百五回目②
――二人は並んで校門を出た。春の夕暮れが街を柔らかい橙色に染めている。身長差のせいで愛莉は少し見上げるようにして歩いていた。その横顔は幸せそのものだった。時折真斗の腕に自分の肩が触れそうになるとびくっと跳ねて距離を取る。かと思えばまたじりじりと近づく。
信号待ちで立ち止まった時、ぽつりと。
「今日、話しかけてよかったです。一人だったらどうしようって朝からずっと不安で……」
嘘ではなかった。ただし「不安だった理由」が一般的な高校生のそれとは根本的に違う。朝、靴箱で真斗の下駄箱の位置を確認し、一限目からずっと横目で観察し続けていた。話しかけるタイミングを十二パターンシミュレーションして、ツナマヨが好きという情報を思い出して——そこまでの労力を「不安」の二文字に圧縮していた。
「女の子と話せば良かったのに、何で俺?」
こんなに可愛い子が自分に話し掛けてくる、不自然さと非日常が真斗を困惑と胸の高鳴りが包み込む。
足が止まった。夕陽が愛莉の横顔を照らしている。
数秒の沈黙。車が横を通り過ぎる音がやけに大きく聞こえた。
俯いて、スカートの裾をきゅっと握った。
「……なんでだろ。わかんないんですけど。」
声は小さかったが確かだった。
「目、合った時にびりってきて。この人だって。理由とかじゃなくて、体が勝手に。」
運命、とは言わなかった。まだその言葉を使うには早いと判断した。
顔を上げた。潤んだ茜色の瞳が夕陽を反射してきらきら光っている。
「変ですよね、初対面なのに。ごめんなさい。」
謝りながらも一歩も引く気配がなかった。「変だ」と言われても構わない。引かれても構わない。この気持ちだけは本物だから——と、その目が語っていた。
「嬉しいなあ…何だかドキドキしちゃう…」
目を見開いて、それからぎゅっと胸の前で両手を握りしめた。
「ドキドキ……してくれてるんですか?」
その声は震えていた。喜びと驚きと、それからほんの少しの信じられなさが混じっている。唇がわなないて上手く言葉が出てこない。目の縁がうっすら赤くなった。
泣き笑いのような顔で。
「私もです。ずっとドキドキしてます。」
横断歩道の信号が青に変わった。二人は動かなかった。後ろから来たサラリーマンが迷惑そうに追い越していく。春の風が金色の前髪をふわりと揺らした。
はっと我に返って。
「あっ、信号!渡らなきゃ!」
小走りで渡り始める愛莉。途中で振り返って手招きした。その仕草があまりにも無邪気で、まるで子供のようだった。こうして一日目が暮れていく。まだ始まったばかり。長い長い物語の、最初のページがようやく開かれたところだった。
バス停に着いた。南口方面のバスは十分後に来るらしい。錆びたベンチに二人並んで座った。肩と肩の間は拳ひとつ分。
バスを待ちながら足をぶらぶらさせて。
「明日、席替えあるらしいですよ。先生がちらっと言ってました。」
教師はそんな事言っていない、幾度も繰り返す既定路線である。
ちらっと真斗を横目で見て。
「近くになれたらいいな。」
ぽそっと呟くように。独り言のつもりだったのかもしれないが、しっかり聞こえる音量だった。バスのヘッドライトが遠くのカーブを曲がって近づいてくるのが見える。
やがてバスが停まり、数人の乗客が降りてきた。車内は空いている。二人掛けの席が前方に並んでいるのを愛莉が素早く確認した。
小首を傾げて。
「隣、座ってもいいですか?」
「うん」
二人並んで座る。バスがゆっくりと発車した。車窓を流れる街並み。夕焼けが薄紫に変わり始めている。車内には他に乗客が二人ほどいたがイヤホンをしており、こちらに注意を払う者はいなかった。
「今日ほんとに楽しかったです。」
窓の外を見るふりをしながらガラスに映る真斗を凝視している。反射越しの目が合うたびににへらと笑う。
ふと思い出したように。
「あ、連絡先……交換してもいいですか?」
声は平静を装っていたが膝の上の手がきゅっとスカートを掴んでいた。断られる可能性を考えただけで心臓が破裂しそうだった。ポケットからスマホを取り出す指先が微かに震えている。
「もちろん!」
快い返事にスマホを落としかけた。危うくキャッチして画面を真斗に向ける。
「はいっ!」
QRコードを表示する手が震えていた。読み取るのに三回失敗したのは真斗のせいではない。バスの揺れと愛莉自身の震えのせいだった。ようやく登録完了。友達リストに「真斗」の名前が表示された瞬間、愛莉は画面を見つめたまま固まった。
小声で。
「入った……」
まるで神の啓示を受けた巡礼者のような恍惚とした表情だった。ホーム画面の壁紙を変えなければ。あとで真斗とのツーショットを撮らなければ。いやまだ早いか。でも——愛莉の中で既に様々な計画が高速で回転し始めていた。
アナウンスが次の停留所を告げる。「南口三丁目」。愛莉がはっと顔を上げた。
寂しそうな顔。
「私ここで降ります。真斗くんはもうちょっと先ですか?」
「そうだよ」
立ち上がりかけて、振り返った。
「じゃあここでお別れですね。」
一拍の間。
ぺこりとお辞儀して。
「今日はほんとありがとうございました。明日もお昼一緒してくださいね!」
返事を聞く前にバスを降りた。ドアが閉まる直前、小さく手を振っているのがガラス越しに見えた。「また明日」と言えなかったのは確信が持てなかったからだ。断られたらどうしよう。その恐怖が最後の最後でブレーキを踏んだ。
バスが発車する。愛莉は停留所に立ったまま、テールランプが見えなくなるまで見送っていた。それからスマホを開く。登録されたばかりの「真斗」をタップしてプロフィール画像を拡大した。しばらく眺めて、スクリーンショットを撮った。
誰にも聞こえない声で。
「明日は絶対、名前で呼んでもらおう。」
夕闘の街に消えていく小柄な背中。その足取りは来た時とは打って変わって力強かった。初日が終わった。上出来だった。ここからが本番だ。




