宙を舞った。黒い破片が散り、角は地面に落ちて砕けた。
イグニスの咆哮が、それまでとはまるで違う音に変わった。
苦悶。
二本の角を両方失ったイグニスの身体から、黒い靄が噴き出し始めた。
巨体が揺らいだ。前脚が折れるように崩れ、イグニスが地面に倒れ込んだ。地響きが広場全体を揺らした。
まだ死んでいない。
イグニスは地面に伏せたまま、首だけを持ち上げた。口の中で、赤い光がちらちらと明滅している。最後の足掻き。弱体化した身体で、それでもなお、ブレスを吐こうとしている。
私は角から飛び降りた。着地の衝撃が膝に走った。身体が重い。魔力がほとんど残っていない。剣を握る手が震えている。
「エルナ!」
「——はい!」
走ってきたエルナも満身創痍だった。しかし、穂先に彼女の意志を表すように煌々と炎が燃えている。
——『アリア。終わらせよう』
ステラの声。翼の温もりが、少しずつ薄くなっていくのが分かった。
「——これが、最後」
私は属性剣を構えた。エルナが槍を構えた。
イグニスの口が開いた。弱々しい、けれど最後の炎が喉の奥に灯っている。
同時に駆けた。
エルナの炎の槍が、イグニスの喉を突いた。穂先が脆くなった鱗を突き破り、喉の内側に到達した。炎が内部で炸裂し、イグニスの首が衝撃で持ち上がる。
イグニスの口からは煙だけが漏れた。
私はイグニスの胸部に向かって跳んだ。ステラの翼が最後の力で私を加速させる。
未だ金色の輝きを保っている属性剣に、ダメ押しとばかりに残り全ての魔力を込めた。
——咲良。
——八年間、待たせてごめん。
——一緒に終わらせよう。
「——ッ!」
属性剣を、イグニスの胸部に、突き立てた。
力の核があった場所に、刃がまっすぐに沈んでいく。そして、剣先が力の核に到達した瞬間、私は叫んだ。
「——"リベラ"!」
剣に込められた魔力が爆ぜた。
白と金の炎が、核を中心に爆発的に広がった。胸部の内側から灼熱が溢れ出し、漆黒の鱗を内側から焼き砕きながら、一直線に背中へと突き抜けていく。イグニスの胸から背へ、白金色の光の柱が貫通した。
イグニスの身体が、一度だけ大きく震え、そのまま固まり——
そして、—崩れ始めた。
漆黒の鱗が砂のように崩れ、黒い靄になって散っていく。巨体の輪郭が薄れ、溶けるように消えていく。首が、翼が、尾が、順番に靄に変わっていった。
最後に残ったのは、ぼろぼろになった胸部の核だけだった。
黒く脈動していた核が、一度だけ弱々しく光って——砕けた。
黒い靄が空に散り、風に攫われていく。
灰色だった空に、ほんの少しだけ、青が戻り始めていた。
* * *
静寂が降りた。
広場の中央に、ノクサの姿はもうなかった。
焦げた地面と、砕けた角の破片と、散り散りになった黒い靄の残滓だけが、そこにあったものの痕跡を残していた。
私は膝をついていた。
立っていられなかった。魔力が空っぽだった。身体中が痛い。指先まで震えている。ステラの剣はまだ右手に握られていたが、刃の光は消え、白銀の色だけが静かに残っていた。
背中の翼の温もりも薄くなっていた。消えかけている。
「——アリアさん!」
エルナが駆け寄ってきた。槍を放り出して、私の肩を支えた。
「大丈夫ですか!」
「……うん、大丈夫」
大丈夫ではなかった。けれど、生きている。
遠くから足音が聞こえた。たくさんの足音。
「奏——!」
直樹の声。
「奏!」
由衣の声。
八人が、全力で走ってきていた。
私は、それを見ながら、笑った。
笑えた。
みんな、無事だ。
「——エルナ」
「はい」
「君のお姉さんに、お礼を言わないと」
エルナが私を見た。
琥珀色の瞳が揺れていた。
「——はい」
手の中のステラの剣が、淡く光っていた。
消えかけている光。けれど、まだ温かい。
——『アリア』
ステラの声が、かすかに聞こえた。
——『少しだけ話そう?』
「——うん」
私は剣を胸に抱いた。
思念空間の灰色が、少しずつ、薄くなり始めていた。




