第7話 必要な一手
身体が重い。
まだ戦い始めて間もないのに、魔力の消耗が想像以上に早い。イグニスを一時的に拘束したときの消費が響いている。
八年のブランクもあるのだろう。身体の動かし方、魔力の配分、戦闘の緊張感。至らない要素は挙げればキリがない。
「アリアさん、あれの攻撃パターン、八年前と同じですよね」
エルナが私の隣に並んで、イグニスを見据えながら訊いた。
おそらく組織のデータベースで管理されていた情報を読み込んできているのだろう。
「うん、過信は禁物だけど、同じと考えていいと思う。爪や尻尾での肉弾戦が基本で、ブレスは通常と全力の二種類。通常のブレスは予備動作が短い。全力のブレスは撃たれたらイグニスの後ろか上方向に回避。それ以外は私が指示を出す」
「全力のブレスは……あれから撃ってきてませんよね」
未だに地面が融解している方をちらりと見ながらエルナが問う。
「うん。あいつにとっても消耗が大きいんだと思う。でも、油断せずに予備動作を見極めて」
エルナが小さく頷いた。
「角を折れば弱体化するはず。狙いは角一択。問題は…」
「どうやって近づくか、ですね」
「あいつに氷が効くのは間違いない。体内に莫大な熱を抱えてるから、急激に冷やされると動きが鈍くなって、角の根元を覆う鱗も脆くなるはず。でも——」
「魔封印は一枚きり。他に氷の魔法の手段はない…」
「あの魔封印をどのタイミングで、どう使うかが全て。確実に角に届く状況を作ってからでないと、無駄になる」
エルナが唇を引き結んだ。
イグニスが再び動き出した。
地面を揺るがす足音とともに、巨体がこちらに向かってくる。
* * *
前脚が振り下ろされた。
横に飛ぶ。着地と同時に刀を構え、イグニスの脇腹に斬りかかった。
鱗の表面を刃が滑る。傷にならない。
尾が来た。地面すれすれを薙ぐ軌道。跳んで躱す。
着地した瞬間にもう片方の前脚が横殴りに来た。
「"スクード"!」
青白い障壁が弾けるように展開し、前脚を受け止めた。衝撃で三メートルほど押し戻されたが、耐えた。
——連続攻撃の間に隙がない。
エルナが側面から火球を撃つ。イグニスの注意が一瞬逸れた。その隙に懐から離脱。
息が荒い。先ほどからこの繰り返しで、決定打に欠けている。
風と障壁に同時に魔力を回しながら戦い続けるのは、想像以上に消耗する。
再び距離を取って呼吸を整えた。
私が角に近づくたびに、イグニスは正確に弾き返してくる。頭部の横殴り、首の旋回、通常ブレスの威嚇射撃。角への到達をあらゆる手段で許さない。
私は側面に回り込み、後脚の付け根に刀を走らせた。鱗に白い線が入る——やはり浅い。妖狐の力で威力は上がっているはずなのに、テネブラ級の防御は桁が違う。
氷で凍らせれば鱗は脆くなる。それは確信している。けれど氷の魔法は一枚きりだ。角に到達できない状態で使っても意味がない。
あと一手。角に到達するための、決定的な一手が足りない。
喉が光った。通常ブレス。
「"スクード"!」
障壁が炎の奔流を受け止めた。横に動いて射線から逃れる。
イグニスが前脚を踏み込み、鉤爪が迫った。風で飛んで躱す。着地のたびに脚の力が少しずつ削られていく。
——このペースだと、私の魔力が先に尽きる。
* * *
どれくらい戦い続けただろう。体感では十分。実際にはもっと短いかもしれない。
風で加速して首筋まで駆け上がろうとするたびに、イグニスは正確に私を弾き返した。もう何度試したか分からない。角まであと五メートルというところで毎回叩き落とされる。
あと一手。何かがあれば道が開ける。
エルナの牽制は的確だった。火球で注意を逸らし、私が弾かれたときに時間を作ってくれる。だがエルナ自身も消耗が進んでいる。火球の頻度が落ち、一発あたりの炎が弱くなってきていた。
私の身体も限界が近づいている。息が上がり、視界の端がぼんやりと霞み始めていた。
——そして、ついに均衡が崩れた。
エルナからの火球の牽制が途絶えた。
私は咄嗟に障壁を展開したが無詠唱、かつ魔力も不十分。
イグニスの尻尾が障壁を突き破って私の身体を直撃した。
「——ッ」
衝撃が全身を叩き、視界が白く飛んだ。身体がそのまま後方へ吹き飛ばされていき、体育館の外壁に背中から叩きつけられた。
「——カハッ!!」
衝撃が肺の空気を全部押し出した。骨が軋む音が頭蓋の内側で響いた。口の中に鉄の味が広がった。
壁に背中を預けたまま、ずるずると地面に崩れ落ちた。
——痛い。
純粋に痛い。
ここまでの痛みはいつぶりだろうか。
脳裏にそんな場違いな問いが浮かんで、自分でも思わず笑いそうになった。代わりに血を吐いた。
視界の隅にエルナの姿が見えた。
エルナは片膝をついていた。肩で大きく息をしながら、槍を杖にして身体を支えている。
無理もない。最初は一人で戦っており、身体の怪我に魔力の消耗。限界はいつ訪れてもおかしくなかった。
立ち上がろうとするが、まともなダメージを受けた衝撃で脚が言うことを聞かない。
頭を上げると、灰色の空を背景に漆黒の巨影が迫ってきていた。
影の主であるイグニスの巨大な前脚が持ち上がった。
鉤爪が私に向けて振り下ろされようとしている。
——逃げなければ。
分かっている。分かっているのに、脚が動かない。
風魔法で、せめて横に転がるだけでも——
「——奏!!」
直樹の声だった。
「奏、逃げろ!!」
悲鳴のような声だった。
イグニスの動きが止まった。
鉤爪を振り下ろしかけた姿勢のまま、首だけがゆっくりとそちらを向く。
直樹の声のした方向——体育館の前に立つ、八人の方向へ。
「——なんで」
私は声を漏らした。
* * *
体育館の一階出口から、人影が走り出てきた。
直樹。悠真。徹さん。
その後ろから、由衣。亜梨沙。翔真。真凜。教授。
全員だ。全員が外に出てきている。
「なんで——!」
叫んだつもりが大きな声は出なかった。
なんで出てきた。地下にいろと言ったのに!
何かできることがあるのではと考えたのかもしれないし、地下が崩落するのではと考え悩んだ末に出てきたのかもしれない。
何かしらの理由はあったのだろう。しかし、そのタイミングは私の命を救う最高のタイミングであり、みんなの命が危険にさらされる最悪のタイミングでもあった。
私の目の前でイグニスが鉤爪を下ろし、同時に口を開いた。
喉の奥で光が灯り始めた。
光が大きい。喉全体が赤く脈動し、胸部の鱗の隙間からも光が漏れ始めている。鉤爪が届く距離でのその予備動作は、空気そのものの震えを錯覚するほどのプレッシャーだった。
——煉獄砲
照準は私だけではなく、研究室のみんな。
(避けられない!)
「ここで守れなかったら…私は!」
私は身体の痛みを無視して立ち上がり、みんなの方向へ走りだした。
「我は守護を体現するもの——」
八人の前に立ち、全員の顔が見えた。私のひどい恰好を見てか、直樹が何か言おうとしている。由衣の顔が青ざめている。真凜が口を両手で覆っている。
「砕けぬ壁よ、越えられぬ砦よ——」
詠唱は止めず、イグニスに向き直る。
「千の刃を退け、万の禍を鎮めよ——」
イグニスの口が開いた。喉の奥から灼熱の光が溢れ出す。
「一切の災禍を隔てる不滅の誓い——」
間に合え。
「——"アエギス・ディヴィーナ"!」
障壁が展開した。
今までのスクードとは全く異なる。詠唱によって守護の概念を100%引き出した最大強度の障壁。青白い光の壁が私の前方に広がり、八人の全員を覆うように半球状に展開された。
同時に背後に温度遮断の結界を張る。こちらは瞬間的に無詠唱だが、並列処理で二重の障壁を展開する。
直後、ブレスが来た。
世界が白く発光した。
* * *
熱。
障壁の向こう側で空気そのものが燃えている。通常のブレスとは桁が違った。
オレンジ、赤、白。全ての色が溶け合って、もはや色という概念が意味を失うほどの灼熱が、障壁の表面を叩いている。
正面の障壁は耐えていた。詠唱を完了させた最大障壁は初期魔法の位置づけであるスクードとは次元が違う。
だが——長くは持たない。
ぴし、と乾いた音が走った。
障壁に亀裂が入り始めている。ガラスが割れる直前の、硬くて小さな音。それが枝分かれしながら広がっていく。
魔力の流れを脳裏に展開する。正面の障壁は守護の式の中核、構造の根幹部分に修復不可能な亀裂が入っている。
「……っ」
歯を食いしばる。
奥歯の軋む音が自分の頭蓋の中で響いた。
ブレスの持続時間が長い。八年前でも耐えられなかったブレスだ。
魔力が底上げされていても、このままでは砕ける。
砕けた後の炎を、背後の温度遮断結界では防ぎきれない。
ほんの一瞬で、皆の身体が灰になる。
「——駄目、だ」
唇が乾ききっていて、声はかすれた。それでも、頭の内側ではっきりそう叫んでいた。
それだけは、駄目だ。
考えろ。
生き残るために。
勝つために。
守るために。
思考を止めるな。
——ひとつ、方法がある。
発動済みの魔法式そのものを書き換え、正面の障壁までとはいかずとも、背後の結界を残りの炎ぐらいは防ぐことが可能な障壁魔法へと差し替える。
ゼロから組み直すよりは早く、何より悩む時間もない。
「……やるしかない」
振り向き、背後の温度遮断結界に左手だけを伸ばす。この結界の魔法式を走査して、守護障壁の式に書き換える。急いで張った即席の結界だ。内部構造が荒い。
構造を読み取る。変数を確認する。書き換え先の式を頭の中で組み立てる。
前方の障壁の亀裂が全面に広がっていき、ばきばきと音が大きくなる。あと数秒で砕ける。
書き換えは——まだ終わっていない。
焦りが募ったそのとき、
ばりん!
前方の障壁が砕けた。
青白い光の破片が散り、一瞬の空白が生まれ、そして——炎が来た。
灼熱の奔流が視界を埋め尽くし、私の身体を飲み込んだ。衝撃が全身を叩き、足が地面から浮きかける。羽織の裾が燃え、藍色の布が炎に溶けるように崩れていく。狐耳が本能的に伏せられ、尻尾が逆立った。
熱さと痛みを知覚する、その瞬間——
白い光が、炎の中に咲いた。
私の目の前に、灼熱の渦の真っ只中に、翼の生えた一振りの巨大な剣が出現した。
イグニスのブレスから私たちを完全に守れるほどに大きな白銀の刃。柄には花の意匠が刻まれ、広げられた翼と刃の表面から白金色の光が溢れている。
巨大な魔力を放出するその剣が、ブレスの本流を真正面から受け止めていた。
炎が刃に当たり、花が咲くようにほどけて四方に散っていく。
——この剣と翼を、私は知っている。
八年前、何百回と隣で見た。あの子が振るっていた、あの子だけの剣。
「——咲良」
名前が、唇からこぼれた。
咲良、いや、魔法少女ステラの剣は何も答えなかった。ただそこに在り、炎を裂き続けている。
——今のうちに。
私は左手を結界に押し当て、書き換えを再開した。構造の走査は終わっている。残りは式の差し替えだけだ。変数を書き換え、出力を再定義し、温度遮断の式を守護障壁の式に上書きする。
完了した。
背後の結界が守護障壁に書き変わり私のことも包み込んだ瞬間、前方のステラの剣が限界を迎えて砕け散った。青白い光の破片が飛び、残りの炎が流れ込んでくる。
だが、ブレスの大半は既に散らされており、残りは書き換え済みの障壁が受け止めた。
——耐えきった。
灰色の空が戻ってきた。焦げた大気の匂いが鼻を刺す。
巨大な剣は炎とともに消え、代わりに通常の大きさの一振りが、静かに宙に浮いていた。白銀の刃。花の意匠の柄。ステラの"属性剣"。
頭の中に、声が響いた。
——『ごめんね、奏。いや、今はアリアかな?遅くなっちゃった』
息が止まった。
この声を忘れるはずがなかった。八年間、夢の中で何度も何度も聞いた声。
——『少しだけ、力を貸すね』
「ステラ——」
声が震えた。涙が勝手に溢れた。炎の余熱で火照った頬を涙が伝って落ちていく。
目の前の剣がかすかに揺れた。まるで頷くように。
「ステラ、君は死んだはずじゃ——」
——『ずっとここにいたよ。あの日から、ずっと』
——『私はあいつに負けたけど、ここはあいつの思念空間だから。だから私の想いがここに残ってた』
——『アリアが来てくれるのを、待ってた。あいつを倒すならアリアだって信じてたから』
声は穏やかだった。八年前と変わらない、少しだけのんびりしたあのステラの声だった。
「——八年もずっと、一人で?」
——『うーん。正確には一人じゃなかったよ。でも——今はいいの』
涙が止まらなかった。
けれど、ステラが言うように泣いている時間はなかった。
イグニスがこちらを見下ろしている。全力のブレスを放った直後だからか、動きが少し鈍い。だが、すぐに回復するだろう。
——『泣くのは後。また一緒に戦ってくれる?アリア』
ステラの声が凛と響いた。戦いの中のいつもの彼女の声。
私は涙を袖で拭った。
「——うん」
ステラの属性剣がゆっくりと私の前に降りてきた。柄が私の手の高さに止まる。
「ありがとう、ステラ」
私は自分の刀を鞘に納めた。
そして右手でステラの属性剣の柄を握った。自分の刀とは違うのにどこか温かく、そして驚くほど手に馴染んだ。ステラの魔力が掌から腕へと流れ込んでくる。
その瞬間——背中に温もりを感じ、私の視界に白い翼の先端が見えた。
羽で包まれるような柔らかく、大きな温もり。
サラの概念魔法は、"属性剣"。そして、"翼"。
姿は見えない。けれど確かに、ステラの翼が私の背中を包んでいた。
ブレスが途切れたのを見てか、こちらに走ってきたエルナが、声を失っていた。
「——お姉ちゃんの、声……」
エルナの琥珀色の瞳から涙が一筋流れ落ちた。
「エルナ」
私は声をかけた。
「魔封印を。次の一撃で決める」
ステラの魔法が、翼と剣が手の中にある。足りなかった一手が、ここにある。
エルナは涙を拭い、唇を噛んで頷いた。
「——はい」
イグニスが吠えた。
灰色の思念空間の空がその咆哮で震えた。




