第5話 賭け
通路に入ると、アリーナの明かりが背中側に遠ざかった。
薄暗い。さっき僕が寝かされていたマットがそのまま床に敷かれている。壁はコンクリートの打ちっ放しで、天井のパイプが低く這っている。控え室のドアは閉まっていて、その向こうは真っ暗だった。
振り返った。
通路の入り口から、アリーナの光が四角く切り取られて見える。そこに八人のシルエットが重なっていた。こちらを見ていることだけが分かる、暗くて遠い人影。
それだけを確認して再び前を向き、通路の奥まで数歩進んだ。
* * *
手に握ったナイフから刃を折り出す。かちん、と小さな金属音が通路に反響した。
模型工作用のホビーナイフ。刃渡りは短い。心臓まで届くかどうかは分からない。ただ、刃は薄く鋭い。肋骨の間に差し込めば——届くはずだ。
右手でナイフを持ち、左手でジャケットのボタンを外した。シャツの前を開く。素肌が通路の冷たい空気に触れた。
左胸に右手のナイフの先端を当てた。
肋骨の間。心臓の位置は研究で散々扱ってきた人体解剖の知識が正確に教えてくれた。皮肉なものだ。
刃先が肌に触れている。まだ刺さっていない。ほんの少し力を込めれば、皮膚を割いて、筋肉を裂いて、肋骨の間を通って——心臓に届く。
怖い。
みんなの前ではあのように言ったが、怖くないわけがない。
手が震えている。指先だけじゃない。肘から先、肩から先、全部が震えている。
失敗すれば死ぬ。
成功しても、僕という人間はもう元には戻れない。
それでも。
——ここで動かなければ、僕は一生後悔するだろう。
目を閉じた。
八年前の冬を思い出す。
咲良の背中。白と金の翼。僕を庇って炎の中に立った、細い肩。
——『先に、行くね』
——『ありがとう、奏。あなたと出会えてよかった』
咲良。
僕は八年間、君がくれた命で過ごすことができた。
その命の使い方をようやく見つけた。
目を開けた。
震えは止まっていた。
「——」
ナイフを、押し込んだ。
* * *
痛みは一瞬遅れてやってきた。
最初に感じたのは圧迫だった。胸の内側に異物が入り込んでくる、鈍く重い感触。皮膚が裂け、筋肉の繊維が刃に分けられ、肋骨の隙間を刃が通り抜けていく。骨に当たらないよう角度を保つ——その意識だけが、妙にはっきりしていた。
そして。
刃先が心臓に触れた。
——ドクン。
心臓が一度だけ大きく跳ね、直後にすべての拍動が停止した。
世界から音が消えた。
遠くで鳴っていた地鳴りも、自分の呼吸も、うるさいぐらい鳴っていた心音も、全部が一瞬で途切れた。
代わりに胸の奥で何かが目覚めた。
封印だ。
心臓が止まったことで、八年間眠っていた封印が作動し始めている。妖狐の力を消し去ろうとする魔法少女の力が、心臓の奥から表面へと這い上がってくる。
——今しかない。
膝が崩れた。そのまま床に倒れ込みそうになる。左手で身体を支え、右手はまだナイフの柄を握っている。視界が暗くなっていく。脳に酸素が届かなくなっている。あと何秒意識を保てるか分からない。
口を開いた。
声が出ない。
肺に空気を送るポンプが動いていない。肺の中に残った空気だけで声を絞り出す。
唇が動く。舌が震える。喉の奥からかすれた音が漏れた。
「——畏み畏み申す——」
祝詞。
八年前に一度だけ唱えた、神使との契約の呪文。
「——天つ御座に侍る神の使よ——」
声が途切れる。
口の中に鉄の味が広がった。血だ。肺か気管に血が入り込んでいる。
咳き込みそうになるのを堪えて、残りの空気を振り絞った。
「——我が願いを——聞き届け——」
視界が白く霞んでいく。
もう何も見えない。
「——願わくば、災いを絶つ力を我が身に——」
最後の一音が、唇から零れ落ちた。
それが声になったのか、ただ息が漏れただけなのか、自分でも分からなかった。
意識が沈んでいく。
* * *
再び目を開けたとき視界は一変していた。
白い空間。上も下も左も右もない、境界のない白。足元には水面のようなものがあって、身じろぎするたびにかすかな波紋が広がった。けれど水の冷たさはなく、温度そのものが存在しない場所だった。
さっきまで倒れていたはずなのに、僕はその空間に立っていた。胸の痛みもない。ナイフもない。シャツの前は閉じられていて、血の跡もなかった。
ここは——。
「再び相見えるとは」
声が、どこからともなく響いた。
正面。
いつの間にか、三つの影がそこにあった。
一羽の烏。三本の足を持つ黒い大烏が、白い空間に浮かぶように佇んでいた。その羽は墨を溶かしたような深い黒で、三本目の足が胸の下からまっすぐに伸びている。
一頭の鹿。体毛が月光のように白く、枝角が水晶のように透き通っている。瞳は金色で、静かに僕を見ていた。
一匹の蛇。白い鱗が真珠のような光沢を放ち、とぐろを巻いた姿はどこまでも清浄で、目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
八咫烏。白鹿。白蛇。
三柱の神使。
八年前、契約のときに現れたのは一柱だけだった。三柱が同時に現れたというケースは聞いたことがない。
「立花奏」
白鹿が口を開いた。鹿の口が人間の言葉を紡ぐ、その光景は不思議で、けれど不快ではなかった。荘厳で、厳粛で、どこか優しかった。
「汝は既に、我らとの契約を断った者である」
「はい」
「なのに今、再び力を求めるか」
「はい」
八咫烏が枝の上から——枝なんてないのに、何かの上に止まっているような姿勢で僕を見下ろした。
「汝は八年前、仲間を失い、心を壊し、それでも生き延びた。その上でなお、再び力を求めるというのか」
「はい」
「なぜだ」
白蛇がとぐろの上から鎌首をもたげた。赤い舌がちろりと覗いた。
「汝の体内には妖狐が封じられている。忘れるな。我らにとっても、汝は危険因子のひとつだ。力を与えれば、妖狐の力が暴走する危険がある。それでもなお、汝に力を授ける理由があるか」
三柱の視線が同時に僕に注がれた。
冷たい視線ではなかった。けれど温かくもなかった。ただ、正確にこちらの本質を測ろうとしている目だった。
僕は一度目を閉じた。
先ほどみんなの前で言った言葉が頭の中を巡った。
「僕は、いえ、私は、私のために戦いたい」
あの言葉は本心だった。嘘はなかった。
けれど——「僕のため」とは、具体的にはどういうことなのか。
あのドラゴンを倒したいのか。仇を討ちたいのか。みんなを守りたいのか。
全部本当だ。でも、全部、一番奥にあるものではない。
目を開けた。
「……復讐のためとか、誰かを守るためとか、そういう分かりやすい言葉は、いくらでも並べられます」
声はかすれていたけれど、震えてはいなかった。
薄い表面的な言葉が通じる相手ではない。
自分と向き合え。
自分が力を求める理由を限界まで分解し、言語化する。
白鹿が静かにこちらを見ていた。
「私は、八年間、空っぽでした」
その言葉を口にした瞬間、自分の内側で何かが剥がれた気がした。八年間ずっと上に被せてきた、仮面のような、何か。
「親友を失って、力を手放して、日常に戻った。そして、大学に通って、周りに合わせて笑って、世間一般的な"良い子"を演じて——でも、ずっと、ここにいるのにここにはいない感覚でした」
「何をしても、手応えがない。フィルターの向こう側を眺めているような毎日で。それが普通だと思ってた。もう自分はそういう人間なんだと、思い込もうとしていました」
白蛇の赤い目が、微動だにせず僕を見ていた。
「でも今日、あのドラゴンを見て、記憶を掘り返されて、——ひとつ分かったことがあります」
僕は、自分の手を見た。小さな波紋が足元に広がっていた。
「八年間、ずっと苦しかった」
声が、少しだけ震えた。
「気が付かないふりをしていただけで——ずっと、ずっと苦しかった。自分で自分を殺して生きていた」
白い空間に、僕の声だけが落ちていく。
僕は顔を上げた。三柱の目をまっすぐに見た。
「私は、空っぽのまま終わりたくない」
それが一番奥にあった言葉だった。
「何も感じないまま、何も選ばないままなら、私は何のために生きてるんですか?」
「八年間、友人も、大学も、振る舞いも、全部流されてきた。自分から手を伸ばすことが怖くて、何かを求めることが怖くて、求めた瞬間にまた失うかもしれないから。だから、失ったときに痛くないように自分からは求めないようにした」
「でも、今、自分から動きたいと思った。あのときみたいに、自分の足で立って、自分の意志で選びたいと思った」
「誰かのためじゃない。正しいからでもない。ただ、もう一度、自分の人生を自分のものにしたい。」
「——それが力を求める理由です」
言い切った。
息が荒かった。胸の奥が熱い。自分でも驚くほど、ぐちゃぐちゃだった。格好悪くて、エゴイスティックで、誰かを救うような英雄には程遠い。
拒絶されても仕方がないと思った。
沈黙が長く落ちた。
やがて——白鹿が、静かに目を細めた。
「……それでよい」
声は穏やかだった。深い森の底に積もった落ち葉のように静かで、どこまでも温かかった。
「己がために力を求めること。虚ろであることを拒み、再び立とうとすること」
白鹿はゆっくりと言葉を紡いだ。
「それは、人にしかできぬことだ」
八咫烏が翼を畳み直した。
「神は完成されている。故に迷わぬ。故に渇かぬ」
白蛇がとぐろの上で、ゆるやかに首を傾けた。
「だが人は違う。欠け、迷い、怯え、それでもなお求める。自らの足で立つことを選ぶ」
白鹿が一歩、前に出た。金色の瞳が、まっすぐに僕を映した。
「その不完全さこそが、人に許された力の源だ」
「恥じることはない。その醜さごと抱えて、進め」
「我らは汝に再び力を授けよう、立花奏。ただし——」
白蛇の赤い目が、僕を射抜いた。
「汝の男としての器は、すでに死んでいる。力は新たな器に宿る。汝は二度と元の姿には戻れぬ。それを承知の上か」
「……はい」
「後悔はないか」
「ありません」
三柱が、同時に、目を閉じた。
「「「汝に救いがあらんことを」」」
そして——光が、生まれた。
* * *
光が足元から立ち上がった。
水面を割るように、金色の光の筋が幾本も噴き上がり、僕の身体を包み込んだ。
最初に変わったのは、心臓だった。
止まったはずの拍動が、新しいリズムで再開した。ドクン、と一度。ドクン、ともう一度。
次に、骨格が変わった。
肩幅が狭くなる。骨盤が広がる。手が小さくなり、指が細くなる。喉仏が消える。筋肉の質が変わり、身体全体が軽くなっていく。痛みはなかった。ただ、自分の輪郭がゆっくりと書き換えられていく、不思議な感覚があった。
髪が伸びた。
肩を越え、腰に届くまで。色が変わっていく。黒から銀白へ。視界の端で、銀色の髪が光を受けて揺れていた。
瞳も変化した。視力が強化されたのを感じ、おそらく目の色も変わっているだろう。
そして——頭の上に、ぴん、と何かが立った。
耳だ。狐の耳。
腰の後ろから、ふさりと重い感触。尻尾が生えている。
八年前、妖狐の力を引き出したときに現れていた狐の耳と尻尾。妖狐の力は魂の奥深くに結びついていて、分離は不可能だった。だから封印という形で押さえ込むしかなかった。
心臓が止まったとき、封印は解けて妖狐の力は消えるはずだったが、完全に消え去る前に私は再び魔法少女となった。
そのおかげで封印は継続されたのだろう。ただ、妖狐の力は以前よりも深く身体に馴染んでいる気がした。
身体の変化が終わると同時に、衣装が現れた。
肩の出たタンクトップ型のインナーが身体にぴたりと沿い、短めのスカートが腰から広がった。黒いタイツが脚を包む。腰の後ろには大きなリボン。
そして——肩の上から、ふわりと羽織が降りてきた。着物をベースにした軽い外装で、袖が大きく広がり、背中側の布がマントのように流れている。藍色と白のコントラスト。腰のあたりに深い切れ込みがあり、そこから尻尾が自然に通っていた。
足には軽量のブーツ。ヒールはなく、地面を蹴る動作に最適化されたフラットな底が、戦うための装備であることを静かに主張していた。
そして、左腰に——細身の刀が一振り、鞘に収まった状態で差されていた。
手を添えて、鞘の感触を確かめた。指先に伝わる重さと長さに覚えがあった。
八年前の愛刀だ。
引退したときこの刀も力と一緒に消えたはずだった。それが今こうして戻ってきている。まるで、ずっと待っていたかのように。
最後に自分の手を見下ろした。
小さくて白い女の手。
これが、私の手だ。
もう男の手には戻れない。
不思議と悲しくはなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
——力がある。
身体の芯に火が灯っている。
八年ぶりの感覚。懐かしくて、怖くて、温かい。
三柱の神使がゆっくりと姿を薄くしていった。
八咫烏が最後にひとつだけ言った。
「往け、アリア」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
——アリア。
——私のもうひとつの名前。
白い空間が砕けるように割れ、光が溢れ、私の意識は思念空間へと引き戻された。
* * *
最初に聞こえたのは、悲鳴だった。
「——ねぇ!? 奏!!」
亜梨沙の声。
目を開けた。
通路の床に倒れていた。左手が床についていて、右手に握っていたはずのナイフは手放していたようだ。
視界に銀白の長い髪が流れ込んできた。
——ああ、本当に変わったんだ。
身体を起こした。軽い。さっきまでの鉛のような重さが嘘のように、身体が軽かった。
通路の入り口に八人の顔があった。
亜梨沙は泣いていた。由衣は目を大きく見開いていた。直樹と翔真は同じポーズで口を半開きにしたまま固まっていた。悠真は眼鏡の奥の目を何度も瞬かせていた。徹さんは一歩前に出かけた姿勢で止まっていた。真凛は両手で口を覆っていた。
教授は丸い眼鏡の奥からまっすぐに私を見ていた。
「……奏、なのか」
徹さんの声がかすれていた。
私は立ち上がった。ブーツがコンクリートの床に触れて、硬い音を立てた。羽織の裾がふわりと広がり、狐の尻尾が自然にバランスを取るように揺れた。
そして、立ち上がって気づいた。視線の位置がまるで違う。さっきまで少し低い位置にあった由衣の顔を見上げている。みんなの顔が上にある。どうやら身長は当時に近づき、かなり縮んだようだ。
「はい。奏です」
声も変わっていた。
自分の口から出てきた声はあの低い男の声ではなかった。少し高く、柔らかく、けれど芯のある声。
自分の声に驚く暇もなく、私はみんなの方へ歩いた。
「約束通り、生きて帰ってきました」
亜梨沙が、声を上げて泣いた。由衣が亜梨沙を抱きしめながら、私を見てほんの少しだけ笑った。
「……あんた、本当に頑固」
私は笑い返した。
「私の頑固っぷりは知ってるんでしょ」
笑えた。八年ぶりに、心の底から笑えた気がした。
「綺麗……」
真凜がぽつりと呟いた。
その一言がなぜだか妙に胸に響いた。
教授が一歩前に出た。私の顔を覗き込むように見て、それから静かに頷いた。
「奏は奏だ。外側が変わっても、お前はお前だよ」
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
遠くでまた地鳴りが響いた。今度はさっきより近い。何かが壊れる音が混じっていた。
戦いが激しくなっている。
あの子が——一人で戦っている。
私は刀を握り直した。
手に馴染む。身体のバランスは変わったのに、刀だけは何も変わっていなかった。
「みんなはここにいて。絶対に外に出ないで」
「分かった」と徹さん。
「奏」
由衣が声をかけた。
「就活お疲れ様会、予約は七時のままだから」
私は振り返って笑った。
「遅れないようにするよ」
銀白の髪が翻り、藍色の羽織が風をはらんだ。
私は地下から階段を駆け上がり、外へと飛び出した。




