廿肆 梓の記憶 其の壱
――梓。
磨った墨の匂いが、家の一室に淡く広がっていた。
梁から薬草が吊るされ、棚には壺や紙包みが所狭しと並んでいる。
母の筆が紙の上をすべり、黒い線が新しい文字を形にしていく。
母の横にべったりと寄り添い、母の手を目で追う。
「梓、これは“薬”という字。わかる?」
「うん!」
梓は紙を覗き込みながら指でなぞった。
墨の黒がまだ濡れていて、光を受けて艶めいている。
梓の小さな指に墨がつき、思わず服で拭い「えへへ」と笑う。
母はにこりと笑って梓の頭を撫でた。
「覚えが早いね。ほんとにえらい子だよ」
隣で薬研を使い薬草をすり潰しながら、見ていた父も声をあげる。
「たいしたもんだ。俺より賢くなるんじゃないか」
「ほんとに?」
「ほんとさ。梓はすごい子だ。父さんの自慢の子だぞ」
胸がじんわり熱くなって、梓は思わず笑みをこぼした。
「僕も父さんと母さんみたいな、立派な"薬師"になれるかな?」
「おう。なれるさ! 父さんより、もっとすごい薬師になるぞ?」
父の言葉を聞き、飛び跳ねて喜ぶ。
墨の匂いも、両親の声も、部屋に充満する薬の匂いも、すべてが梓にとって幸せだった。
――ある日。
「梓っ! だめよ! 早く手を洗いなさいっ!」
母は慌てて梓の手を、水の張った桶に入れた。
「どうしたっ!?」
父が血相変えて、隣の部屋から飛んでくる。
「梓が、曼珠沙華を……!」
見ると、梓は父と母の調合を、見よう見まねでしていた。
「早く手を洗わないと!皮膚や爪から毒がっ!」
母は慌てふためき、梓に手を洗わせる。
ところが、父は梓を見て怪訝に思った。
「梓? なんともないか? 痛みや、痺れ、気持ち悪くなったりは?」
梓はケロッと応える。
「ううん! 全然何ともないよ! うーん。でも、ちょっとだけピリピリするかな?」
父と母は驚いた顔を見合わせた。
「梓、ほんとに、どこも何ともない?」
「うん! 大丈夫! 勝手に触って、ごめんなさい」
梓は怒られると思い、父に先に謝った。
「い……いや、いいんだ! 梓、すごいぞ! どんどんやっていいからな!」
父からてっきり怒られると思いきや、凄く褒められ誇らしく思えた。
◇ ◇ ◇
ある日、梓の家に城からの使いの者がやって来た。
「篝おにいちゃん!」
「梓くん、お元気でしたか?」
半年ほど前から、城の使いがやって来るようになり、父と母から薬を受け取る。
その代わりに、高い代金を置いて帰った。
梓は篝が大好きだった。
普段は、薬の勉強や調合で遊ぶ暇などない。
当然、友達もいない。
唯一、篝が梓の遊び相手だった。
「ねぇ、篝おにいちゃん。これ」
梓は小声でこっそりと小さな麻袋を渡した。
「これは……なんですか?」
「お父さんとお母さんのお薬にちょっと色々混ぜてみたんだ。触って、ピリピリが強くなるのはよく効いてる証拠だって。お父さんが言ってたから。使ってみてよ」
篝は、梓のあどけない顔に手を添え、驚きを見せる。
「梓くん。使ってみますね。ありがとうございます」
梓は「えへへ」と、照れながら笑った。
◇ ◇ ◇
――しばらくして。
また篝がやってきた。
いつもとは、様子が少し違っていた。
父と母と、何やら興奮気味に話している。
父は歓喜の声を上げ、母は涙した。
「梓っ! よくやった! お前の作った薬が、大殿様に大変気にいられたとの事だ!」
「ほんとっ!?」
梓は胸が躍った。
篝も嬉しそうに微笑み、梓に近づいてきた。
「梓くん。君の作った薬は素晴らしいよ。多くの人が助かったんだ。これからも、沢山作って、みんなの為に尽くしてね」
「うんっ!」
篝が今まで見せたことのない笑顔で、梓の頭を撫でてくれた。
それが、堪らなく嬉しかった。
◇ ◇ ◇
「お母……さん」
梓は、本格的に薬を調合するようになってから、はぁはぁと赤い顔をし、よく熱を出すようになった。
「大丈夫よ。大丈夫。すぐに楽になるから」
母はその度に、付きっきりで看病してくれた。
やがて、体に熱がこもり、床に伏す日も増えていった。
息苦しさに目を閉じていると、母が冷たい手ぬぐいを額にあててくれる。
それが何とも気持ちよく、心地いい。
病気で苦しいのに、母の優しさを感じるのがたまらなく好きだった。
父は囲炉裏で薬草を煮出し、団扇で冷ました物を差し出す。
苦い匂いが漂ってきて、梓は顔をしかめた。
「……にがい」
「我慢だ。薬を飲める子はすぐに元気になるぞ」
父の言葉に母の笑顔が重なる。
『薬は苦いけれど、やさしいもの』
そう両親から学んだ梓は、少しくらい苦くても我慢して飲んだ。
――その夜、寝汗で目を覚ました梓は、喉の渇きを覚えて戸口に近づいた。
わずかな隙間から外を覗く。
月明かりの下、父と母が赤い衣をまとった男と向かい合っていた。
男の袖口に、黒い糸で記された蛇の様な紋。
(篝おにいちゃん!)
梓は戸口から出ようとしたが、踏みとどまった。父と母は、何やら頭を下げひたすら謝っている。
「このままでは、大殿の怒りに触れ、この村は潰されてしまいますよ。よいのですか?」
「はい。それは……。すぐに何とか……」
父が焦っているのか、手ぬぐいで汗を拭う。
「これは前金です。彼を潰す事のないように。殿がお待ちですから」
篝の手から袋が差し出され、母が両手で受け取る。普段見たことのないほど深く頭を下げていた。
梓の小さな胸をざわつかせる。
(お父さん……?お母さん……?)
梓はそのやり取りから目が離せなかった。
篝が去り際、こちらを見たような気がした。
その瞬間、心臓が跳ね上がり、慌てて布団に潜り込んだ。
(大丈夫。あんな隙間、見えるわけない!)
恐怖に怯えた。
今まで見たことのない篝だった。――やがて眠りに落ちた。
――陽の光が窓から差し込み、目を覚ました梓は、昨夜の光景を思い出した。
けれど寝ぼけて見た夢のようにも思えた。
父と母は、普段と何一つ変わりなく接してくれる。
(……夢だったのかもしれない)
そう自分に言い聞かせ、気にしないようにした。
―― それから二年の月日が流れた。
梓は両親から薬を学び、父や母をも超える調合をするまでとなった。
幼い頃から遊びながらやっていたが、今では基礎から学び、身についてきていた。
この頃には、いくら薬を調合しても体調を崩さなくなっていた。
両親が往診に出て、梓が家にひとり残された日のこと。
いつも読んでいる父の書いた薬草書が見当たらなかった。
(お父さんの棚にあるかもしれない)
そう思い、普段は近づかない棚を開けた。
中を探しても書物は見当たらず、代わりにひときわ目を引く分厚い本が目に入った。
光の加減か、墨の匂いのせいか――その帳面が梓を呼んでいるように思えた。
(なんだろう……これ……)
気づけば自然と手が伸びていた。
表紙には「調合記録」と墨で記されている。
(……お父さんの仕事の記録?)
胸が高鳴った。どんなことが書いてあるのだろう。
父から薬は教われど、父の仕事を間近で見たことはない。
尊敬する両親をもっと知りたい。
それは、子供心に小さな誇りさえ感じる出来事だった。
けれど、頁をめくった瞬間、梓は息を飲んだ。
○月×日。
『曼珠沙華使用』『吐き気』『痺れ』
『めまい』『頭痛』『痙攣』『窒息』
『死亡』『致死量は個体差による』
『戦果、白』
(……なに、これ?どういうこと……?)
目が離せなかった。
めくっても、めくっても、同じ言葉が続く。
日付と薬の効果。
○月×日。
『野盗実験』『効果有』
手が震えた。胸が痛い。
頭の奥で、"何か"受け取る両親の姿がよみがえる。
あれは、夢じゃなかった……?
“薬は人を助ける知恵だ”と、父は言った。
“梓も覚えなさい”と、母は笑った。
悪い予感がする。
その言葉が頭をよぎる中で、梓は次の頁をめくった。
そこで見つけたのは、見慣れた自分の名だった。
○月×日。
『白曼珠沙華』『即死』
『戦果、白』
『毒薬師として適正あり。赤坂献上』
『調合法……』
息が詰まり、視界が揺れた。
頁の最後にある、調合の書付に目を見張る。
『調合 梓』
「え……」
梓の脳裏に父の本で読んだ知識が蘇る。
(毒……? 毒なんか作ったこと……ない。僕、薬を作ってたんだよ……ね?)
信じていた両親から、いつからか自分は薬ではなく毒の調合をさせられていた――。
(いつから?)
梓は帳簿をものすごい速さでめくる。
記録を辿ると、2年前の日付が最初。
遊びで調合を始めたあの頃。
よく熱や腹痛で寝込み始めたあの頃。
『梓、凄いね』
『梓、どんどんやれ』
繰り返し言われてきた父と母の言葉が、墨の黒に押しつぶされていく。
(僕の作った薬が……みんなを殺したの? 僕が、人殺しの……く……すり……を……?)
胸の奥で、何かがバキリと折れる音がした。
あまりの衝撃に目眩を覚え、ふらつく。
棚の上から箱が落ち、ガシャリと音を立てる。
そこには、見たことも無いほど大量の黄金が散らばっていた。




