第1話 四月の終わり
四月の終わりというのは、いつも宙ぶらりんな季節だと思う。
新学期の緊張感はとっくに溶けているのに、五月の倦怠感にはまだ早い。半袖で歩けるくらいの陽気で、けれど日陰に入ると空気がひんやりとしている。桜はすっかり散り終わり、青紅葉が陽射しに透けて奇妙に清潔な色をしていた。葉脈の一本一本まで陽に灼かれている。
僕は蒼月大学の正門をくぐり、何の用事もなさそうな歩幅で並木道を歩いている。立花奏、二十四歳。蒼月大学大学院・理工学研究科・修士課程二年。専門は生体流体力学。そう自己紹介する機会も、最近はめっきり減った。研究室にいる時間が長すぎて、それ以上の自分を誰かに名乗ることがほとんどない。
通学路の両脇には、ハナミズキが白い花弁を空へと押し上げて並んでいる。その下を新入生らしい集団が騒がしげに横切っていった。彼らは入学式から一ヶ月足らずで早くも友達を作り、サークル勧誘のチラシ束に翻弄され、未知の学問に目を輝かせている。二十歳前後の生命体だけが持つ独特の発光をしている。
眩しいなと思う。
皮肉でも何でもなく、ただの事実として彼らは光って見える。
生きることに熱を持っている人間は、それだけで光って見えるのだ。
僕にはそれがない、というだけの話だ。
道の真ん中でふと立ち止まって、もう一度空を見上げた。
四月末にしては少し暑い。
最近そういう日が多い。二月にも半袖で出歩けそうな日が一日や二日はあった気がする。地球温暖化という単語があまりにも雑で便利な言葉として使われすぎて、いまや何の意味も持たなくなってきた。
天気予報で異常気象という言葉を聞かない日はない。気象庁の発表する観測値が「何年連続更新中」だとかいうニュースを、僕らはもう右から左へと聞き流すようになっている。
こうやって人は慣れるんだな、と思った。
慣れて気にしなくなる。
気にしなくなって、気にしないことに、後ろめたくもならなくなる。
多分——僕がそうやって自分の中の喪失に対しても、慣れてきたのと同じように。
八年前の冬の入り始め。世界の温度が静かに下がっていく時期に、僕の世界はそのまま凍ってしまった。
あれ以来、僕は四月の風を受けても、皮膚の感覚はあるのに「春が来た」とは思えなくなった。
あの頃知り合った仲間たちとも、ずいぶん会っていない。そもそもプライベートな連絡先の交換は彼女を除いて誰ともしていなかった。気にならないと言えば嘘になる。けど、自分からどうにかしようとは思えなかった。
歩き出す。
これ以上、立ち止まっているわけにはいかない。
研究室では、今日も平和な日々が僕を待っている。
* * *
理学部三号館。
赤茶けたタイル張りの古い建物だが、内装はそこそこ綺麗だ。エレベーターもあるが、階段を四階までゆっくり上る。
廊下に出た瞬間、コーヒーと何か食べ物の匂いがふっと入り混じって鼻に届いた。
三号館のいつもの匂い。
一番奥の有馬研究室のドアの前で、黒瀬由衣がスマホ片手にこちらに向かって軽く手を振った。
「奏、おはよ」
「おはよう、由衣」
由衣は博士前期課程、分かりやすく言えば修士二年(M2)の同期だ。研究室のM2は男女合わせて五人いて、つい先日全員の就職先が決まった。
僕もメーカーの研究職に就職は決まったが、別にその企業でやりたいことがあったわけではない。適当に周りに合わせて就活をし、世間一般的に良いとされる企業を受け、内定をもらった。
大きな川の流れに逆らわず、でも沈まないように時たま泳ぎ、また流される。
そういう生き方を僕はずっとしている。
由衣はちょうど研究室の扉に手をかけたところだったようだ。鞄の口からコンビニのレシートが少し覗いている。何かを買ってから研究室に来たのだろう。
「ねえ奏、今日の夜は来れる?」
由衣はちらりと視線をこちらに向け、いつものそっけない声で言った。態度はそっけなく見えるが、それが由衣のいつもの態度だ。
「飲み会でしょ?」
「うん。就活お疲れ様会。みんなが第一志望から良い返事もらえたから、そのお祝いも兼ねて」
「もちろん行くよ。それもあって研究室に来たんだし。場所は?」
「正門前のあの韓国料理。サムギョプサルのとこ」
「七時くらい?」
「そう」
由衣がふっと顔を上げて、僕を見た。
由衣の口元が、ほんの少し動いた。笑った、というほどではない。けれど、彼女のそれは十分に親しさのある反応だった。
このやり取りが僕にとっての日常の体温だった。
冷たくも熱くもない、ちょうどよい温度。誰かを傷つけることもなく、誰にも傷つけられることもない。ただ「平穏」と呼ぶしかない時間をこうして積み重ねていく。
ドアを開けて研究室に入った。
有馬研究室は廊下を挟んで二部屋ずつの計四部屋。片側の二部屋を学部四年生とM1が、もう片側の一部屋をM2・博士・助教が、そしてその隣の部屋を教授がひとりで使っている。
僕らの部屋に入ると、すでに桐生直樹と藤堂悠真がいた。
「おはよ、奏」と直樹。
「ういーっす」と悠真。
直樹はジャージ姿で、デスクの脇に置いた手持ちのプロテインシェイカーをリズムよく振っている。M2のくせにどこか部活帰りみたいな匂いを常時纏っている男で、論文を読みながら腕立てを始める奇行は研究室の名物だった。シェイカーの中で氷とプロテインが擦れる音は、有馬研究室のBGMの一部にほぼ組み込まれている。
「今日も腕立てか」
「いや、今日はもう五セット終わった」
「午前中から?」
「午前のうちにやらないと、夜は飲み会で潰れるからな」
そういうことを本当に毎日やっている。
習慣化すれば直樹のやり方は案外効率的なのかもしれない、と最近僕は思い始めていた。
その隣で悠真がノートPCの画面を斜めに見ながら、にやりと笑った。
「奏、聞いたか? 直樹、第二志望の企業のエントリーシート、企業名間違えて出してたらしいぞ」
「おい!それだけはマジで言うなって!」
「いやでも、ABC商事に出したエントリーシートの宛名がCDE商事になってたんだろ?」
「ペーストミスだよペーストミス。一文字違いだから気づきにくかったんだよ」
「……一文字?」
僕は思わず首を傾げた。ABCとCDEは、普通に二文字違うのではないか。
「いや、二文字違うよね」
「奏まで真顔で突っ込むんじゃねえ! 心が痛いんだよ!」
「いや、待て」
悠真が画面を指でなぞるように示した。
「AはCDEに入ってないだろ」
「うん」
「BもCDEに入ってないだろ」
「うん」
「Cはまあ、ABCにもあるけど、位置が違うだろ」
「うん」
「だから、ぜんぶ違う。三文字全部違う」
「やめろ、もう言うなぁッ!俺は第一志望に受かったからもういいんだよぉ!」
直樹が両手で頭を抱えて叫び、悠真が腹を抱えて笑い、由衣が「お祝いしてもらう前に、直樹はまだ落ちてないか確認しなきゃね」とぼそっと刺した。
研究室の雰囲気は、大体いつもこんなものだ。
僕は自分のデスクに座って、ノートPCを立ち上げた。画面が点灯し、研究データのフォルダが並ぶ。生体流体力学。AI解析。数式。画像。画面の中のフォルダ群を見ながら作業をしていると、時々自分は何をしているのだろうという感覚に陥るときがある。
僕はちゃんとここにいるのに、おおよそ正しい道を歩んでいるはずなのに。心だけ少しずつ遠くへ引かれていくような感覚。
僕は本当は何をしたいのか、何を求めているのか、迷子になりながらあるのかもわからない街を目指して、荒野をさまよっているような感覚。
少し遅れて、宮坂亜梨沙が「おはよーございまーす」と歌うように声を上げて入ってきた。その後ろから博士課程三年の岸本徹さんが、いかにも眠そうな顔で続く。
「いま何の議論してたん?」
「直樹のES事故」
「あ、それ私も聞いた。リアクション、あとでもう一回、見せてよね」
「もう、勘弁してくれ……」
亜梨沙は当たり前のような顔で由衣の机に腰掛け、由衣は何も言わずにスペースを少しだけ開けた。女子同士ということもあり、亜梨沙と由衣は親友だ。性格はまったく似ていないのに、いつの間にかペアでいる。社交性の塊と、本人いわく「人と群れるのは苦手」な理論派が、なぜか自然と並んでいる。
徹さんが自分のデスクに鞄を置き、それから思い出したように振り返った。
「あ、奏。昨日借りた論文、ありがとう。あれ、今のテーマと結構繋がるな。来週の輪講で出してもいい?」
「もちろんです。どこが繋がるんですか?」
「解析手法のとこ。お前のやってる気流推定の手法、たぶん肺胞のスケールでもいけるんじゃないかと思って」
「あー」
僕の頭の中で、その話が自然な形に嵌まった。
「…それは確かに、応用できそうですね」
「だろ? 来週の輪講で奏もコメントしてくれよ」
「もちろんです」
徹さんは満足そうに頷くと、自分の椅子に座ってコーヒーを一口すすった。
研究の話をしているとき、徹さんの目は子どもみたいに輝く。研究室の運営も、後輩の面倒も、論文調査も、多くのことを修士の僕らよりもやっているはずなのに、そういう愚痴は誰の前でもこぼさない。
眩しい人だ、と僕は思う。
由衣とはまた違う種類の眩しさで、思わず目を細めてしまうような。
そうこうしているうちに、向かいのM1部屋の方からも気配がしてドアがそっと押し開いた。新田翔真と白石真凜だった。翔真は爽やかに「おはようございます!」と挨拶し、真凜は控えめに頭だけを下げる。
「お、翔真。昨日のあの解析、終わったか?」
「はい、ノイズ周波数の特定までいきました! 帰ってからスペクトルを並べてみたら、想像してたのと違う場所にピークがあって…もしかしたら悠真さんの言ってた件と関係あるかもしれません」
「マジで? 見せて見せて」
翔真と悠真が話しているのを聞くと、本当に研究を楽しんでいることが伝わってくる。真凜の方は翔真の隣で控えめに様子を見ているが、ときどき小声で挟む一言が案外本質を突いている。
「翔真、そのピークもしかしたら、研究室の昔のテーマで一回、出てた現象に近いかも」
「えっ、そうなの?」
「……たぶん」
「あとでその先輩のテーマ教えて!」
「うん」
翔真と真凜のやり取りを聞きながら、僕は椅子の背もたれに体重を預けた。
こういう時間は嫌いじゃない。
みんながそれぞれ今日を生きている。そして、自分のその一員になれている気がする。自分だけが取り残されているわけじゃない、と錯覚できるからだ。
「奏、昨日の解析モデル、見た?」
悠真が振ってきた。
「見たよ。精度は悪くない」
「悪くない、って微妙な言い方だな」
「褒めてるんだよ」
「奏の褒め方は地味に刺さるんだよな」
悠真が苦笑する。直樹はその横で「刺さるならまだいい」とか言っている。こういう軽口を交わせるのはありがたい。ありがたいのに、僕の内側はどこか引っかかったままだった。
——もう十年近く会っていない、かつての仲間たち。
みんなまだ戦っているのだろうか。それとも、僕みたいに別のところで別の人生を送っているのだろうか。
確かめる勇気はない。
会えたところで僕は何を話せばよいのだろう。
* * *
昼を少し過ぎたころ、有馬慶一教授が自分のマイカップを持って部屋を覗き込んできた。五十代後半。白髪交じりの髪をきっちり後ろに撫でつけて、丸い眼鏡の奥の目はいつも少し面白がるような光を宿している。
「おや、今日は朝から活気があるね」
「私たちの内定祝いと就活お疲れ様会です」
「いいねえ。内定が出るのも本当に早くなったねぇ」
「本当ですよ。まだ卒業まで一年あるっていうのに」由衣が笑いながら答えた。
教授は笑いながら、僕のデスクの脇に立った。
「奏」
「はい」
「昨日の発表の資料。あの乱流の部分の考察、もう少し広げられると思ったけど、どう思う」
「そうですね…血管外への応用も含めると変数が増えて、かなり複雑になりますけど」
「そこが面白いんじゃないか」
教授はにこりともせずに言う。本気でそう思っているときの顔だ。
「難しい方が面白い。解けた瞬間に何かが変わる、そういう研究が好きなんだよ、私は。王道じゃないところを」
「王道を歩かないのは、怖くないですか」
言ってから、似たような問いを前にもしたなと思った。
教授は少し黙ってから「怖いよ」と言った。
「ただ、怖い方が面白い。奏は?」
「僕は…面白いかもしれませんが、王道の方が正しい可能性は高いかなって考えちゃいます」
「そうか」
それだけ言って、教授は僕の顔を見た。何かを読もうとしているわけではなく、ただそこにある熱を確認しているような。
「ま、気が向いたら考えてみてくれ。今夜は楽しんで来い」
「はい」
教授は自分の部屋に戻っていった。
僕はマウスを動かして、画面のフォルダを開いた。気流推定の解析コード。先週から少し止まっている。徹さんが「肺胞スケールに応用できる」と言ってくれた論文の話が、まだ頭の中で熱を持っていた。
研究の話だけは、僕の中の冷えた場所にほんの少しだけ熱が灯る気がする。しばらく作業に集中しようか。
ふと窓の外に目をやった。
春の陽光は相変わらず白く、まぶしい。それなのに、見上げた先の空が一瞬だけ薄く歪んだ気がした。
瞬き一つ分の違和感。
胸の奥がひやりと冷える。
——気のせいだ。
心の中でそう繰り返す。八年間、それを繰り返してきた。空の色が少しおかしい。気圧の変化が変だ。夢を見た。そのたびに「考えすぎだ」と言い聞かせて、蓋をして、研究室に来て、誰かの声を聞いた。
うまくいっていた。うまくいっていたはずだった。
「奏さん」
後ろから声がした。振り返ると、真凜が立っていた。
「なんか窓の外、ずっと見てますね」
「ちょっと空が気になって」
「そうですか」真凜は窓を覗き込んだ。「きれいですよね、今日の空」
「うん」
「…あと、奏さん、顔色がちょっと悪いかなって」
「寝不足かな」
「毎週そう言ってますよ、奏さん」
穏やかな声で、しかし真面目な顔で言う。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
この後輩は控えめだけどちゃんと自分の意見を持っているし、必要と思ったことはしっかりと伝えてくる。
「ありがとう。大丈夫だよ」
真凜は「そうですか」と言って、自分の部屋に戻った。
本当のことを言えば、よく眠れないのは今に始まった話ではない。
同じ夢をよく見る。冬の夜の夢。炎の色と誰かが倒れていく映像と赤く染まった服。目が覚めると汗をかいている。最初の数年は起き上がれなかった。今は起きてすぐシャワーを浴びれば、一時間もすれば忘れる。忘れる、というよりもまた蓋をする。
その蓋をまだしっかり閉めていられる。
それだけで十分だと僕は思っていた。
僕はディスプレイに視線を戻して、ぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。
窓の外の空は午後の陽光を受けてまだ明るく青い。雲はほとんどない。でも、空の端、地平線に近い部分が微妙に滲んでいる気がした。
気のせいだろう。
気のせいで、あってほしかった。
このありふれた日常が、足元から音を立てて崩れ去るまで——あと少し。




