第9話 さよならと、これから
思念空間の灰色が、少しずつ薄くなっていく。
空の端から色が戻り始めている。まだ灰色が支配的だけれど、所々に青の欠片が覗いていた。イグニスが消えたことで、この空間を維持する力が失われつつある。
あと何分もつか、分からない。
私は膝をついたまま、右手に握ったステラの剣を見つめていた。微かな温もりだけがまだ残っている。
そのとき、ほとんど消えかけていた刃の光がふわりと広がった。
白金色の淡い光の中に、人の輪郭が浮かび上がった。
光の粒子でできた半透明な姿。
そして、その姿はステラ、咲良であった。
白い戦闘服。長い髪。穏やかな目。背中には白い翼が折りたたまれている。
八年前と変わらない、十六歳のままの姿。
「咲良…」「お姉ちゃん…」
咲良はまず私の方を苦笑いの表情で向いたが、私も微笑みながら首を縦に振る。
私だって一応年長者なのだし、血を分けた家族が先だろう。
——『芽衣。こっちにおいで』
エルナの——芽衣の足が、一歩、前に出た。
そして、もう一歩。
「お姉——ちゃん——」
芽衣の声が涙に濡れた。
膝が折れ、地面にへたり込んで、そのまま子どものように泣き始めた。
咲良がしゃがんだ。透けた手を芽衣の頭にそっと置き、愛おしそうな表情でゆっくりと撫でた。
——『大きくなったね、芽衣。まさか魔法少女になっちゃうなんて』
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
——『強くなった。本当に強くなった。お姉ちゃん、びっくりしちゃった』
「お姉ちゃんッ! 私——ずっと——!」
——『知ってるよ。ずっと見てた』
芽衣の肩の震えが、ほんの少しだけおさまった。
——『芽衣、私がいなくなった後の家族を支えてくれてありがとうね。お姉ちゃん、すごく嬉しい』
「お姉ちゃんがいなくなってから——私——ずっと強くあらなきゃって!」
——『うん。でもね、芽衣。ずっと強くなくてもいいんだよ。泣きたいときは泣いていいし、甘えたいときは甘えていい。お姉ちゃんの分まで頑張らなくてもいいの』
芽衣が顔を上げた。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
——『芽衣の人生は芽衣だけのもの。芽衣は芽衣のままで、十分なんだよ』
芽衣が、声を上げて泣いた。
もう言葉にならない、ただの慟哭だった。
咲良は微笑みながら、しばらく芽衣のそばにいた。透けた手が何度も芽衣の頭を撫でるように動いた。
やがて、咲良が私の方を見た。
——『ごめん、奏。待ってもらっちゃったね』
「ううん。いいよ」
——『芽衣。少しだけ、奏と話させて?』
芽衣は、しゃくり上げながら頷いた。
立ち上がり、よろめきながら数歩、後ろに下がった。
咲良が、私の前に立った。
* * *
二人きりになった。
正確には芽衣が数メートル後ろにいるし、遠くでは研究室のメンバーたちがこちらを見ている。けれど、咲良と私の間に流れる空気は、二人だけのものだった。
咲良は私の記憶にあるままの穏やかな目で私を見ていた。
「——久しぶり」
私が言った。情けないほど、声が震えていた。
——『うん。久しぶり。八年ぶり』
「——咲良、ずっと謝りたかった。私の力が足りなかった。咲良が私なんかを庇ったせいで…」
——『奏、そんなことはないよ。力が足りなかったのは私も同じ。それに庇ったのは私が望んだことで、奏が気にすることじゃないんだよ』
「でも!誰よりも強かったのに咲良は死んでしまった!!」
私は思わず叫び返した。思わず溢れ出た感情と同時に、涙も溢れ出てきた。
「私を庇わなければ咲良は死なずに済んだ!!私が咲良を殺したようなものだよ…!」
生者として死者の前では言ってはいけないと分かっていた。しかし、八年間自分の中で抱えてきた思いを、後悔を、歪んだ願望を押さえつけることはもうできなかった。
「咲良だけを死なせるくらいなら、私もあの時死にたかった…!!」
——なぜ私は生きているのか。
その問いが私の心の中には常にあった。大切だった人の命を犠牲に生きている。考えれば考えるほどわからなかった。なぜ私よりも輝いていた彼女が死んで、私が生き残っているのか。
死ぬほど死にたかった。
しかし、それは彼女の行為を最も無駄にする行為だと理解していたから、実行することだけはしなかった。
答えの出ない問い、もう戻れないあの日の後悔。私はいつしか現実に対する熱を失ってしまい、仮面を被って、誰にも心配をかけない自分を演じるようになった。
私は誰にも明かしたことのない本心をさらけ出し、溢れ出す涙と自己嫌悪でまともに咲良の顔が見れなかった。
咲良が近づいてきた。
透けた指先が私の顎に触れたのを感じ、そっと顔を上げると
——咲良の唇が、私の唇に重なった。
「——ッ!」
(「「「「——ッ!!」」」」)
驚きで頭が真っ白になると同時に、敏感になった魔法少女の感覚は、私の背後で息を呑む研究室メンバーと顔を覆う芽衣の様子をしっかり捉えてしまった。
ゆっくり私から離れていく咲良は私を見て言った。
——『ねぇ、奏。私、奏のことが好きだよ』
突然の告白に言葉を返せない私に咲良は言葉を続ける。
——『それともう一つ、奏が男の子だってこと、実は知ってたよ』
「——え?」
続く咲良からの驚きの発言に私は完全に混乱してしまった。
(一体いつから…!?そんな素振りあった…!?)
——『最初に会ったとき、覚えてる?翼の練習で落ちかけた私を風魔法で助けてくれたとき』
思考がうまくまとまらないが、咲良からの言葉に反射的に当時の情景が思い出される。
忘れるわけがない。まだ飛行に慣れていなくて落ちそうになった咲良を偶然見かけ、咄嗟に風魔法で支えた。
——『あの時、女の子だったのに奏がすっごくかっこよく見えた』
それは私の方だ。綺麗な翼で空を飛ぶ君に、私の方こそ一瞬で目を奪われた。
——『それからどうしても気になって、飛行練習に付き合ってほしいって半ば無理矢理お願いしたよね』
男であることは機密情報だったから、任務以外で他の魔法少女に関わることはしてこなかった。最初は断っていたが、それでも咲良の熱量、何よりも私自身が彼女に興味を持ってしまった。
——『奏からは私が飛ぶときのサポートをしてもらって、私からは奏に戦い方を教えたよね』
私の魔法は戦闘向きではなかったこともあり、戦闘技術に関してはからっきしだったのだ。そして、お互いが助け合う形で気が付いたら最高の相棒になっていた。
——『あれだけ会ってて、本名も教えていたのに、変身前の姿だけは絶対見せなかった。——ごめんなさい、奏のことがどうしても気になって、1回だけ魔法少女のお仕事終わりに奏の後をつけたことがあるの。そしたら奏が入った部屋から、雰囲気だけはよく似た男の子が出てきた。私は何が何だかわからなかったけど、それから会話していく中であの男の子が奏なんだって確信した』
「なんで——何も言わなかったの」
——『だって、奏が、組織の上の人たちが何も言わないなら私から言う必要がなかったから。奏は奏だもん。男でも女でも、魔法少女でもそうでなくても、奏は奏。それだけでよかった』
再び目の奥が熱くなった。
——『ちょっとほっとしたんだよ、実は。友だちとしての好きなのか、女の子に恋したのか、自分の気持ちがわからなくて。男の子だって分かって——ああ、普通に恋してるんだ、って』
「——恋」
——『うん。私は奏のことが好き』
二度目の告白の声は穏やかだった。
その言葉は、重みを持って胸に落ちてきた。
「でも…だけど…!私が咲良を殺してしまった!魔法少女として戦うという償いからも逃げたんだよ!そんな私に咲良の気持ちに応える資格なんてないよ…」
咲良の死は私を庇ったことが引き金となった。その後に魔法少女だって辞めてしまった。これは変わらない事実だ。
——『私が本当に怖かったのは、奏が死ぬことだった。奏が生きてくれさえすれば、それでよかった』
「……」
——『あのとき、奏が危ない!って思って気が付いたら反射的に身体が前に出ていたの。それとも、奏は私が危なくなったら、守ってくれないの?』
「そんなことない!——あ…」
ちょっといじわるそうに問いかける咲良に対して、私は反射的に答え、自分の気持ちに気が付いた。
——『そういうこと。だから、私の選択に後悔はない。あなたに後悔してほしくもない』
私たちは、同じ想いだったのだ。
——『ねぇ、まだ返事を聞いてないんだけど?』
少しずつ胸が軽くなっていく気がした。
「私も——僕も——」
声が詰まった。
「僕も、咲良のことが好きだよ。気づいたのは——いなくなってからだったけど」
——『遅いよ、ばか』
咲良が笑った。
咲良の瞳からは涙が静かに零れていた。でも、その笑顔は誰よりも眩しく見えた。
「ごめん」
——『ううん。言葉にしてくれただけで、嬉しい。八年かかったけど』
「……ずるいよ。そんな言い方」
——『ずるいのはお互い様でしょ。八年もこっちで待たせて』
私も笑った。泣きながら笑った。
「八年間、ずっと苦しかった」
——『知ってる。見てたから』
「咲良がいなくなってから、何もできなかった。何も決められなかった。流されて、生きてきた」
——『全部分かってる。奏はずっと投げ出さずに背負ってくれた』
咲良の声が静かに、けれどはっきりと、響いた。
——『だから、八年間ずっと背負ってきたもの、もう下ろしていいんだよ』
その言葉を聞いた瞬間、ずっと胸に空いていた穴に風が吹いた気がした。
再び涙が溢れ出した。
脚から力が抜け、膝をつくと同時に、嗚咽が漏れだす。ずっと蓋をしていたものが、全部溢れ出してきてしまいそうになる。
咲良の透けた手が、私の頬に触れ、そこに温もりを感じた気がした。
——『泣いていいよ。今は泣いていい』
その言葉を聞き、僕は膝をついたまま、子どものように泣いた。20歳を過ぎて、男が人前で泣くなんて恥ずかしすぎたが、今だけは止められなかった。
* * *
どれくらいの時間が経ったか分からない。
やがて、涙が止まった。もう出るものがなかった。
私は顔を上げた。
涙で目元は真っ赤だろうし、ひとしきり泣いたことで恥ずかしさも押し寄せて、顔は真っ赤だろう。
そんな私を見てか、咲良が笑っていた。
咲良の涙も止まっており、いつもの少しだけのんびりした穏やかな笑顔だった。
空の灰色が、さらに薄くなっていた。
青が広がり始めている。思念空間が閉じようとしている。
咲良の輪郭も、薄くなり始めていた。
「——咲良。もう、時間?」
——『うん。思念空間が解けたら、ここにはいられなくなる』
「やっぱり消えちゃうの…?」
——『消える、というのとは、少し違うかも。形が変わるだけ。私の想いは消えない。ただ、こうして声を出したり、姿を見せたりすることは、もうできなくなるかな』
「……」
——『でも、なくなるわけじゃないよ。奏の中に、ずっといる。芽衣の中にも』
咲良の姿が、光の粒子に変わり始めていた。足元から、少しずつ。
「咲良、僕はこれからどうしたらいい?」
僕はこれからどうするべきか。咲良に背負ったものは下ろして良いと言われても、そう簡単に何かが見つかるわけでもない。藁にもすがる思いで聞いた質問の答えは——。
——『どうしたらいい、って。私にはわからないよ、そんなの』
咲良が笑った。しょぼくれた私を見かねてか、彼女は続けて言葉を発した。
——『じゃあ、ひとつだけ。お願いしていい?』
「なに?」
——『これからも生きて。自分で選んで、自分の足で立って歩いて。奏らしく、ね?』
「——僕らしい生き方は分からないけど、分かった」
咲良の身体が、胸のあたりまで光に変わっていた。
残っているのは、顔と、両腕と、翼の先端だけ。
——『あと、もうひとつ』
「うん」
——『芽衣のこと、よろしくね。あの子、強がりだけど、本当は甘えたがりだから』
「……分かった」
——『奏の研究室のみんなも、いい人たちだね。特にあの教授、ちょっと面白い人。気に入った』
「咲良……」
——『ごめん。話、長くなっちゃうね。時間ないのに』
咲良の輪郭がほとんど消えていた。光の粒子が風に舞い上がっていく。
穏やかな笑顔。
——『奏』
「うん」
——『大好きだよ』
「僕も大好きだよ。咲良」
そう言って僕は咲良に近づき、咲良の唇に自分の唇を重ねた。
咲良は目を見開き驚いた様子だったが、涙を流し、笑顔と共に言った。
——『嬉しい。ありがとう』
僕はその笑顔を生涯忘れることはないだろう。そう確信させる笑顔だった。
咲良は最後に何かを言おうとし、けれど——その声は、届かなかった。
唇の形だけが、何かを紡いで——
光になった。
金色の粒子が空に舞い上がり、風に攫われて散っていった。
咲良の剣が私の手の中で、最後に一度だけ温かく光って——そして、消えた。
手の中には、何も残らなかった。
ただ、掌の奥だけが、まだ少し熱かった。
* * *
空が青かった。
灰色は完全に消え、四月末の透き通った青空が広がっていた。太陽が白く眩しい。
思念空間が解けていた。
焦げた芝生はなかった。砕けたアスファルトもなかった。戦闘の痕跡は全て消え、蒼月大学のキャンパスが、何事もなかったかのように元の姿で佇んでいた。
ハナミズキの白い花が、午後の陽光に揺れていた。
遠くで車の走行音が聞こえた。鳥のさえずり。風に乗って運ばれてくる、誰かが淹れたコーヒーの匂い。
——現実だ。
帰ってきた。
私は広場の中央に膝をついたまま、空を見上げていた。
青い空。白い雲。四月の太陽。
空が綺麗だと、素直にそう思えた。
「奏——!」
足音と声が近づいてくる。
私は振り返った。
八人がこちらに走ってきていた。直樹が先頭で、悠真がその横で、由衣と亜梨沙が並んで、徹さんがその後ろで、翔真と真凜が続いて、教授が最後尾を駆けてきていた。
「奏!」
直樹が最初に到達した。目の前で急停止して、それから、両手で私の肩を掴んだ。
「おまっ——生きてんな!? 無事か!?」
「……うん。生きてる」
「よかった——!っていうか、そのままの姿なんだな!小さくなったなぁ!」
こんなあとでも相変わらず騒がしいやつだ。でも、直樹の目は赤くなっていた。
「奏!」
亜梨沙が飛びついてきた。勢いよく抱きしめられて、よろめいた。
「よかった、よかった、よかったあ——!」
亜梨沙は泣いていた。声を上げて泣いていた。
由衣が、亜梨沙の後ろから、私を見た。
「……おかえり」
その一言に、全部が詰まっていた。
「ただいま」
悠真が横に立った。
「研究は続けるのか?」
唐突な質問だった。こんな状況で、こんなタイミングで。
「……可能な限り、続けるよ」
「なら、良かった。月曜の輪講、発表お前の番だからな」
「ちょっと待って、それ今言う?」
「今言わないと忘れるし、お前が休んだら順番的に俺になるだろ」
悠真が笑った。いつものお調子者の笑顔だった。
徹さんが私の前に立った。
「怪我はないか」
「……流石に無傷とはいきませんが、多分大丈夫です。魔力を使い果たしたので、しばらくは動けないですけど」
「そうか」
徹さんはそれだけ言って、ぽん、と私の頭に手を置いた。
何も言わなかった。ただ、その手のひらの重さと温かさが全てを語っていた。
翔真が涙目で駆け寄ってきた。
「奏さん! すごかったです! あの、俺、見てて——すごかったです!」
「ありがとう、翔真」
真凜は少し離れた場所に立って、こちらを見ていた。
目が合った。
真凜は口を開いて、それから閉じて、もう一度開いた。
「……お疲れ様でした」
その一言の選び方が真凜らしかった。
教授が最後にゆっくりと歩いてきた。
丸い眼鏡の奥から私をじっと見た。銀白の髪を、狐の耳を、焼け焦げた藍色の羽織を、全部見て——それから、静かに言った。
「奏は奏だ」
「……」
「外側が変わっても、お前はお前だよ。さっきも言ったがな」
教授がほんの少しだけ笑った。
「今夜の飲み会は——」
由衣が口を開いた。
「予約、七時のまんまだけど」
「……まだ言ってるの」
「当たり前でしょ。就活お疲れ様会よ。今日の分も合わせて、奏単体のおかえりなさい会もやるから」
「ちょっと待って、今おかえりなさい会って追加した?」
「した」
「勝手に?」
「勝手に」
由衣が、ほんの少しだけ笑った。
「何それ」
私は笑った。
みんなが笑った。
灰色の世界は終わった。ここは色のある、音のある、匂いのある、現実の世界だった。
* * *
エルナ——芽衣は、槍を地面に突き立てて、身体を支えるようにして少し離れた場所に立っていた。
思念空間に巻き込まれた者は、戻ってきてもしばらくは現実世界との境界が曖昧になる。
まだキャンパス内の人が私たちを正確に認識できるまでは時間がかかるだろう。
私は悠真の手を借りて、芽衣の前まで歩いていった。
「芽衣」
「……はい」
「ありがとう。芽生がいなかったら、勝てなかった」
芽衣は首を横に振った。
「私は大して役に立ってません」
「そんなことない。芽生の的確なアシストがなかったら、私は攻撃をさばききれなかった」
「……」
芽衣の琥珀色の瞳が揺れた。
「アリアさん」
「うん」
「お姉ちゃんは——もう、いないんですよね」
「……姿は消えた。でも、いなくなったわけじゃない、と私は思ってる」
「……」
「咲良は、形が変わるだけだって言ってた。想いは消えないって。私の中にも、君の中にも、ずっといるって」
芽衣が唇を噛んだ。
目に涙が滲んだけれど、今度は堪えた。
「……アリアさん」
「うん」
「また、会えますか」
「もちろん。今度は戦い以外で」
芽衣がほんの少しだけ笑った。
ぎこちない笑顔だった。けれど、その笑顔には咲良の面影が確かにあった。
* * *
眩しいまでの光がキャンパスに差し込んでいた。
ハナミズキの白い花が、真っ白な光を受けて輝いていた。
私たちは並木道を研究室に向かってゆっくりと歩いていた。認識のずれが生じているうちに人目がないところへ戻らなければ、流石に面倒なことになるのは予想がついた。
銀白の髪が風に揺れる。狐の耳が春の風を捉えて動く。藍色の羽織の裾がひらひらとはためく。
芽衣は組織への報告があると言って、先に去った。
朝、ここを歩いたのがもう随分前のことみたいだった。
あのとき僕は何を考えていたっけ。
——眩しい、と思っていた。新入生たちが光って見える、と。生きることに熱を持っている人間はそれだけで光って見えるのだ、と。
今の私は光っているだろうか。
分からない。でも、少なくとも——空っぽではなかった。
胸の中に確かに何かがある。
咲良がくれたもの。みんながくれたもの。芽衣が見せてくれたもの。
それから——まだぼんやりとしているが、自分で選んだこれからの生き方。
明日からのことは、まだ具体的には何も決まっていない。
この身体でどうやって生きていくのか。大学をどうするのか。組織とどう関わるのか。咲良の想いを、どう抱えて歩いていくのか。
何ひとつ決まっていない。
でも、それでいい。
ゆっくり決めていけばいい。
自分で選んで、自分の足で、歩いていけばいい。
僕は——立花奏は、今日ようやく歩き始めた。
理学部の建物が見えてきた頃、直樹が振り返った。
「奏、階段、登れるか?」
エレベーターは監視カメラがある。利用は避けたい。かといってこの年で抱っこは流石に恥ずかしくて、ここまでは意地で歩いてきたが、正直体力は限界だった。
「ゆ、ゆっくりなら…」
「しょうがない、手は引いてやるから」
銀白の髪が春の風に翻り、藍色の羽織の裾が柔らかくはためいた。
何気ないやり取りに狐の尻尾が嬉しそうに揺れていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第1章はこれで完結となります。
第2章以降も構想はありますので、お待ちいただければと思います。




