百七回目①
―――ロード
ロードが完了した。視界の白い光が収まる。見覚えのある朝。鳥のさえずり。カーテンの向こうの朝日。愛莉は自室のベッドの上にいた。
四月十一日月曜日午前四時半
足場の崩落、工事現場。昨日真斗が帰った道の途中。あそこは確か——先月から工事が始まっていた。知っていたか? 知らなかった? いや、違う。ルート変更の代償だ。別ルートに移したことで新たな危険が発生した。能力の揺り戻し。
両手を顔に当てる。指の隙間から声が漏れた。
「あたしのせいだ。」
突然電子音が鳴り響いた。意図せず空中にシステムウィンドウが表示される
『―警告―
愛莉と真斗はまだ結ばれる運命にありません。
運命の改編は必ず真斗の身に不幸が起こります。』
愕然とした。ベッドの上で膝を抱えたまま動けなかった。能力が告げたメッセージが頭の中で反響している。
まだ結ばれる運命にない。近づこうとするほど真斗に不幸が降りかかる。
枕を殴った。何度も。
じゃあどうすればいい。友達の距離を保てというのか。見ているだけでいろと。能力に覚醒して、努力して、ようやく手が届きかけたのに。
歯を食いしばった。血の味がした。
スマホが手から滑り落ちてシーツの上を転がった。「今日まーくんに会える♡」と書きかけのメモが画面に残っていた。
――七時五十分。
いつもの駅前で真斗が立っている。何も知らない。何も覚えていない。今日という日を初めて迎える顔で。
柱の影から見ていた。出ていけなかった。足が動かなかった。昨日までは飛びつくように駆け寄れたのに。
周りの女子高生が真斗を見てひそひそ話している。「あの人かっこよくない?」「誰待ってるんだろ」。
爪が掌に食い込んだ。
近づけば不幸が来る。離れれば他の誰かに取られる。詰んでいる。最初からこの恋は詰みだったのか。
唇が音もなく動いた。「好き」。声にはならなかった。
真斗は顔を上げてそのまま学校へ向かった。誰とも合流せず、一人で歩いていく。いつもの朝だった。特別なことなど何もない。
柱に背を預けたまま見送った。姿が見えなくなるまで。
遅刻ギリギリの時間に愛莉も学校に着いた。目元を冷水で冷やした痕跡。それでも教室ではいつも通りの月島愛莉だった。友人と笑い、先生に愛想を振りまき、告白してきた男子を三十秒で切った。
完璧な仮面。誰にも悟らせない。それが愛莉の能力以前の、素の強さだった。人見知りだった少女が血を吐く思いで身につけた処世術。
昼。廊下ですれ違った。肩が触れそうな距離。愛莉の体がびくりと強張った。
目を伏せて通り過ぎようとした。唇の裏を強く噛んで。笑顔を作る余裕すらなかった。
すれ違いざま、真斗が足を止めた。
背中に気配を感じて心臓が跳ねた。振り返りたい。振り返れない。
廊下を行き交う生徒たちの喧騒の中、二人の間だけ空気が凍っていた。
「あいちゃん!なんか今日素っ気ないよね、俺、何かしちゃったかな?」
びくっと肩が震えた。
反射的に振り返ってしまった。仮面が剥がれかけている目。赤みの残る目元。それを隠すように髪を触った。
「ううん、なんにもしてないよ。ちょっと寝不足なだけ!」
嘘ではなかった。確かに寝ていない。しかし原因を言えるわけがない。
笑って見せたが目線が泳いでいた。真斗の顔を直視できない。
近い。会話するには近すぎる距離。このまま不幸が——。愛莉の思考がそこに至った瞬間、半歩後ずさった。
後ずさった自分に気づいて、はっとした顔をした。
不自然だった。明らかに。普段の愛莉なら自分から距離を詰める人間だ。
慌てて笑った。手をぶんぶん振って。
「ごめんごめん!あたしちょっと暑がりだから!人混みで体温上がっちゃって!」
四月の廊下は適温だった。苦しい言い訳だった。
「なにそれ」
そう言って真斗は笑った。
乾いた笑いで合わせながら、スカートを握りしめていた、指先が白い。
「あはは、変だよね。じゃ、あたし頼まれごとあるから!」
逃げた。小走りで人波に紛れていく金髪。振り返らなかった。
残された真斗は首を傾げていたかもしれない。昨日までべったりだった彼女が急によそよそしい。理由がわからない。
角を曲がって真那斗の視界から消えた瞬間、壁に手をついた。息が荒い。目の奥が熱い。
愛莉はそこで立ち尽くしていた。額を壁に押し当てる。
「無理だ。こんなの無理に決まっている。」
小さく呟いた。独り言。いや、自分への問いかけ。
運命を曲げなければ不幸は来ない……でも曲げなかったらそもそも結ばれない……。
二律背反。進めば地獄、退けば永遠の片想い。
制服の胸元をぐしゃりと掴んだ。
選べるわけがなかった。どちらも愛莉にとっては同じ地獄だった。ただ、失う痛みには慣れ始めてしまっている自分がいた。それが一番怖かった。麻痺していく恐怖。諦めに近づく自分。
スマホを取り出した。「まーくん♡」のフォルダ。盗撮写真が三百枚以上。それを見つめて、ゆっくりと画面を閉じた。
放課後。下駄箱。
真斗が靴を履き替えていると、隣の列で愛莉がローファーに足を入れていた。今日は別々に帰るつもりだった。少なくとも愛莉はそう決めていた。
「あいちゃん、一緒に帰らないの?」
手を止めた。背中を向けたまま。
「うん。今日はちょっと用事あるから。」
用事などなかった。真っ直ぐ家に帰って、日記を書いて、盗聴器のイヤホンを耳に突っ込んで、真斗の生活音を聴くだけの夜が待っている。
振り返らないまま、ロッカーの扉を閉めた。金属音が廊下に響いた。
「じゃあまた明日」
やっと振り返った。笑おうとして、うまくいかなかった。中途半端な口の形。
「……うん。またね。」
小さく手を振った。ぎこちなかった。まるで初めて真斗と会った日の再現のように。
校門を逆方向に出る二人。一度も振り返らなかった。少なくとも愛莉は。
真斗の足音が遠ざかっていく。イヤホンをつけていないから、今日はその音を拾えなかった。




