百五回目①
――春の陽射しが窓から差し込む教室。黒板には四月七日の日付が書かれている。桜の花びらが開け放たれた窓からひらりと一枚、机の上に落ちた。時刻は午前九時。始業のチャイムが鳴って十分ほど経った頃だった。
真斗は自分の席に座っていた。盗撮や盗聴は勿論告白された記憶すら存在しない。あるのは春休みが終わり新学期が始まったという漠然とした認識だけ。
教室はまだ初日特有のぎこちない空気に包まれていた。互いに様子を窺う新しいクラスメイトたち。席替えもまだで出席番号順に並んだ座席がずらりと教卓に向かっている。
隣の席の男子が「よろしく」と軽く手を挙げた。真斗は曖昧に頷き返す。記憶にはないが体が覚えているような、不思議な既視感が教室全体を覆っていた。
その時、教室の前方のドアがガラリと開いた。
「すみません、遅刻しました!」
金色に毛先が淡い桃色の髪。息を切らして飛び込んできた少女に教室中の視線が集まった。「かわいい」「誰あの子」とひそひそ声が漏れる。
担任が面倒くさそうに顎で空席を示した。「月島、そこ座れ」。愛莉はぺこりと頭を下げて小走りで席に向かった——その途中、真斗とすれ違う刹那。
ちらりと真斗を見て、目が合った瞬間ぱっと顔を赤くした。慌てて前を向き直す。
誰も気づかなかっただろう。ほんの一瞬の出来事。だが愛莉は自分の席についてからも、耳の先が赤いままだった。
始業式やホームルームは淡々と進んだ。生徒たちはまだ互いの名前すら把握していない。昼休みを迎える頃にはいくつかのグループが形成され始めていたが、それも表面的なものだった。
チャイムが鳴った途端、教室がざわめきに包まれる。弁当を広げる者、購買に走る者。初日にしてはまあまあの滑り出しだった。真斗が鞄からパンを取り出した時——
「あのっ!」
声の主はさっき遅刻してきた金髪の少女だった。手にコンビニの袋を提げている。頬がまだほんのり赤い。
もじもじしながら。
「隣、いいですか?友達まだ誰もいなくて……」
周囲の男子数人が「俺のとこ来る?」と声をかけたが、愛莉はちらりとも見なかった。まっすぐ真斗だけを見ていた。
「可愛い…」
真斗の目が丸くなる。
ぼんっと顔が真っ赤になった。
「かっ——かわっ!?」
思わぬ直球に完全にフリーズした。口をぱくぱくさせて金魚のようになっている。用意していた会話デッキが一瞬で吹き飛んだらしい。社交的で人当たりの良い愛莉——の片鱗はまだ芽吹いていない。ここにいるのは人見知りでコミュ障の月島愛莉だった。
うつむいて髪で顔を隠すように。
「そ、そんなこと……ないです……」
消え入りそうな声。耳どころか首まで赤くなっていた。提げたコンビニ袋がかさかさと震えている。緊張で手に力が入っているのだ。
教室の数人がこの光景を見て「あの子めっちゃ可愛くね」「あいつ誰だよ」とざわついていた。初日にしてはなかなかの注目度である。
意を決したように顔を上げて。
「あっ、あの!一緒にお昼食べてもいいでふか!?」
噛んだ。「いいですか」が「いいでふか」になったことに本人は気付いていない。
「なんだか照れちゃうな…」
愛莉はますます赤くなる。
「て、照れないでください……こっちまで恥ずかしくなるので……」
無理な注文だった。自分が赤面している時点で説得力は皆無である。それでも愛莉はおずおずと椅子を真斗の机に寄せ、ちょこんと座った。コンビニ袋からおにぎりを二つ取り出して一つを真斗に差し出す。
震える手で。
「これ、よかったら。ツナマヨなんですけど……」
真斗がツナマヨ好きだということを知っているのは、この時間軸では愛莉だけだった。前のループで百回以上のやり直しを経て蓄積された情報。だが今の愛莉にはそんな自覚はない。ただ「この人に喜んでほしい」という衝動だけで動いていた。
「ツナマヨ好きなんだよね、ラッキー」
ぱぁっと顔が輝いた。
「ほんとですか!?よかったぁ……!」
安堵の息が漏れた。外した時の保険に鮭と昆布も買ってあったが出番はなかった。心の中でガッツポーズをしているのが傍目にもわかるほど全身で喜びを表現していた。
自分の分のおにぎりを開けながら、ちらちらと真斗を盗み見る。食べてくれるかな、美味しいって言ってくれるかな。そんな期待が目に滲んでいた。
周りの男子が「おいおい」「抜け駆けかよ」と冷やかしの声を飛ばしたが、愛莉の耳には届いていない。世界には今真斗しか映っていない。そういう目だった。
おにぎりを一口かじって。
「あの……名前、聞いてもいいですか。」
同じクラスなのだから座席表を見ればわかる。それでも本人の口から聞きたかった。
「神守真斗です」
噛みしめるように呟いた。
「真斗……くん。」
その響きを確かめるみたいに何度か口の中で転がしている。
ぺこりと頭を下げた。
「私、月島愛莉です。愛莉って呼んでください!」
語尾にほんの少し力がこもった。「呼んでほしい」ではなく「絶対呼ばせる」という意志が見え隠れする自己紹介だった。初対面の人間にしては妙な押しの強さがある。
ツナマヨを食べる真斗をじーっと見つめて。
「おいしいですか……?」
聞かなくてもわかると思うのだが。だが愛莉は瞬きも忘れて真斗の反応を待っていた。まるで審判の結果を待つ被告人のような面持ちで。春風がカーテンを揺らし、桜の花弁がもう一枚ひらりと机に舞い落ちた。
「おいしいよ」
ふにゃっと笑った。目尻が下がって頬にえくぼができる。
「えへへ。」
たった一言でこの世の全てを手に入れたような顔をした。大袈裟でもなんでもなく、本当に心の底から嬉しかったのだろう。「おいしい」の四文字を宝物のように胸に刻み込んでいる。
もぐもぐと自分のおにぎりを頬張りながら。
「明日も買ってきますね!」
さらりと明日の約束をねじ込んだ。本人にその自覚はなかった。気付いた時には口から出ていたという類の発言。だが撤回する気は微塵もなかった。
昼休みが終わる頃、いつの間にか真斗と愛莉は並んで座って話し込んでいた。好きな音楽、休日の過ごし方、部活の予定。他愛のない会話。だが愛莉はその一言一言を脳内に録音していた。フォルダ分けまでしていた。「音楽:ロック系?」「休日:友達と?→誰と?→男?女?」という具合に。
五時間目の予鈴が鳴り、初日の昼下がりは終わりを告げた。席を戻す愛莉は名残惜しそうに何度も振り返った。小動物が飼い主と離される時のような顔だった。
帰りのHRが終わり生徒たちが三々五々散っていく中、真斗が鞄をまとめていると——
ちょこちょこと近づいてきた。朝の勢いはどこへやら、また借りてきた猫のようにおどおどしている。
「真斗くん、帰り道どっちですか?」
同じ方角なら一緒に帰りたい、という意図が透けて見えた。だがそれをストレートに言う勇気はまだない。だから遠回りな質問で探っている。
ちなみに愛莉はとっくに知っていた。南口のバス停を使って三つ目の停留所で降りて徒歩七分のアパート。一人暮らし。家族は県外。毎週水曜にスーパーの半額弁当を買うことまで把握している。それでも聞く。本人の口から。
おおよその方面を真斗が説明すると
ぱあっと表情が明るくなった。
「私もそっちです!途中まで一緒に帰ってもいいですか?」
今度は噛まなかった。「いいでふか」にはならなかった。学習したのか、それとも勇気が出たのか。おそらく両方だった。




