廿伍 梓の記憶 其の弐
足元に散らばった黄金に、光が鈍く反射した。
まるで、濁った血の色に見えた。
――次の瞬間、轟音が地を揺らし、窓の桟が軋んだ。
火の粉が舞い、障子の白を赤く染める。
外から押し寄せる武士の怒号と金属音。
それらは確かに耳に届いているはずなのに、梓には遠い世界の出来事にしか感じられなかった。
腕の中の帳簿。
墨で刻まれた自分の名と『白曼珠沙華』『戦果、白』の文字が、視界を塞いでいた。
『調合 梓』『毒薬師』
震える指がその字をなぞるたび、胸の奥を針で突かれるように痛んだ。
父と母が曼珠沙華から作り出した毒は、明らかに失敗作で、殺傷能力はほぼ無かった。
自分のものには、父と母の作ったものにはない言葉、"即死"と書かれている。
(僕が毒を……作っ )
喉の奥は焼けつき、呼吸が途切れ途切れになる。
――その時、荒々しく戸が弾け飛ぶ音がした。
板戸が壁に叩きつけられ、乾いた衝撃が室内に響く。
振り返るより早く、冷たい夜気と煙の匂いが一気に流れ込んできた。
そこに立っていたのは、顔を真っ赤にして息を荒げる父と母だった。
父の衣は煤と泥に汚れ、母の衣の裾には血のしぶきが斑に散っている。
二人とも眼を血走らせ、焦りと恐怖を剥き出しにしていた。
「梓!どこなのっ!?」
母の声は掠れて震えていた。
泣き声のようで、必死に押し殺そうとしているのがわかる。
だが梓は返事をしなかった。
腕の中に抱えられた帳面。足元に散らばる黄金。
指先は震え、夢か現かの境にいるかのように意識が遠い。
父の視線が炎と煙の中、梓を見つける。
「梓ぁ! こっちにこい!」
母が声を震わせて駆け寄る。
「他国の兵が攻めてきたの! 早く逃げないと! 私たち殺されてしまうわっ!」
「急げっ!何をしている!」
父の怒声が爆音と混ざり空を裂く。
畳が震えた気がして、梓の胸を押し潰すように重く響いた。
梓はゆっくりと顔を上げた。
血の気の失せた頬は蝋のように白く、震える唇がかすかに動く。
「……嘘、だよね?」
声にならない声が、かろうじて音となって空気に滲む。
張り裂けそうな胸の奥から、搾り出すように。
どこを見ているかも分からぬ目から、ぽたりと涙が帳面を濡らした。
墨の文字がにじみ、梓の視界を曇らせる。
けれど、その滲みさえも現実を否定してはくれなかった。
「嘘だよねッッ! 僕、毒なんて作ってないよね!? お父さんとお母さんは"薬の作り方"を教えてくれてたんだよね!? みんなを殺してなんかないよねっ!?」
梓は堰を切ったように、母に対して叫ぶ。
「梓……違うのよ! あなたの為だったのよ!」
母が必死に梓の両肩を掴み、言い聞かせるように声を震わせる。
「梓! 俺たちは御殿様から仰せ使って『薬』を作っていたんだ。『薬』なんだ! とりわけお前の作ったものは素晴らしいと、お褒めに預かった! お前が作り出したんだ! お前を"薬師"として迎えたいと仰せ使った! これほど名誉なことはない!」
吐き出す言葉は人の言葉のはずなのに、梓には何を言っているのか分からなかった。
父の眼はぎらつき、名誉と褒美、欲に眩んだ獣にしか見えなかった。
「梓は素晴らしい薬を作り出したの。大殿様はとても喜んでいらしたそうよっ! そして、梓の事も! こんなに素晴らしい薬師なんて、どこを探してもいないって!」
『父と母は、赤坂から脅されていたのかもしれない』そう思いたかった。
「お前はこれから赤坂に行き、城仕えの薬師になるんだ! お前の"薬"が戦に使われるんだぞ。これ程誇らしいことは無い! お前のおかげで、この薬師村も安泰だったのに!」
――違う。これは父じゃない。母じゃない。
父は自分を褒めてくれた。
母は自分を看病してくれた。
勉強も教えてくれた――
胸の奥で何かが崩れ、梓の視界は歪んだ。
自分を喰らい尽くそうとする――化け物がそこにいた。
「梓、行くぞ! お前が行きさえすれば、村なぞいくらでも復興できるッ」
父が梓の手を掴み、無理やり連れていこうとする。
「離せっ!」
梓は父の腕を振り切った。
母は反動で突き飛ばされたが、梓の持つ帳簿を奪おうと再び手を伸ばす。
「その帳簿を渡しなさい! それは大切な物なの! それとお前を赤坂に渡さなければ、私たちは!」
母の言葉に咄嗟に身体が動く。
「寄るなっ!」
近くにあった診療用の小刀を掴み、震える腕で突き出すように胸の前に構えていた。
「やめろ! 言うことを聞け! 赤坂様がお前の腕を所望されておられるのだ! これほど名誉なことがあるか! これまで、これだけ成果を上げてきのに、無駄にする気かっ!」
『やめろ……。言うことを聞け。お前は、俺たちの金と名誉のために必要なのだ。お前は、道具だ。無駄にはできん……』
父や母の声が、宙を舞う。
(……そうか。僕は、赤坂に売られたのか)
何も聞こえない。
何も視界に入らない。
世界が時が、ゆっくりと動く。
父の声が歪む。母の手が怖い。
気づけば、父は怒声をあげて覆いかぶさってきていた。
持っていた小刀で、父の喉元を突き刺し、裂く。
血が梓に降りかかり、父は喉元を抑えその場に倒れ込む。
呼吸音が血の吹き出るたびに、ひゅーひゅーと鳴った。
その音すら梓の耳には遠く感じられた。
梓の胸は荒く動き「はぁはぁ」と上下する。
「梓!」
母が梓の腕を掴む。
だが梓には、その顔すら父と同じ“化け物”にしか映らなかった。
血に濡れた眼差しも、震える唇も、人のものとは思えなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!」
「やめて……」と母に声をかけられたのかもしれない。
けれど梓の耳には届かなかった。
まとわりつく物を振り払うように刃を突き出した。
母の体が小さく震え、力が抜けていく。
その唇はわずかに動いたが、声はもう――届かなかった。
母は静かに梓の腕から滑り落ちる。
崩れ落ちる母を見ても、梓の瞳は何も映さなかった。
ただ目の前にいる“化け物”を、父と同じように突き刺すしかなかった。
梓の視界は赤に染まり、世界そのものが崩れ落ちていくようだった。
母が倒れたのも、父が呻くのも、すべて遠く、夢の底から聞こえる幻のようにしか感じられない。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"っっ!」
震える手は、小刀を離そうとしなかった。
いや、離せなかった。
我を忘れ何度も、何度も。
目の前の“化け物”に刃を突き立てなければ、恐怖が消えなかった。
やがて、父と思われる男の口から濁った息が漏れた。
そいつは、目だけ梓にギロリと向ける。
絶命を告げるかのように、最後に吐き出された言葉は――
『……化け……物……が』
その声が、梓の胸を鋭く貫いた。
父は確かに化け物に見えた。
欲に目が眩んだ、化け物。
だがその父に、自分が化け物と呼ばれた。
化け物の子は、化け物。
――梓の心は、その瞬間に砕け散った。
畳に散った血の臭いが、鼻腔にこびりついて離れなかった。
梓はふらふらと家を出て、燃え落ちる村をさまよった。
「僕が……みんなを。薬……」
それ以外何も考えられず、何も感じられない。ただ足だけが勝手に動いていた。
炎に照らされる影が揺れ、煙が喉を刺す。
父の声が耳にこだまする――『化け物が』
それだけが、途切れ途切れに何度も蘇り、胸を抉った。
血に濡れた指先を見ても、恐怖も後悔も湧いてこなかった。
もはや、生きている実感そのものが失われていた。
どれ程の時間、彷徨い歩いたのだろうか。
村外れに差し掛かった時、闇の中からひとつの影が現れた。
面頬で顔を隠した男――村を襲った一人に違いない。
刃を振り下ろされるのだろう、と梓は思った。
だが恐怖はなかった。
むしろ、それで楽になれるとさえ思った。
男は無言で梓に近づき、倒れ込む身体を支えた。
そのまま、ひょいと抱き上げる。
「……こいつは、連れていくか」
面頬の奥から低くぼそりと男の声が漏れた。
梓は抗うこともできず、虚ろな目で呟いた。
「薬を……」
──それから二日。
梓は気がつけば森を歩かされていた。
一日目は何故か、森の奥に身を潜めた。
男は何かから逃げているかのようにも見えた。
森の中をひたすら歩き、川の水で喉の乾きを凌いだ。
自分の足なのか、誰かに引かれているのかさえ曖昧なまま。
昼も夜もわからず、ただ足だけが地を擦っていた。
日も大分陰りだしたころ、木々の奥に一軒の家と大きな棟が現れた。
男は戸を荒々しく開け放ち、大声で誰かを呼んだ。
「玄瑞! なんじゃ! ここは、子守り場かなんかと思うておるのか!」
切れながら紅梅は玄瑞に詰め寄る。
玄瑞は「まぁまぁ」と笑いながら、紅梅を宥める。
「まったく。誰に似たのかの! 犬や猫のように拾うて来るでないっ!」
ブツブツと文句をいい、玄瑞を睨む。
その光景をただぼんやりと見ていた時――。
「お前、きったねぇな」
背後から投げかけられた声に反応し、振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
洗濯物を入れた"たらい"を持ちながら、こちらを見ていた。
こうして、梓は刹と出会った。




