第4話 告白
冷たい床の感触で僕は目を覚ました。
最初に知覚したのは、自分が仰向けに寝ているということだった。背中の下に薄い布のようなものが敷かれていて、その下に硬めのマットみたいな感覚がある。
天井が低い。
蛍光灯はついていない。けれど薄ぼんやりとした光が、どこか遠くから差し込んでいる。光源ははっきりと分からなかった。
ここはどこだ。
身体を起こそうとした。
——重い。
身体が自分のものでないみたいに重かった。背中が冷えきっている。指先まで血が回っていない感覚。それでも肘をついて、ゆっくりと上体を起こした。
「あ、奏さん!」
すぐ近くから声が飛んできた。
真凜だった。
僕の頭の横に両膝をついて座っていた。
「ここは——」
僕の声がしゃがれていた。
「体育館の、地下です」
真凜は心配そうな目で僕を覗き込んでいた。
* * *
体育館の地下。
蒼月大学の体育館は、地下に大きな多目的アリーナがある。バスケットコート二面分くらいの広さで、普段は剣道部や柔道部が使っていたり、大学行事のリハーサルで使われたりしている。
その隅、ステージ裏の控え室に通じる通路。そこに僕は寝かされていたらしい。
「他のみんなは」
「アリーナのほうにいます。有馬先生が、奏さんは静かな場所に寝かせて、誰か一人は傍にいるように、って」
「……ごめん」
「いいえ。倒れたあと、徹さんが背負ってここまで運んでくれました」
「そっか、後でお礼言わないとだね。真凜もありがとう」
「どういたしまして」
「みんな、無事?」
「全員、無事です」
「あのドラゴンは」
「あれからすぐにここに来たので、よくは分かりません。けど、今のところは静かです」
真凜の声は落ち着いているようだけど、隠しきれない緊張があった。
「奏さんが倒れてから、十分くらい経ちました」
——あと、十分弱。
僕は唾を飲み込んだ。喉が乾ききっていて、唾液はほとんど出なかった。僕はこれからの行動を考えながら真凜に声をかけた。
「みんなのところに行こうか」
「はい」
* * *
通路を抜けてアリーナに出た。
広い空間の中央あたりに、椅子代わりの体育用マットが何枚か敷かれていて、その上に七人が思い思いに座っていた。
直樹は胡座をかいて壁にもたれていた。悠真はその隣で、膝を立てて顎を載せていた。亜梨沙は由衣に肩を寄りかかって、二人ともかなり憔悴した顔をしていた。徹さんは腕を組んで床を見つめていた。翔真はじっと何か考え事をしていた。教授は一番奥の壁際に座って、丸い眼鏡を外して指で目元を揉んでいた。
僕らがアリーナに足を踏み入れた瞬間、七つの視線が一斉にこちらを向いた。
「奏!」
最初に立ち上がったのは亜梨沙だった。
「よかった、起きた! よかった!」
亜梨沙の声は途中で泣き声になった。
「ごめん、心配かけて」
「ううん、大丈夫」
由衣が亜梨沙の背中に手を回しながら、僕の方を見た。
「立てる?」
「うん、大丈夫」
「無理しなくていいよ」
「ありがとう、でも大丈夫だから」
少し突き放したような言い方になってしまったが、今は無理をしてでも立たなければならない。
* * *
「奏、お前が倒れてる間にな——」
直樹が壁から背中を離した。
「一人の女の子と会った。あのドラゴンの方から走ってきて」
「……女の子?」
「うん。見た目は俺たちと同じ大学生くらいかな。たぶん年下だけど、すげえ気の強そうな感じ。ただ、嘘みたいに聞こえるだろうけど、身長よりも長い槍を持ってたんだよ」
悠真が引き継いだ。
「自分のことを『魔法少女』だって名乗った。エルナって名前で、あのドラゴンと戦うために来た、って」
僕の心臓が、一拍だけ跳ねた。
——魔法少女。
エルナという名前に覚えはなかった。僕の引退後に契約した新しい魔法少女だろう。
「その子がいろいろ教えてくれたんだ」
徹さんが落ち着いた声で続けた。
「ここは『思念空間』という場所で、現実世界とは違う空間だということ。あのドラゴンは『ノクサ』と呼ばれる、人間の負の感情から生まれた存在であること。俺たちが肉体ごと引き込まれていること。ノクサを倒すか、ノクサが去るまで脱出はできないということ。なるべく頑丈で安全なところに避難してほしいということ」
徹さんの記憶力と整理力はさすがだった。聞いたことを正確に要約している。最後の一言で、この建物に避難した経緯まで伝わってきた。
「その子は今、どこに?」
「その場で別れた」と直樹。「『準備がある』って言って」
「一人で?」
「一人で」
僕は黙った。
——テネブラ級に、一人。
それはおかしい。
組織が対テネブラ級の出撃命令を出すなら、必ず複数の魔法少女を編成するはずだ。一人で来させるなんてありえない。
考えられる理由は二つ。
他の魔法少女がまだ到着していないか、もしくは——その子、エルナが組織の命令ではなく、独断で来たか。
どちらにしても、状況は悪い。
テネブラ級を一人で相手にして生き残れるのは、八年前の時点でも数えるほどだった。
「奏」
教授の声がした。
僕は顔を上げた。
教授は丸い眼鏡の奥から、まっすぐに僕を見ていた。
「その魔法少女の子が話してくれたことは、私たちにとっては初耳だった。けれど——」
教授は一拍置いた。
「君にとっては、そうではなさそうだね」
「……」
「——奏は、何かを知っているんじゃないのか」
僕は教授の目を見返した。
おそらくもう時間がほとんどない。あのドラゴンが完全に実体化するまで、あと五分程度か。
ここで隠しても意味がない。
それに——これからすることを考えれば説明は必須だ。
「はい」
僕は頷いた。
「知っています。」
一度、深く息を吸った。
「——僕は、元魔法少女です」
* * *
直樹と悠真の目が同時に見開かれた。亜梨沙が口をぽかーんと開けた。由衣は表情を変えなかったが、背筋がすっと伸びた。
「すみません、奏さん、それ——」
翔真が声を上げかけた。
「男なのに、ね。本来は素質のある少女だけが選ばれるだけど、僕は例外だった」
「なんで」と由衣。
「分からない。前例がなかったみたいで。ただ素質があるのだから、ということで、特例として認められた。十歳の、小学四年の夏です」
部屋が静まりかえった。僕はみんなを見渡しながら説明を続ける。
「十六歳まで戦って、引退しました。魔法少女というのは、素質を認められた少女が神の使い——神使との契約によって、神の力をその身に宿した者のことです。僕も同じく神使と契約しましたが、引退時にその契約は解除して、力はすでに失っています」
「引退した理由は」
徹さんの声は静かだった。
「……僕が参加した最後の戦いは、ノクサが強すぎて、大切な仲間を失いました。まぁ、それが理由です」
なるべく表情に出ないように、それだけ言った。
徹さんはゆっくり頷いた。追及はしなかった。
「エルナという子が説明してくれた内容は、だいたい合ってます。いくつか補足すると——まず、ノクサは放置すると現実世界にも影響が出ます。天災という形で。討伐に時間がかかるほど被害は大きくなるし、ノクサが強いほど災害の規模も跳ね上がります。倒せば影響は最小限で済むけど、倒せなければ——最悪、大震災クラスの被害が現実に起きます」
「……最近の異常気象って」
悠真が呟いた。
「全部がそうだとは言わない。けど、一部はたぶんノクサの影響が絡んでると思う」
悠真は黙って頷いた。最近の異常気象の話題が、彼の中で繋がったのだろう。
「もうひとつ。あのドラゴンはテネブラ級と呼ばれる最上位のノクサです。普通のノクサなら魔法少女が意識だけ送り込んで戦えるんですけど、テネブラ級は強すぎて周囲の人間を肉体ごと引き込んでしまう。だから僕たちは今、肉体ごとここにいます」
「……それって、つまりここで死んだら」
由衣が低い声で言った。
「現実でも死ぬ?」
「うん」
短い沈黙が落ちた。
「で、あの子が一人で戦うってこと?」と直樹。
「今のところは」
「勝てるのか?」
僕は正直に答えた。
「魔法少女側にブレイクスルーが起きていない限りは厳しい。あのドラゴンは八年前、当時の上位の魔法少女五人で挑んでも倒せなかった」
直樹の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「……じゃあ、あの子、死ぬんじゃないのか」
「一人だとほぼ間違いなく」
そう——一人では死ぬ。
「なら! あの子がもし負けたら、そのあと、ドラゴンはここに来て……」
「魔法少女の増援が間に合わなかったら、僕たちはどうしようもないだろうね」
直樹の問いに、僕は言葉を濁しながら答えた。
そういう未来が、すぐ目の前にある。
「奏さん、今『あのドラゴン』って言いました…?奏さんはあのドラゴンのことを知ってるんですか?」
真凛が僕の細かい言い回しに気が付いた。
「——うん、知ってる。さっき話した僕の引退のきっかけになった最後の戦い、倒せなかったのがあのドラゴンだ」
しん、と落ちた沈黙の中に、息を呑む音だけがやけにはっきりと響いた。
「奏」
教授が言った。
「一般人が巻き込まれたときに、生き残る方法はないのか」
僕は少し考えたが、すぐに首を横に振った。
「一般人にできることはほぼないです。ノクサと魔法少女がスポーツカーだとすると、一般人はおもちゃのミニカーに等しい。できることは、なるべく安全な場所に隠れることだけです」
「それでも、あんな女の子に任せっきりで——何か手伝えることが!」
徹さんが思わずといった表情で声を上げた。僕はゆっくりと首を横に振る。
「隠れていること、戦いを邪魔しないこと。それが一般人にできる魔法少女への唯一の手助けです」
「そんな……」
「けどそれは一般人なら、の話です」
僕は徹さんの声に被せるように答えながら、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
指先に硬く冷たい感触が触れる。
取り出したのは、細い柄のホビーナイフだった。研究室の引き出しに入っている、模型工作用のよく研いだナイフ。外に出るとき、半ば無意識にポケットに入れていた。あのときはなぜそうしたのか、自分でも分かっていなかったけれど——。
今なら分かる。
たぶん、無意識のうちにこうなることを予想していたのだ。
ざわめきと困惑がアリーナに広がった。
「奏、それをどうする気だ」
教授の声が珍しく固かった。
僕はナイフを手のひらに載せたまま、落ち着いた声で答えた。
「僕になら、取れる手段があります」
八年間、考えないようにしてきたことだった。頭の一番奥の、鍵のかかった引き出しの中にしまい込んでいた選択肢。
「魔法少女としての力を取り戻します」
「それとそのナイフに何の関係がある」
「順を追って説明します」
僕はナイフを一度ポケットに戻し、右手を胸の前に置いた。
「僕は男の魔法少女ということ以外に、もうひとつ特殊な事情があります。体内に妖狐——端的に言えば狐の化け物の力を封印しています」
直樹が「は?」と小さく声を漏らしたが、僕は構わず続けた。
「その封印は、魔法少女の力を利用する形で心臓に施されています。現役のときは妖狐の力を転用して、魔法少女としての能力を底上げしていました。本来なら引退時に魔法少女の力は完全に失われるんですが、僕の場合は封印を維持するために、魔法少女の力だけが心臓に残っています」
教授が黙って聞いている。
「引退するとき、神使は僕の心臓の奥深くに封印を施しました。僕の心臓が止まったとき、その封印が作動して妖狐の力を完全に消し去る——そういう仕組みです。普段は何も感じとることはできませんが、心臓が止まった瞬間、封印のために魔法少女の力が表に出てくる」
「……それを利用するつもりか」
教授が、静かに言った。
「はい。心臓が止まって封印が作動した瞬間に、表に出てきた魔法少女の力に呼びかける形で神使にコンタクトします。そこで再契約を結べれば、魔法少女としての力が戻ります」
「ねえ、奏」
亜梨沙が震える声で口を開いた。
「私の理解が正しいなら、そのナイフで自分の心臓を刺すって聞こえたんだけど——冗談だよね?」
「ううん、亜梨沙の理解で合ってる」
「そんなの……!」
「奏、確認だ」
教授が冷静に割り込んだ。
「もし失敗したらどうなる。もうひとつ——成功確率はどれくらいだ」
「失敗すれば僕は死にます」
僕は一つ目の問いには簡潔に答えた。
「でも、ここで何もしなかったらほぼ確実に全員死にます」
そして、二つ目の問いにはわざと答えなかった。一パーセント以下なんて予測の数字をわざわざ伝える必要はない。
沈黙の中で、僕は続けた。
「僕は八年間、生きている意味が分かりませんでした」
遠くから低い振動が伝わってきた。コンクリートの壁を通して、足の裏にまで届くような、鈍い地鳴り。
ドラゴンが動き出したのかもしれなかった。
時間がないのは分かっていた。それでも、この場のみんなに納得してもらうために、この言葉だけは飲み込めなかった。
僕自身が戦う理由だ。
「仲間を、大切な人を失って、僕だけが生き残りました。でも、日常生活に戻ってもすべての出来事がフィルターの向こう側みたいに感じられて——ずっと、水の中を漂っている感覚でした」
——何をしても、客観的に捉えてしまう。"楽しい"と感じることはあっても、第三者視点で"楽しそうだから、楽しい"と思う。そんな感覚だった。
「でも、今もう一度あのドラゴンに出会った。ここでまた何もしなかったら——僕は本当に空っぽのまま終わる」
僕はみんなの顔を見渡した。
「みんなに助かってほしいのも事実です。現時点で魔法少女が一人しかいないのなら、正直勝てない可能性の方が高い。僕が動くことが最も助かる確率が高い手段だというのも間違いではありません。けど——今、戦う理由はそこじゃないんです」
これは僕のエゴだ。
「僕は、僕のために戦いたい」
みんなはその結果、助かる可能性が上がるだけ。
「だから、結果がどうあれ、みんなは気に病まないでください」
一際大きく地面が揺れた。教授を除く全員が一斉に天井を見上げる。
立っているのが難しいほどではないが、明らかに揺れが大きい。本格的に戦いが始まってきたのだろう。
「……奏」
教授が僕を見ていた。
「お前は周りに合わせているようで、意外と頑固な芯を持っている。どうせ、今回も考えを曲げる気はないんだろう」
「……」
「ただ——必ず生きて帰ってこい」
僕は教授を見た。
それから、直樹を見た。悠真を。亜梨沙を。由衣を。翔真を。真凜を。徹さんを。
八人の顔を一人ずつ見た。
みんな怖がっていた。でも、僕を止めようとする人はいなかった。
止められないと分かっているからだった。
「そんなに僕って頑固でしたか……」
精一杯の虚勢を張って、笑いながら返した。
「何を今さら」
「普通に個性としては強めでしょ」
「そうじゃないとこの研究室ではやっていけないって」
三人から口々に言われて、僕は思わず口を噤んだ。
「じゃあ、あっちの通路で始めます」
さっき寝かされていたステージ裏の通路なら、たとえ失敗しても、みんなの目には直接入らないだろう。
歩き出した僕の背中に、由衣の声が届いた。
「奏! 就活お疲れ様会、参加してもらうんだからね!」
思わず笑ってしまった。
「分かったよ!」
そう返して、僕は通路へと足を踏み入れた。




