第3話 邂逅
並木道を抜けると、視界が開けた。
理学部の校舎群を背にして、目の前に芝生の広場が広がっている。蒼月大学の中央に位置する大きな広場で、晴れた日には昼寝をする学生や、フリスビーを投げる学生の姿がいつも見えるはずの場所だった。
今、その広場には誰もいない。
代わりに、それがあった。
僕は足を止めた。
「奏?」
僕の少し後ろで、由衣が立ち止まる気配がした。直樹も、悠真も、亜梨沙も、徹さんも、教授も、翔真も、真凜も。八人の足音が、僕の背後で、不揃いに止まる。
「あれ、なに?」
亜梨沙の声だった。
か細く、震えた声。
僕の答えを待っている。けれど、僕は答えられなかった。
* * *
芝生の広場の中央に、それはいた。
最初は空気の歪みに見えた。
晴れた日の路面から立ち上る陽炎のように屈折した空気の塊が、広場の中心にもこもこと盛り上がっている。それはよく見ると輪郭を持っていた。半透明の巨大な輪郭。
六階建てのマンションくらいの巨大な何か。
長い首。長い尾。背中から伸びる二枚の翼。
四本足の巨大な爬虫類。
「……ドラゴン?」
直樹がぽつりと呟いた。
「マジで言ってんのか」
「いや、でも、あれ、ドラゴンだろ」
「ちょっと、なんで?」
「分かんない」
「ドッキリじゃないよね、もう絶対…」
——あれの輪郭は、まだ薄い。
僕の頭の中で、八年前の知識がゆっくりと思い起こされていた。
S級のノクサが思念空間に出現してから実体化するまでには、三十分のタイムラグがある。そして、その間徐々に姿は実像を得ていく。今の段階は完全に実体化する前の目視可能だが攻撃も移動もできない、生まれかけの段階。
引き込まれてから、もう十分程度は経っただろう。
あと、二十分ほどであれが動き出す。
僕の背中を冷たい汗が流れた。
そして、ドラゴンの足元に、二つ別の何かがあった。
ドラゴンよりずっと小さいが、人間より大きい。二本の脚で立っているのは確かなのに、人間のそれとは違う低く重い姿勢。
トカゲと人間を足して2で割ったような姿をしていた。
頭部が前方に長く突き出し、太い尾が背後で重く揺れている。両腕は短いが、その先端の爪は簡単に人間を引き裂ける長さだった。
ドラゴンに仕えているように、足元で控えている。S級テネブラの周りには、稀に護衛役のノクサが付随する。
ドラゴンと随伴のノクサ二体。
布陣としては、八年前と同じだった。
* * *
僕の目はドラゴンの頭部をゆっくりと辿った。
吻部。額。頭頂部。そして、二本の角。
そこで、僕の視線が止まった。
角。
二本。
——いや。
一本は、根本から少し上で折れていた。
左の角。
ぎざぎざに折れた断面が、薄い半透明の輪郭の中でもはっきりと視認できた。古傷のようであり、滑らかな断面ではない。何かに力ずくで、強引に折り取られた跡。
僕の身体から力が抜けた。
——あれは、僕らが折った。
八年前の冬の入り始め。
咲良と私の二人がかりで戦い——最後の力で——咲良の属性剣と私の風魔法で折った一本の角。
「……奏?」
由衣の声が、遠くに聞こえた。
由衣の声を含めて、世界の音が二、三歩、後ろに下がった。
耳の奥では、別の音が響き始めていた。
* * *
——『アリアッ、伏せて!』
——『角を折って、力を弱らせる! 行くよ!』
ステラの声。
いつもは柔らかい咲良の声が、戦いの中では凛々しくなる、魔法少女ステラとしての声。
* * *
「……ねえ、奏、大丈夫?」
亜梨沙の手が僕の肩に触れた。
触れた、と思う。
感覚が遠かった。
布越しに触れた誰かの体温。それを認識する回路が、ひとつ、ふたつと焼き切れていく。
息ができない。
正確にはできている。けれど、空気が肺に入ってきていない感じがする。吸っても吸っても、足りない。喉が締まる。胸の奥が握り潰されたような圧迫感。
* * *
——『アリア! 早く! 私の背に捕まって!』
——『一気に上がる! 高度で初撃を稼ぐ!』
ステラの翼。
白と金の属性剣に、翼の魔法。
私が彼女の背中にしがみついて、彼女が私を、ドラゴンの頭上まで運んで——。
* * *
「奏!」
別の声。
徹さんの声。
「奏、聞こえてるか」
肩を強い力で揺すぶられた。
その揺れの強さで、僕の意識がほんの少しだけ戻った。
戻ったけれど、戻りきらない。
* * *
——倒れていく、仲間。
——氷の魔法少女、ネーヴェ。氷の壁でドラゴンの鉤爪を受け止めようとして、壁ごと砕かれて吹き飛んだ。
——雷の魔法少女、サエッタ。彼女は私とサラを庇うように立ち、テネブラの尻尾に弾き飛ばされた。
——水の魔法少女、フォンテ。彼女の腕はドラゴンのブレスの直撃を受けて、肘から先が消し炭になっていた。
仲間が次々に倒れていく。
組織が「倒しきれない」と判断する、人類が敵わないとされる境界線のテネブラ。
八年前のあの戦い。
* * *
——『アリア、避けて!』
ドラゴンのブレス。
オレンジと赤と白に煮溶けた炎の渦。
障壁では防げないと瞬時に悟り、避けようと足を動かしかけた。
その僕の目の前に。
ステラが割り込んできた。
「ステラ!」
私が叫んだ瞬間には、もうステラの細い背中が炎を受け止めていた。
剣のオーラでブレスの本体を逸らして。
逸らしきれない分は、自分の身体で。
* * *
——お腹が真っ赤だった。
ステラの白い戦闘服のお腹のあたりが。
——「奏」
ステラが私の名前を、本名で呼んだ。
それだけで胸が激しく痛んだ。
ステラは、笑っていた。
「……ごめんね、奏。私、ここまで、みたい」
——「咲良?」
「先に、行くね」
「咲良?咲良?いやだ、咲良ッ…!」
「……ありがとう、奏。あなたと、出会えて、よかった——」
* * *
「——咲良ッ!!」
僕の口から、十六歳の私の悲鳴が飛び出した。
——いや。
違う。
これは、二十四歳の今の僕の悲鳴だ。
声は外には出なかった。
口の中だけで、内臓に張りついて震えていた。
「奏!奏!聞こえてる?」
亜梨沙の声。
「奏、こっちを見て!」
由衣の声。
「奏、息! 息、吸って! 吐いて!」
徹さんの、声。
それぞれの声が、別々の方向から僕に届いた。だけど、どの声も本当は届いていなかった。
僕の視界は、ドラゴンの折れた角に釘付けになっていた。
——あれは、私たちが折った角だ。
——咲良は死んだ。
——炎にのまれ、動きの精細さを欠いた咲良は、お腹を貫かれ、死んだ。
——私は、生き延びてしまった。
* * *
膝から力が抜けた。
灰色のアスファルトに、両膝がぶつかった。
衝撃が骨を伝って、腰まで上がってきた。痛みはあったはずだ。けれど、それを痛みとして認識する余裕はもうなかった。
呼吸が、できない。
吸う。
吸う。
吸う。
肺が空気を受け取らない。
吸うほどに酸素は薄くなる。視界の縁から、白い微細な霧が流れ込んできた。世界の音がもう一段遠ざかった。
「奏! 奏! 息をゆっくり吐け!」
徹さんの声が、遠くに聞こえた。
徹さんの手のひらが僕の背中に当てられていた。手のひら越しに、徹さんの体温と震えが伝わってきた。
「奏さん!」
真凜の声も、聞こえた。
「奏さん、大丈夫です! ここにいますから!」
真凜の小さくて控えめな、けれど、はっきりとした声。
* * *
——ごめんなさい。
僕の唇は無意識に動いていた。
——ごめんなさい。
何度も。
——ごめんなさい、咲良。
声にはならなかった。
ただ、唇の形だけで何度も繰り返した。
「咲良?」
僕のすぐ近くで、聞き返した声は、亜梨沙だったか、由衣だったか、もう、分からなかった。
——咲良。
——ごめん、咲良。
——ごめんね、咲良。
——一人で、置いていって、ごめん。
——私だけ、生きていて、ごめん。
——八年間、何もできなくて、ごめん。
——私は、僕は、まだ、君のために、何ひとつ、できていないんだ。
——こんな僕に、いったい何ができるというのだろう。
* * *
視界のすべてを霧が覆った。
「「奏ッ!」」
誰かの、声が、最後に、聞こえた。
直樹だったかもしれないし、みんなが叫んでいたのかもしれない。
そんな声を、聞きながら——。
僕の身体は、灰色の地面の上に沈んでいった。
* * *
——「奏」
——遠くで誰かが僕の名前を呼んでいる。
——「奏、戻ってきて」
——その声は。
——その声、は——。
* * *
意識を失う直前の最後の一秒で、僕はもう何も考えられていなかった。
ただ、思っていたのはひとつだけだった。
——ああ、僕の終わりはこの空間か。
* * *
意識が、途切れた。




