因果律
それから二人はもう少しだけ話した。明日の映画のこと、好きなお菓子のこと、くだらない話。日付が変わる手前で通話が終わった。
翌朝、午前六時。まだ薄暗いキッチンに愛莉はいた。エプロン姿。目の下にはうっすらと隈。待ち合わせは映画館に十時、休日なのに気合が入りすぎている。しかし表情は晴れやかを通り越して神々しいほどだった。
卵を割りながら小声で。
「彼女の初めてのお弁当……」
手際は良かった。料理の腕は膨大な繰り返しの時の中で磨いてきた。いつかこの日のために。二段弁当箱に彩りよくおかずが並んでいく。
午前九時五十分。待ち合わせの映画館前。愛莉は立っていた。弁当を二つ抱えて。一つは自分の分。もう一つはやけに丁寧に包まれている。
十時丁度。来ない。
十時三十分。上映開始時間。真斗は来なかった。
十一時。何人もの客が各々映画の感想を述べて笑顔で通り過ぎて行く。
スマホを見た。何十件目かのLINE。既読がつかない。電話をかけた。コール音が虚しく響いて留守番電話に切り替わった。
すっかり日が傾いていた。帰り道。事故現場の横を通った。「花束はこちらへ」と書かれた看板。手向けられた花。報道カメラ。規制線の黄色いテープ。
——高校生男子一名死亡。大型トラックが横断歩道に突っ込む事故。巻き込まれたのは市内の高校に通う男子高校生。
愛莉の足は止まらなかった。事故現場を一瞥すらしなかった。ただ歩いた。真っ直ぐに。無表情で。茜色の瞳から一切の光が消えていた。
自宅に戻った愛莉はそのままベッドに倒れ込んだ。しばらく動かなかった。やがてゆっくりと起き上がりシステムウィンドウを開いた。
セーブデータ一覧。指が画面をなぞる。
『ロードしますか?』
「四月九日午前六時…」
呟いた。声は平坦だった。怒りも悲しみもなかった。ただ事実を確認するように。
『はい◀』
のコマンドをタップする。
朝だ。
ロード完了。視界が白く弾けた。
——午前六時。キッチン。卵のパックに手を伸ばした瞬間、愛莉の動きが止まった。
目を閉じた。深く息を吸う。吐く。
同じ失敗はしない。二度と。トラック。横断歩道。あの道はダメだ。ルートを変えればいい。簡単な話だった。自らの生きる理由を死なせるわけにはいかない。
愛莉の指先がスマホの地図アプリを開いていた。画面には真斗の家から映画館までの複数の経路が表示されている。
独り言。低く、冷たく。
「あの道、トラックの通行多かったっけ。なんで見落としてたんだろ。」
自責だった。能力を持っていても全知ではない。いや、知ろうとしなかった怠慢。それが真斗の死を招いた——愛莉の中でその論理は既に完成していた。
別のルートに赤丸をつけた。遠回りになるが車通りが少ない道。
こっちから向かえばいい。
メッセージを打つ。送信。午前六時十分。
「まーくんおはよう!途中で合流して一緒に行かない?」
画面を見つめたまま微動だにしない。
既読すらつかなかった。当然だ。寝ている時間帯。焦るな。スマホを胸に抱いて天井を仰いだ。
「大丈夫。まだ大丈夫。」
自分に言い聞かせるように。それからキッチンへ戻り弁当の仕込みを再開した。卵焼きを巻く手つきは淀みないが目だけは時折スマホへ泳いだ。通知はまだない。
七時半。仕上がった弁当を保冷バッグに入れ、着替える。鏡の前で髪を整えながら笑顔を作った。練習するように口角を上げて、下げて、また上げた。
玄関を出る前にもう一度スマホを確認した。変化なし。
家を出た。休日の住宅街は空気が独特だ。歩きながらスマホで真斗への追加メッセージを三件打った。「今日肌寒いから上着持ってきなよ」「映画楽しみ」「帰りにアイス食べよ」
九時三十分。映画館の最寄駅に到着。改札を抜けた先に見慣れた背中を探す。
「あいちゃん!」
いた。生きている。改札の先真斗が立っている。
足が一瞬止まった。息が詰まった。それから弾けるように笑った。本物の笑顔だった。作り物ではない。
「まーくん!おはよー!」
小走りで駆け寄る足取りは軽い。昨日の記憶が愛莉の中にしか存在しないこの世界で、彼女はもう一度ここから始めなければならなかった。それでも構わなかった。
真斗は駆け寄る愛莉を抱きとめた。抱きとめられた瞬間、体が硬直した。一秒。それから全身の力が抜けて真斗に体重を預けた。
温かい。心音が聞こえる。生きている音。昨日失われたものが今ここにある。
顔を真斗の胸に埋めたまま。
「……あったかい。」
周囲の通行人が何事かとちらちら視線を向けていたが二人の目には入っていなかった。
「今日も可愛いね!」
ぱっと見上げた顔は耳まで赤かった。
「朝からそういうの反則……」
照れながらも離れようとしない。むしろ指先が真斗のジャケットの裾をきゅっと掴んでいた。
はにかんで。
「ね、今日お弁当作ってきた、映画終わったら一緒に食べよ?」
「うん!」
二人で手を繋ぎ映画館へ向かう。二人の後ろ姿を朝の陽光が照らしていた。並んで歩く影が一つに重なっていた。
――月曜日
一限目の英語。教室に入った真那斗をクラスメイトが出迎えた。
ひそひそと隣の生徒が話しかけてくる。
「なぁ、聞いた?隣の高校のやつ一昨日の事故で死んだって。やばくね?」
運命の改変には代償が伴った。
土曜日真斗が死んだ事故。あれが消えたわけではない。別の誰かが同じ時間、同じ場所で同じトラックに轢かれていた。世界の帳尻は合わさる。そういうものだった。
別世界線での真斗と同じ学校の生徒だったのかどうかは定かではない。ただ、どこかで誰かの命が代わりに消えていた。
廊下側の窓からその会話を耳にした。表情が一瞬だけ曇ったがすぐに笑みを貼り直した。小さく唇だけが動いた。
——ごめんね。
それが誰に向けた言葉なのか、愛莉自身にもわからなかっただろう。




