肆 影の悪夢
雨の上がった朝は、草に滴る朝露が光り、空気が澄んでいる。
「この朝露に濡れた葉がいいんじゃ。これもよい薬になりそうじゃわい」
紅梅はこの時間、近くの野山を散策がてら薬草摘みに出かける。薬草を手に取り、満足そうに微笑んだ。
梓は庵の縁側で、相変わらずゴリゴリと薬研を動かし、ひたすら薬を作っていた。
庵には梓一人。
床には色々な種類の薬草が散らばっている。
カサッ。
「ん?」
床に置いてあった薬草が、少しだけ動いた気がした。
音のする方に目をやった……次の瞬間!
梓は固まった。
「……っ!」
今まで気づかなかったが、『そいつ』は暫し梓の近くで様子を伺っていたのだ。
梓は、『そいつ』と目が合ったような気がした。
( ヒッ!)
瞬時に脳が察知する。
(やばい……やばいやばいやばいやばいッ)
体が言うことをきかない。
(早く逃げなければ!)
そう頭ではわかっているのに、体は金縛りにあったように動かない。
ほんの少しの時が、永遠のように感じられた。
『そいつ』は間違いなくこちらを見ている。
まるで梓のことを、観察でもしているかのようだ。
そして、少しずつ梓との距離が、じわ……じわ……と詰まってくる。
……と、次の瞬間!
『そいつ』は、梓めがけて飛びかかってきた!
「いゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
◇ ◇ ◇
――その頃。
刹は離れの自室にて、紅梅から頼まれた薬草本の書き写しに励んでいた。紅梅からは、本の書き写しや、修理をよく頼まれる。意外にも手先が器用な刹にとって、そんなことは朝飯前だった。
窓から吹き込む風がほどよく、心地いい。
大きな欠伸をしながら、つい居眠りをしそうになる。
うとうとしたその時、梓の金切り声の叫びがはっきりと聞こえた。
「……! 梓っ!?」
ガタンッと大きな音を立て、思わず足を机に思い切りぶつける。
「@#&*$$¥……ッ!!」
今まで聞いた事のない声。
ただ事ではない。
痛みに悶絶しながらも、刹は裸足のまま、ものすごい速さで部屋を飛び出していた。
ちょうど帰ってきた紅梅の目の前を、刹が突風のように駆け抜けていく。
「今の悲鳴は何じゃ!? おい、刹! せーつッ!」
刹は紅梅の言葉に、振り向きもせずに走り去っていった。
――梓の声は山々にも響き渡り、鳥たちが一斉に飛び立つ。
刹が庵に入るやいなや……。
ドガァッ!
「いぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!」
刹の悲痛な叫び声が響き渡る……と共に、
ぱちぃぃぃん!
思い切り引っぱたく音がした。
紅梅が「はぁはぁ」と息を切らしながら庵に入ると、そこには床に突っ伏した刹がおり、その傍らで梓が半泣き状態で息を切らし震えていた。
部屋は荒れ、薬棚の引き出しと薬草は部屋中に散乱している。
「梓……、なにがあったんじゃ!?」
紅梅が真っ青な顔の梓に近づこうとした、その矢先。
「……ひっ!」
梓が短い悲鳴をあげ、何が恐ろしいものでも見たかのように顔が歪む。
梓の見ている方向に、紅梅も視線を向けると、刹の背中を、『そいつ』が這っていた。
梓は石のように固まり、身動きが取れない。
紅梅は見るやいなや、「ふんっ!」と刹の背中にいた『そいつ』を素手で叩いた。
「いってぇぇぇぇぇっ!」
刹が紅梅の会心の一撃に目を覚ます。
紅梅は『そいつ』を手に取ると、ぽいっと山の方へ投げ捨てた。
「まったく……、情けないのぉ! こんな虫一匹に何を大騒ぎしておるのか! あと片付け、ちゃんとしておけよ!」
そういうと、紅梅は井戸へ手を洗いにいった。
「はい……。すみませんでした……」
梓は一人、申し訳なさそうに片づけを始める。
そこへ、使いに出ていた火緒と火弦と朔が、荷物をいっぱい抱えて帰ってきた。
庵の惨状を見て、目を丸くする。
「えっ? どうしたの!? なんか獣が入ってきた!? 狸っ!?」
「きゅっ!?」
朔が庵の惨状を見て、慌てふためく。それにつられてよすがも驚いて、朔の髪の中に隠れようとする。
「猪かっ! 猪がでたんかっ!?」
「まだ近くにおるかもしれへんな」
火緒と火弦も辺りを警戒する。
刹はむくりと起き上がり、三人に告げる。
「いや、猪より凶暴だった……」
その顔は真っ赤な手形が腫れ上がり、背中を手で擦りながらとぼとぼと井戸へと歩いて行った。
「ほんま……、何があったん?」
三人は顔を見合わせ、刹の背中を見送った。
――しばらくして。
三人は、紅梅から事情を聞いた。
庵の縁側で、不貞腐れながら頬を濡れ手ぬぐいで冷やす刹がいた。
上着を脱ぎ、背中の紅梅が付けた手形を梓が冷やす。さらに、刹は袴を手繰りあげ、膝小僧の上にできた青タンを規則正しくさすっている。
その脇でひたすら謝る梓がいた。
「ほんっとにごめん! 俺、『あいつ』だけはほんとに無理でさ。あのカサカサ動くアレが……」
思い出しただけでも鳥肌が立ち、両腕を掴み竦み上る。
「俺が子供の頃にね、後から食べようと思って、団子をつづらの中に隠してたんだよ。それをすっかり忘れて、ある日つづらを開けたら……。その中にわさわさ『アイツ』がいてさ。それ以来無理になった……。ほんとごめんっ!」
梓が必死に手を合わせ謝る。
話を聞いた刹は、ふっと引き攣らせ気味に口元を緩ませた。
「いや、いいんだ。引き出しを投げつけられ、思い切り引っぱたかれた挙句、ばあさんには背中を思い切り叩かれ……俺の背中で"アレ"が潰れたことぐらい……なんてことない」
刹はどこか遠くを見ながら、無心で打ち付けた膝を摩り、皮肉る様に事の顛末を呟いた。
「ごめんってば!でも、あの着物は二度と着ないで……」
刹は遠くを見ながら、黙って小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
――そのやり取りを庵の影から見ていた三人。
『刹兄……』
『そいつ』に遭遇した時の梓には、決して近づくまいと固く三人と一匹は心に誓った。
その頃。
玄瑞は、梓のあの悲鳴にも動じず、高いびきで寝ていた。




