百五回目③
――四月八日。快晴。桜が八分咲きになった通学路を生徒たちの群れが流れている。
席替えが行われた。担任がくじ引きの箱を教壇に置く。「出席番号順に引いていけ」という指示に従って生徒が次々と番号の書かれた紙を引いていく。
結果——真斗は窓際の三列目。そしてその右隣に「24番」を引いた人物が座ることになった。
くじを握りしめて番号を確認した瞬間、息が止まった。
運命を捻じ曲げたわけではない。少なくともこの時点では。だが愛莉にはそれが偶然だとは到底思えなかった。震える足で新しい席へ向かう。真斗の右隣。椅子に座って鞄を置いた。近い。昨日よりずっと近かった。
満面の笑みで真斗を見上げて。
「おはよう、真斗くん!」
昨日の借りてきた猫はどこへ行ったのか。声のトーンが明らかに弾んでいる。嬉しさを隠す気がゼロだった。肩と肩の距離は拳半分もない。
「わあ!愛莉ちゃん!宜しくね!」
「愛莉ちゃん」を反芻するように口の中で小さく繰り返した。
ちゃん付け。想定よりワンランク上の呼び方が来た。「さん」で十分だと踏んでいたのに。不意打ちを食らった愛莉は耳まで赤くなりながらも必死に平静を装おうとした。失敗した。
机に突っ伏すようにして。
「よろしくお願いしますぅ……」
隠れた顔の下でとろけるような笑顔をしているのを誰も知らない。シャーペンを持つ手で口元を押さえてにやけるのを堪えている。肩が小刻みに震えていた。
周囲の反応は様々だった。「あいつら昨日会ったばっかじゃね?」「もう名前呼びかよ」「月島さん可愛すぎだろ」——ひそひそ話が飛び交う中、担任が咳払いをしてHRを始めた。二日目の学校生活が動き出す。
机から顔を上げて小声で。吐息が真斗の肩にかかる距離。
「ちゃん付け、ずるい…。」
「馴れ馴れしかった?」
ぶんぶんと首を横に振った。勢いでピンクの毛先が真斗の制服をかすめる。
「逆だよ逆!嬉しすぎて死にそう!」
言ってから自分の発言に気づいたのか口元を手で押さえた。だがもう遅い。言葉は空気中に放たれた後だった。目がきょろきょろと泳いでいる。
蚊の鳴くような声で。
「今の忘れて……」
無理な注文だった。「嬉しすぎて死にそう」を忘却の彼方に葬れる人間がいるとしたら、それは相当な大物か、あるいは愛莉のことなどどうでもいい人間のどちらかだろう。
「そんな大げさな」
と言って真斗は笑う。
むぅ、と頬を膨らませた。
「大げさじゃないのに……」
小さな抗議だったがそれ以上は言えなかった。「じゃあどういう意味?」と聞き返されたら答えられる自信がなかったから。好きです、とはまだ言えない。出会って二日目だ。重い女だと思われたくない。そういう計算がちゃんと働いている。
一限目の数学が始まった。教科書を開く音、チョークが黒板を走る音。ごく普通の高校生活の風景。だが愛莉にとっては何もかもが輝いて見えていた。ノートの端に無意識にハートを描いては消し、また描いては消している。
ふと、愛莉が小さく折り畳んだメモを真斗の机にそっと滑らせた。
開くと丸っこい文字でこう書かれていた。
『今日のお昼、ツナマヨ二個買ったよ。楽しみにしててね♡』
「ね」にハートマーク。昨日より一段踏み込んだ距離感。そして「二個」という数字が示すのは——愛莉自身の昼食を削ってでも真斗におにぎりを届けるという覚悟だった。本人は平気な顔をして黒板を写している。横顔だけ見れば優等生そのもの。だが机の下ではつま先がそわそわとリズムを刻んでいた。昼休みまであと三時間。長すぎる。
真斗は愛莉の方を見るとニコッと微笑んだ。
視線がぶつかった瞬間、シャーペンの芯がぽきっと折れた。
笑顔を向けられた。ただそれだけのことで手元が狂ったのだ。慌ててノートで顔を隠す。耳が真っ赤だった。
ノートの影から小さなメモがもう一枚飛んできた。
今度はさっきより字が乱れていた。動揺が筆跡に出ている。
『その笑顔は心臓に悪いから。授業に集中できないよ。責任とって』
真斗はさらさらとペンを走らせメモを返した。
『責任っておおげさ(笑)』
メモを受け取った愛莉は、しばらくそれを見つめていた。「責任っておおげさ」という文字列を指でなぞる。真斗の字だ。筆圧は意外と強い。癖は右上がり。全部覚えた。
新しいメモにさらさらと書いて返す。
今度は丁寧な字に戻っていた。
『おおげさじゃないよ? もう人生変わった。出会えたから。』
数学教師がチョークを止めて振り返った。「そこ、雑談してないか?」——愛莉が瞬時に姿勢を正す。
にっこり笑って。
「してません!板書写してました!」
完璧な模範生の返答。教師は「そうか」と言って黒板に向き直った。クラスの何人かが感心したように頷いている。誰も机の下でメモのやり取りが行われているとは思うまい。
二限、三限と過ぎていく。その間もメモは途切れなかった。『好きな教科は?』『放課後なにしてる?』『休みの日は?』——質問の嵐。どれも当たり障りのない内容だったが愛莉の中では一つ一つが宝物のように蓄積されていた。真斗データベースの更新作業。空白を埋める快感。四限終了のチャイムが鳴った瞬間——
鞄からコンビニの袋を二つ取り出した。約束通り、ツナマヨが二個。
「屋上行こ!」
「うん!」
二人が教室を出る瞬間を複数の視線が追っていた。「また一緒かよ」「付き合ってんの?」——ざわつきを背中に浴びながら階段を駆け上がる。
屋上の扉を押し開けると春風が吹き抜けた。昨日より暖かい。フェンス沿いの日当たりのいい場所に愛莉が迷わず向かった。下調べ済みだった。この学校の屋上で一番風通しがよく、一番人目につかない場所。
レジャーシートを広げた。持参していた。用意がいい。
「どうぞどうぞ!」
ツナマヨを一つ差し出して自分はもう一つを開ける。鮭。
もぐもぐ食べながら。
「ねえ真斗くん。あだ名とかあったりする?小学校の頃とか。」
「あだ名?まーちゃん、まーくん、まな、まなてぃ、とーま辺りかな、主に」
目がきらきらと輝いた。情報が一気に流れ込んできた処理が追いつかない。
「まーちゃん……まなてぃ……」
口の中で転がすように呟いている。明らかにどれが自分に相応しいかを真剣に吟味していた。
ずいっと身を乗り出して。
「私が呼んでいいやつある?」
許可を求める姿勢は礼儀正しいが目の奥の炎は許可が下りる前から燃え盛っていた。
指折り数えるように。
まーちゃんはちょっとおばあちゃんぽいから……まなてぃもなんか違うな……まなとくんは普通すぎるし……
ぶつぶつと品評会が続いている。風に乗って金髪が揺れるたびに甘いシャンプーの香りが漂った。
「じゃあ何にする?」
ぴたりと動きが止まった。「何にする」ということは——選んでいいということ。自分だけの特別なあだ名を。
数秒間、完全にフリーズした。頭の中で無数の選択肢が高速回転している。「まな」「まー」「とーま」——どれも捨てがたい。でも。
両頬に手を当てて、とろけるような笑顔。
「まーくん。」
「まな」で終わるより「まーく」で伸ばした方が響きが可愛い。それだけの理由だったが本人にとっては天啓に等しかった。
照れたように目を逸らして。
「だめ……?」
「いいね可愛い」
ぼんっと音がしそうなくらい顔が赤くなった。膝を抱えて顔を埋める。
耳の先まで紅潮している。「可愛い」は愛莉が真斗から引き出したかった言葉リストの最上位に位置していた。それをこうもあっさり。
くぐもった声が膝の間から漏れる。
「反則だよ……そういうの……」
しばらく顔を上げられなかった。指の隙間からちらちらと真斗を窺っているのは本人だけの秘密のつもりだったが丸見えだった。
昼休みの残り時間が静かに減っていく。屋上には二人きり。春の陽だまりの中、金髪の少女が蹲っている光景はどこか絵画じみていた。
ようやく顔を上げて、まだ赤いまま。
「じゃあ私のことも何かつけてよ。あいり、だから……あいちゃんとか?」
自分から提案しておきながら「あいちゃん」と呼ばれた時のシミュレーションが脳内で走っているのか、もう目が潤んでいた。
「あいちゃん呼びやすいね!」
ぱぁっと花が咲くように笑った。
「やったぁ!」
両足をばたばたとさせて全身で喜びを表現している。高校二年生の女子としては幼い仕草だったが愛莉にはそれが一番似合った。
ごろんと仰向けに寝転がった。空を見上げている。
「えへへ。なんかもう今日死んでもいいかも。」
冗談めかした口調だったが目は本気だった。幸福の過剰摂取で本当に魂が抜けかけている。青い空を背景に金の髪が風に広がって、まるで雲の切れ端が落ちてきたようだった。しばらくそうしてから、むくりと起き上がってスカートについた埃を払う。
残りの鮭おにぎりを頬張りながら。
「放課後、まーくん暇だったら駅前のクレープ屋さん行かない?新しくできたとこ!」
既にリサーチ済みだった。オープン初日から行列のできる人気店。SNS映えするメニュー。カップルシートがあること。全部調べてある。
「いいよ!ねえ、みんなに付き合ってんの?って聞かれるんだけど良いの?平気?」
おにぎりが喉に詰まりかけた。
げほっと小さく咳き込んでからペットボトルのお茶で流し込む。目尻に涙が浮かんでいるのはむせたせいか、それとも別の理由か。
顔全体が沸騰したように赤い。
「へ、平気じゃないわけないじゃない……」
日本語が崩壊していた。「平気じゃないわけない」とはどういう意味なのか。否定なのか肯定なのか。
深呼吸を一つ。二つ。三つ。
覚悟を決めた目になった。茜色の瞳に春の日差しとは別種の熱が灯る。
真っ直ぐ真斗を見据えて。
「私は、そう思われても全然いいよ。」
声は震えていなかった。昨日までのあざとさも照れ隠しも全部剥がれ落ちた、剥き出しの本音だった。ただし——
ふっと笑って。
「まーくんが迷惑じゃなければ、だけど。」
「恥ずかしいな…」
その一言を噛みしめるように目を閉じた。「嫌だ」とは言われなかった。「恥ずかしい」——それはつまり。
拒絶ではない。少なくとも愛莉の解釈はそうだった。
目を開けて、いたずらっぽく笑う。いつもの調子が少し戻ってきた。
「じゃあ慣れてもらわないとね。もっと恥ずかしいこといっぱいする予定だから。」
さらりと恐ろしいことを言った。本人に自覚はない。「もっと」の中身が具体的に何を指すのかは本人の中で既にかなり詳細なロードマップが敷かれているのだが。
五限開始の予鈴が響いた。遠くで誰かの笑い声と足音。日常が二人を呼び戻しにくる。
ゴミを手早く片付けて立ち上がった。シートを畳む手つきは手慣れている。スカートの埃を払って真斗に手を差し伸べた。




