第2話 灰色の空
午後三時を少し回った頃だった。
亜梨沙が席を立って自販機にコーヒーを買いに行き、戻ってきたばかりだった。
直樹が「俺もコーヒー欲しい」と言って、悠真が「お前のはプロテインだろ」と笑い、亜梨沙が「直樹のは別売り」と頷いていた。徹さんは机に積み上がった論文の束を一つ一つ捌いていて、教授は隣の部屋で誰かと電話をしていた。
翔真と真凜はこちらの部屋で実験データを確認していて、たまに直樹たちと会話をしている。
そんな何の変哲もない午後だった。
僕はディスプレイの中でゆっくり流れていく解析結果の数値を眺めながら、片手で頬杖をついていた。徹さんに言われた「肺胞スケールへの応用」のことを、頭の片隅で考えていた。気流の方程式を肺胞の壁の弾性とどうカップリングさせるか。境界条件の処理が肝になる——。
——どん!
部屋の空気がいきなり内側から押された。
そんな感覚だった。
廊下に通じる扉が同時に勢いよく閉まる音。
あまりの勢いに、ばたん!と大きな音が響いた。
「うわっ!?」
直樹が椅子から半分立ち上がり、亜梨沙のコーヒーが手元で派手に揺れた。
「な、なに、今の!」
「地震!?」
「風? 風入った? 窓開いてた?」
「いや、窓は閉まってるよ」と悠真。
僕は座ったまま動けなかった。
——いや。
動けなかったのは、扉の音に驚いたからではない。
その直前。扉が閉まるコンマ数秒前。
視界がぐにゃりと歪んだ。
水中で目を開けたときみたいに、世界の輪郭が一瞬だけ揺らいで、それから何もなかったように戻った。三半規管を直接かき混ぜられたような、内臓が浮き上がるような感覚。
たぶん誰も気づいていない。気づいたのは僕だけだ。
このタイプの違和感を僕は知っている。
身体が覚えている。
——まさか。
口の中が急速に乾いていく。
「ねえ、停電?」
亜梨沙の声で、僕は顔を上げた。
天井のLEDが全部消えていた。窓から差し込む白っぽい春の光だけが部屋を照らしていた。さっきまでブーンと低く唸っていたサーバーの音もない。動いていたはずのPCの画面も、ぷつりと暗くなっている。
「あれ、俺のデスクトップPC、落ちた」
「俺のも」
「停電か」
「いや、ブレーカー落ちたんじゃない?」
「ちょっと他の部屋の様子見てきますね」
翔真が立ち上がって廊下に出ようとした。
「待った」
僕の口から、自分でも驚くほど低い声が出ていた。
翔真がぴたりと足を止めて振り返る。
「……奏?」
「ごめん。なんでもない。けど、ちょっとおかしい気がする」
僕は息を整えるように一度だけ深く吸って吐いた。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせる。
まだ確定じゃない。停電と、ちょっとした目眩。それだけかもしれない。これは八年前の感覚に似ているだけで、別の何かかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、僕はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面の上、電波のアイコン。
——圏外。
息が止まりかけた。
「あれ、おかしいな。私のスマホ、電波ない」
由衣が眉を寄せながら、自分のスマホを高く掲げた。
「あれ、俺のも」
「俺も」
「真凜のは?」
「私のもです。なんでしょう」
「Wi-Fiは?」
「もちろん死んでる。サーバーごと落ちてるかも」
研究室の全員のスマホが使えないことに気が付き、困惑が広がる。
「停電に通信障害?いや、ちょっとそれは出来すぎてない?」
悠真が呟いた。彼の観察眼が状況の異常さを正確に拾い始めている。
そのとき、教授が隣の部屋から、自分のマイカップを片手に出てきていた。電話は途中で切れたらしく、スマホを手に持ったまま、しきりに画面を見ていた。
「いきなり電気に電話が切れちゃってさぁ、こっちの部屋は…と思って覗きに来たけど同じ状況みたいだね」
「有馬先生の部屋もですか。ノートPCは電源ついてますけど、電気と通信は完全に切れてるみたいです」
翔真が答えた。
「なぁ、外、暗くないか?窓ガラス汚れた?」
直樹が窓の方を見て首を傾げた。
研究室の窓は日よけのために全面にハニカムシェードを付けており、外の明るさは分かるが景色までは見えない。
「まだ明るいはずだろ」
「いや、なんか、おかしい。なんていうか……」
そう言って、ハニカムシェードの間から外の景色を除いた直樹の言葉が途切れた。
「上げますね」
真凛がそう言ってハニカムを上に上げた瞬間、全員が言葉を失った。
「太陽が」
由衣が全員の内心を代弁するようにつぶやいた。
声が明らかに震えていた。
「太陽が、白い。空が——灰色」
部屋全体の空気がぴたりと止まった。
僕は立ち上がるかどうかを迷って、結局椅子に座ったままだった。
立ち上がって窓を見るまでもなく、状況は分かっていたからだ。
「は?」
直樹が窓に駆け寄り、亜梨沙も後を追った。僕を除く全員が窓から外の景色を見渡した。
「マジで言ってんの?」
「マジ?」
「……うわ、なに、これ」
「色がない」
「いや、灰色って色だろ」
「そうじゃなくて、なんていうか——」
「フィルターかけたみたいな」
「天気予報? 急な天候変化? でも、こんな急に空って——」
「いや、これ、天気じゃないだろ」
口々に、わいわいと、現実を確かめるような言葉が交わされていく。
「これ、なんかの撮影か?」
直樹が半分笑いながら半分困ったように言った。誰かの悪戯、ドッキリ、テレビ番組のサプライズ。そういう現実的な選択肢を、必死に並べ立てている。
「ドッキリでこんなこと、できないでしょ」由衣が冷静に言った。「電気落として、通信全部殺して、空の色まで変えるって、どんな大掛かりな仕掛けよ」
「いや、でも……」
「停電と通信障害は、まだ説明がつくよ。でも、空は」
悠真が窓に張りつくようにして目を細めていた。
「太陽の色が、ありえない。あれは何かを通して見てる色だ。フィルターか、もしくは——」
そこで悠真の声が一度途切れた。
彼は科学に対する感度が高い。それゆえに、この異常を「ありえないこと」として処理することに、無意識のうちに戸惑っている。
「奏」
奥のデスクから徹さんの声が聞こえた。
僕は顔を上げた。
徹さんはいつもの落ち着いた表情をしていたが、目の奥は確かに状況を疑っていた。
「お前は冷静だな」
「皆が驚いている分、冷静に見えているだけですよ。僕も十分驚いています」
僕はそれだけ返した。徹さんがそれ以上は聞いてこなかった。
ただ、ちらりと僕の方を一度だけ見た。
その視線が何を言っているかは——分かった。
(何か知っているんじゃないか)
そう思っているのは僕にも伝わった。
でも、まだ言えない。
僕の頭は、これまで考えないようにしてきた八年前を思い出している途中だった。
* * *
——思念空間。
その四文字が、頭の内側で確かな手触りを持って響いた。
人間の負の感情が寄り集まう精神世界、それが思念空間だと言われている。思念空間には負の感情が集積し、それらが形を成した存在。それがノクサだ。ノクサは思念空間でのみ実体を持ち、現実世界には肉体を持たない。だから一般人にはその存在が認識されない。
そして、ノクサを討伐する存在、それが魔法少女だ。
魔法少女は通常、自分の精神の現身である「思念体」だけをこの世界に送り込んで戦う。現実の身体は、家のベッドの上か、学校の中か、街中に残されたままだ。
——でも、今僕らの身体は。
座ったまま自分の手を見下ろした。
ジャケットの袖の感触。ジーンズの布地。指先が押している机の角。全部、はっきりとした触覚がある。これは思念体じゃない。意識だけが飛ばされたんじゃない。
僕らは肉体ごとここに引き込まれている。
——S級以上のノクサで確定だ。
息が浅くなる。
肉体ごと思念空間に引き込むことができるのは、テネブラ級と呼ばれる、強大なノクサだけだ。S級と、その上のSS級。SS級は理論上の脅威で、観測されたことすらない。
つまり、外に出現するのはS級とみていい。
八年前、咲良を失った戦いと同じ階級。
巻き込まれた一般人は百パーセント死ぬ。
生き残った例は、記録の限りでは確認されなかった。
S級のノクサは、思念空間に引き込んでから実体化するまでに約三十分のタイムラグがある。
その三十分の間に、僕らは何をすべきか。
逃げるか。
逃げるなんて、できない。思念空間からの脱出条件は、S級ノクサの撃破か、もしくは何がきっかけかは不明だが、ノクサ自身が思念空間から去ること。一般人が自力で出ることはできない。
現状は、詰みだ。
それでも、まだ生きることを諦めるわけにはいかなかった。
見知った仲間がいる。
すぐ目の前に二年以上を共にした人たちがいる。直樹も、悠真も、亜梨沙も、由衣も、徹さんも、教授も、翔真も、真凜も——みんな、ここから帰さなければならない。
そう思うと、不思議と頭が冷えた。
戸惑いも過去の記憶も、一度奥の方に押し込んだ。
* * *
「奏」
由衣が僕の方を振り返って言った。
「あんた、なんで座ってんの」
「……うん?」
「全員、窓に張り付いてんのに、あんただけ座ってる」
その指摘で、僕は自分の姿勢に気がついた。確かに僕だけが立ち上がってさえいなかった。
「ごめん。考え事してた」
「考え事って」
「……これ、外に出たほうがいいと思う」
部屋の空気がまた、ぴたりと止まった。
「いや、さっきは奏がストップかけたじゃん」
「外、こんな状態なのに、出るの? 怖くない?」と直樹と亜梨沙。
「逆だよ」と僕。「中にいて、もし建物に何かあったら、逃げられない。それより状況を確認した方がいい」
「奏の言う通りだ」
そう言ったのは有馬教授だった。
「ここに留まっても、状況は分からない。なら廊下や隣の研究室を見て、もし外に出られそうなら、出てみよう」
教授の一言で空気が動いた。
直樹が「分かりました」と言って、悠真が「了解です」と返した。亜梨沙はまだ少し怖そうだったが、由衣に「大丈夫」と肩を叩かれて頷いた。
僕は立ち上がってドアを開けた。
廊下に出た瞬間、空気の質感が明確に変わっているのが分かった。
匂いがない。
普段なら廊下にはコーヒーの匂い、印刷したての論文の匂い、化学系の研究室から漏れる薬品の微かな匂いが入り混じって漂っている。それが今は何もない。
無臭。
そして、音もない。
僕に続いて部屋を出た翔真と真凜が向かいの自分たちの研究室のドアを開けた。
「みんな——」
部屋の中は空っぽだった。
廊下の反対側の研究室のドアを、念のためノックしてみた。
返事はなかった。
ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。中を覗くと——誰もいなかった。
椅子の上に、B4の誰かの飲みかけのコーヒーがそのまま残されていた。机の上には開きっぱなしのノートPC。ジャケットが背もたれに掛けられている。
人だけがいない。
物だけが残されている。
「……どういうことだ?」
僕の後ろから覗き込んだ翔真が、低い声で言った。
「人がいない」
「M1もB4も私たちの他にいたはずなのに」
「奏さん、これ——」
「行こう」
僕はドアを閉めた。
説明はあとだ。
僕らだけがここに取り込まれている、というその事実を、いま全員に説明する余裕はない。
* * *
廊下の階段を、九人で降りた。
四階から、三階、二階、一階へ。
エレベーターは動いていなかった。階段の蛍光灯も全部消えている。窓から差し込む光だけが、コンクリートの階段を灰色に照らしていた。
途中の階で念のため廊下を覗いたが、誰もいなかった。
二階の生物系の研究室も、一階のロビーも。普段なら学生や教員がそこかしこにいるはずの場所が、人だけ綺麗に抜き取られていた。
「ねえ、これ何?」
亜梨沙が震える声で言った。
「私たち以外、誰もいないの?」
「そういうことになるね」と悠真。
「なんで」
「分からない」
「奏は分かってるの?」
由衣が僕の方を見てまっすぐに訊いてきた。
僕は由衣の目を見て、少しだけ躊躇った。
「……外を見てから話す」
「ちゃんと話す?」
「うん」
由衣は短く頷いて、それ以上は聞かなかった。
* * *
一階の自動ドアは動かなかった。
直樹と徹さんが二人がかりで、手動でゆっくりと開けた。
その隙間から外の空気が入ってきた。
——冷たい。
四月末の半袖でちょうどいい陽気だったはずだ。
なのに外から流れ込んできた空気は、初冬の朝のような肌に刺さる冷たさだった。
そして、無臭。
廊下と同じく、匂いのない空気だった。
「うわ」
直樹が扉から外を覗いて、一歩後退った。
「マジか」
僕はその後ろから外を見た。
蒼月大学のキャンパスが、そこに広がっていた。
正門に続く並木道。理学部前のロータリー。図書館の煉瓦の壁。ハナミズキの白い花。植え込みの低木。アスファルトの歩道。
全部がそこにあった。
何ひとつ、形は変わっていない。
ただ——色が、抜けていた。
写真に強いセピア調のフィルターをかけたみたいに、すべての色彩から彩度が削がれていた。緑色も、白色も、灰色も、似たような濁った色合いに置き換わっている。空は雲がない晴天のはずなのに、低い天井のような、均一な、薄い灰色だった。
空全体がぼんやりと均一に光っている。光源がどこにあるのかわからない、ステージ照明みたいな、不自然な明るさだった。
そして、人がいなかった。
僕の知っている蒼月大学は、平日の午後三時、晴天の日には、必ず誰かがキャンパスを横切っている。学生、教員、来客。少なくとも視界に、五人や十人は入っているはずだった。
それが、誰もいない。
人の気配が一切ない。
「……映画みたい」
亜梨沙がぽつりと呟いた。
「ゾンビ映画の、最初のほうみたい」
「やめろ亜梨沙、その例えは怖い」
「ごめん」
「もう少し外を見てみよう」
徹さんの声で僕らは外の様子を確認することにした。
* * *
歩道のアスファルトを踏むと、いつもより硬く感じた。音もない。普段なら遠くから車の走行音や、誰かの話し声、鳥のさえずりが聞こえてくるはずなのに、何ひとつ聞こえない。
冷たく、無臭の風だけが吹いていた。
「どこに行きます?」と直樹。
「正門の方に行こう」と僕。
「なんで?」
「外がどうなってるか、見たい」
正確には、もう僕の直観がそれを察知し始めていた。
——その方向に、何かがいる。
まだ実体化はしていない。だけど、確かにそこにある。
僕の足はその方向に勝手に向き始めていた。
正門通りの方角。芝生の広場。
一歩、また一歩、僕たちは灰色のキャンパスを進んでいった。
ハナミズキの白い花は灰色に染まり、地面に散った花弁すら生気を失っていた。
風が強くなった。
その風の中に、僕はある匂いを感じ取った気がした。
匂いがないはずの世界で、確かに、ひとつだけ。
——焦げた、肉の匂い。
八年前、最後に嗅いだあの匂い。
僕の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「奏?」
由衣が後ろから僕の名を呼んだ。
「……いや」
僕は首を振った。
「行こう」
歩き出した。




