百五回目④
午後の授業は平穏に過ぎた。少なくとも表面上は。英語、化学、古典。六限目の終わりを告げるチャイムが教室に響いた瞬間——
「まーくん!行こ!」
クラスメイト数人が振り返る。「はやくね?」という男子の呟き。HRすら待てないのかと言わんばかりの速度だった。実際愛莉は六限が終わってから一分以内に教室を飛び出していた。
正門を並んで出る。桜並木のトンネルを西日が貫いて花びらが金色の雪のように舞っていた。駅前までは徒歩十分ほど。商店街を抜ける道すがら、愛莉が自然に真斗との距離を半歩分縮めた。
ショーケースに並ぶクレープのサンプルを指差して。
「あれ!あれ食べたい!いちごカスタード!」
店の前には五人ほどの列ができていたが愛莉の足取りと表情に一切の曇りはなかった。
「なんだかデートみたい」
真斗がそう呟くとぴたっと足が止まった。
列に並ぶ他の客が怪訝そうに振り返るほどの静止。三秒。五秒。
ゆっくりと真斗を振り返った顔には、満開の笑みが咲いていた。
「みたい、じゃなくてデートだよ!」
言い切った。一切の躊躇なく。列の後ろにいた女子高生二人組が「えっ」と小さく声を漏らしたが愛莉の耳には届いていない。世界には真斗しか存在していなかった。
そのまま列を進みながら、真斗との間の空白を完全に消した。肩どころか腕が密着している。
「だって私がまーくんを誘って二人で来てるんだから、これデートでしょ?」
理論武装までしてきた。頬は赤いくせに口調だけは堂々としている。前に並んでいたカップルの男の方がちらりと愛莉を見て連れの彼女に肘を突かれた。それほどまでに今の愛莉は眩しかった。
「どうしてまだ出会って二日目なのにそんなにしてくれるの?」
列が少し進む。メニューの看板が頭上に影を落としている。
少し黙った。珍しく言葉を選んでいるようだった。
昨日までなら「運命だから」と言えた。冗談っぽく笑いながら。でも今は——もう少しだけ正直になってもいい気がした。
前を向いたまま。
「ずっと好きだったんだ。一年の春から。」
あっけないほどさらっと出た。まるで昨日の夕飯の話でもするみたいに。
ちらっと真斗を見上げて苦笑する。
「ストーカーとかじゃないよ?遠くから見てただけで。……たぶん。」
「たぶん」に含まれた不穏さに本人は気づいているのかいないのか。
「一年前から!?」
てへっと舌を出して。
「一目惚れってやつだよ。入学式の日にまーくん見かけて、ビビッときちゃって。」
ちょうど列の先頭が近付き、店員の「次の方どうぞ」という声が飛んできた。
注文を済ませて窓際の席に座る。向かい合って座ったが愛莉の体はテーブル越しに前のめりだった。いちごクレープが運ばれてきても目線は真斗から外れない。一口かじってようやく視覚情報が味覚に追いついたらしい。
もぐもぐしながら。
「だから友達に聞きまくったんだ。あの人誰ですかって。名前、クラス、好きなもの、全部。」
聞かれた友人たちはさぞ困惑しただろう。昨日まで人見知りだった同級生が突然そんなことを聞いてくれば。
クリームを唇の端につけたまま笑う。
「でも話しかける勇気なくて。一年もかかっちゃった。」
その一年の間に何があったのか——真斗の行動パターンの把握、生活圏の特定、趣味嗜好の調査。それらは全て愛莉の「努力」の産物だった。語られない部分のほうが遥かに膨大だった。
「早く声かけてくれたら良かったのに」
その言葉が耳の奥を反響しクレープを持つ手が震えた。
早く声をかけてくれたら。それはつまり——もっと早くこうしていたかったということ? 少なくとも愛莉のフィルターはそう変換した。
目を潤ませて。
「ほんとに……?」
鼻の奥がつんとしている。泣きそうだった。たかが一言で。この女の感情の振れ幅は常人のそれではなかった。
慌ててクレープで口元を隠す。さっきついたクリームの上から更にチョコソースが混ざった。
「じゃあ月曜から毎日お弁当作ってきていい?」
飛躍が凄まじかった。「もっと早く声かけてくれたら」への回答が「毎日手作り弁当」になる回路は一般的な人間には理解しがたいが本人の中では完璧に論理が通っていた。
「お弁当!?」
真斗は突然の申し出に吹き出した。
ぶんぶんと首を縦に振る。
「笑わないでよ!本気なんだから!」
ぷくっと頬を膨らませたが目はきらきらしていた。「笑われた」ことすら嬉しいのだ。
スマホを素早く取り出す。メモアプリが開かれていた。
「好き嫌いある?アレルギーとか。」
もうメニュー構成に入っている。フリック入力の速度が尋常ではなかった。「まーくん弁当献立候補」と題されたリストが画面に表示されている。既存のリストは昨夜の段階で作成済みらしく、食材のカテゴリ分けまでされていた。
「ないよ」
ぱあっと顔面が光った。
「完璧!」
ガッツポーズ。クレープ屋の店内で拳を突き上げる女子高生。隣の席のサラリーマンがコーヒーを吹きそうになった。
猛烈な勢いでスマホに打ち込みながら。
「じゃあ月曜は朝五時に起きて……卵焼きは甘い派かな、しょっぱい派かな……」
独り言がダダ漏れだった。五時。始業まで四時間弱、気合が入りすぎている。
クレープを食べ終える頃には窓の外がオレンジ色に染まっていた。「そろそろ帰ろっか」と愛莉が切り出す。名残惜しさを滲ませながらも無理に引っ張らない。そのあたりのバランス感覚は妙に鋭かった。
駅までの道を二人で歩く。夕陽が長い影を伸ばす中、愛莉がそっと真斗の袖をつまんだ。
小声で。
「今日、すごく楽しかった。」
「うん!俺もすごい楽しかったよ!」
ぎゅっと袖をつまむ指に力がこもった。
立ち止まりはしなかった。ただ俯いて、前髪の奥で唇が三日月型に歪んでいた。「俺も楽しかった」。そのひと言が愛莉の中で何度もリフレインしている。
昨日と同じ路線バスに乗り「南三丁目」が近付いた。
ぱっと顔を上げた。笑顔。完璧な。
「じゃあまたね!」
バスに一人残された真斗は改めて帰路につく。ポケットの中でスマホが震えた。LINEの通知。
猫のスタンプと共に一言。
「帰ったら電話していい?」
――家に着いて風呂に入り、夕食を済ませた頃。時刻は午後九時を回っていた。スマホの画面が光る。
着信。ワンコール目で繋がった。
「もしもし!まーくん!」
声のトーンが対面の時とまるで違った。少し高い。弾んでいる。背景からは微かにドライヤーの音——風呂上がりらしい。自室からかけているようで、妙に静かだった。家族の気配がない。
ベッドにダイブしたらしく布団のふかっという音。
「今日さぁ、夢みたいだった。」
ごろんごろんと転がっているのか衣擦れの音とくぐもった笑いが交互に聞こえる。
ふと声が落ち着いたトーンに変わる。囁くように。
「ねぇ、お弁当……ほんとに楽しみにしててね。絶対おいしいの作るから。」
「あんま気負いすぎないでね」
ふふっと笑った声に布団に顔を押し付けたような響き。
「気負うに決まってるよ。初めての愛情弁当だよ?」
「初めて」を強調した。「これからもずっと作り続ける」という宣言をさらりと滑り込ませている。
しばらく沈黙。衣ずれの音だけが続く。
寝返りを打ったらしい。
ぽつりと。
「……まーくんの声、電話だと近い感じする。」
吐息混じりの呟きだった。耳元で囁かれているような錯覚を起こしているのかもしれない。あるいは意図的にそういう声を作っているのか。
また声が明るくなる。
「あ、ねえ。明日土曜日ひま?映画観に行かない?」
話題が次から次へと溢れ出す。土曜日、日曜日、その先——愛莉のカレンダーには真斗と過ごす予定しか書き込まれていない。
「いいよ、行こうか」
小さな悲鳴のような歓声。
布団をばふばふと叩く音。喜びの表現方法が独特だった。それから映画の話になった。「何が好き?」「アクション系?恋愛系?」——真斗から返ってくる答えの一つ一つを愛莉は脳に刻みつけていた。日記の今夜のページはまた分厚くなるだろう。
時計の針が十一時を指した頃。
ふわぁとあくび。
「もうこんな時間……そろそろ明日に備えて寝よっか」
名残惜しそうに。
「じゃあ……おやすみ、まーくん。」
一拍の間。
蚊の鳴くような声。
「大好き。」
「じゃあ付き合っちゃう?」
電話の向こうが完全に無音になった。五秒、十秒——回線が切れたのかと思うほどの静寂。
かすれた声。震えている。
「……え?」
聞き間違いを疑っている。あるいは都合の良い幻聴を。心臓の鼓動がマイクに拾われるほど激しく打っていた。
「一年前から好きだったってあれ、告白だよね?」
また沈黙。今度は更に長かった。三十秒。一分。スマホを握りしめているであろう愛莉の呼吸音だけが微かに聞こえていた。
涙声だった。堪えようとして失敗している。
「ずるい……そんなの……ずるいよまーくん……」
嗚咽が混じる。嬉し泣き。人生で最も幸福な瞬間が今ここにあった。
鼻をすすって。
「はい。告白、です。ずっとずっと好きでした。」
声が裏返っていた。もう取り繕う余裕など欠片もない。
「じゃあ…これからよろしくね。」
声を上げて泣いた。子供のように。抑える気すらなかった。
枕に顔を押しつけているのか声がくぐもっている。「よろしく」の一言が世界を塗り替えた。月島愛莉の世界が。
しゃくり上げながら。
「よろしく……よろしくお願いします……っ」
敬語に崩れていた。彼女になったのに敬語。ちぐはぐだった。でもそれが愛莉だった。しばらく泣いて、やがて少し落ち着いたのか鼻声で笑った。
ぐすっと。
「ごめん、泣いちゃった。……だって、夢に見るほど欲しかった言葉だったから。」
暗い部屋の中、涙で濡れたスマホを両手で握りしめて、天井を見つめている。瞼の裏にはきっと真斗の顔がある。
静かに、でもはっきりと。
「絶対離さないからね。」




