拾参 刹の記憶 其の弐
二年も経てば、刹の声は泣き叫びではなくなっていた。
髪は伸び放題になり服もボロボロ、体もろくに洗ってはいないが、もはやそれすらも気にならなくなっていた。
ある夜、鴉がいつもの下卑た笑みを浮かべながら、短刀を差し出してきた。
刃は黒ずんだ液で濡れていた。
「これはな? 曼珠沙華の毒が塗ってある。突きゃ勝手に苦しむ。お前でも簡単に殺れる。触ると危ないからな。気をつけろよ」
刹は刃を手に取り、じっと見つめた。
かつてなら手が震えただろう。
だが今はもう、胸の奥が何も動かなかった。
「なんだかなぁ。こんな風にやり取りしてると、俺も息子を持った気分になるぜ」
鴉はしみじみと感慨深そうに言う。
「お前が親父とか……笑わせんな」
刹は小声で呟くと、鴉をひと睨みし、その場を離れた。
「ひゃーっはっは! 冷たてぇなぁ。父ちゃんに優しくしてくれよぉ」
鴉は大笑いしながら刹をからかった。
刹はいつもの自分の居場所へ座り、短刀を足元に置いた。ぼんやりと刃先を見つめ続けた。
揺れる火に照らされ、黒ずんだ刃は鈍く光を返す。
吐いた息が白くかかり、一瞬だけ霞んではまた冷たく輝いた。
眠気は訪れず、瞼は乾き、時間の感覚すら失われてゆく。
恐怖も憎しみも湧かない。ただ、心の中が空洞になったまま夜を越えた。
――翌日。
言われるままに男の脇腹へ刃を突き立てた。
悲鳴。痙攣。嘔吐。血の臭いが混じり、吐き気を催す。
刹はそれをただ、表情なく、ただ見下ろした。
「ははっ! 上出来だな、刹! さすが俺の子だ!」
鴉が背を叩く。
刹が睨む。
叫びも血の匂いも、もう怖くはなかった。
――それは恐怖を越えた無感覚。
感じることを捨てなければ、生きられなかった。鴉たちはそんな刹を“小僧や坊主”と呼んでいたが、その呼び名もやがて変わった。
昼間の仕事で、血のついた短刀を拭っていた夜、鴉が上機嫌で笑いながら言った。
「ははっ、やるじゃねえか。そういえば。……おい、こいつの名前なんだっけか?」
仲間が首をかしげると、鴉は刹の前に来てしゃが見込む。
「すまねえ。父親なのに、名前も知らねぇのは、よくねぇな? あー……、お前、名はなんという?」
「……」
刹は答えなかった。
「名は?」
鴉の目がギラリと光り、凄む。
「……刹」
「刹、か。……まぁ、いいだろう。そう呼んでやる。おい! お前ら、今日からこいつの事は"刹"と呼べ! いいな!」
手下が刹の所に来ては、口々に言う。
「刹。お前、頭に相当気に入られたな!」
「お前の仕事ぶりがいいんだろうぜ」
それから、手下たちの態度も少しずつ変わっていった。
酒盛りの食事を与えられ「ほら、刹。食っとけ」と呼ばれる。
肩を小突かれ、「よく刺せたじゃねぇか」と褒められる。
刹は自分の名を呼ばれるほど、"仲間に混ぜられている"という気持ち悪さが体中に走った。
背を叩く手には血と油の臭いがこびりついており、触られたくもなかった。
自分が何かに蝕まれていくようで、その度に隠れて吐き気を催した。
けれど刹は黙って従った。
飯を受け取り、刃を握り、命じられるままに人を刺す。
こうして、刹は完全に鴉の一味の中に埋もれていった。
唯一、刹は筵に包まると安堵した。
(もう、目覚めたくない。このまま父さんと母さんのとこに……いけたら……いい……の……に)
眠りの淵に立つ時だけ、安らぎを覚えた。
夜の静寂が、静かに刹を包み込んだ。
――その日。鴉はいなかった。
赤坂の領主に呼び出され、手下を数名つれて出かけて行った。
刹は残された手下と一緒に。いつもの通り街道でいつも通り仕事をする。
やってきたのは、行商人でも旅人でもない。
一人の僧だった。
粗末な衣に錫杖一本。金目のものはなさそうに見えた。
「どうする?」
刹が仲間に小声で尋ねる。
「ちっ。しょぼいな。ま、銭ぐらいは持ってんだろ」
手下が舌打ちをする。
刹は短刀を握りしめ、合図とともに飛び出した。だが、次の瞬間には、腕をねじりあげられていた。
「痛っ……!」
思わず声が漏れた。だが、歯を食いしばって飲み込む。
持っていた短刀を、思わず落としてしまった。
(しまった……ッ!)
刹の中に焦りが生まれる。
泣き顔だけは見せまいと、唇をぎゅっと噛んだ。
「出て来い。そこにいるのはわかってるぞ」
軽くあしらうような声。
僧は、茂みに潜んでいた者に声をかけた。
潜んでいた手下は草むらから飛び出し、僧に向かって斬りかかる。
刹は僧に地面に投げ出され、振り返ると、手下どもはすでに地に伏していた。
手下どもは、起き上がると、刹を置いて逃げ出した。
「おいっ、待って!」
刹が手下に声をかけるも、振り向くことなくその場を去ってしまった。
「あれ? もう終わりかよ。つまんねぇな」
僧は、逃げた手下を見送ると、刹を上から見下ろした。
何か、重い物がのしかかるかのように、刹の体は動かなかった。僧の眼光は、野盗よりも重く、鋭い。
それでも刹は、ジリジリと体を動かし、投げ出された短刀に手を掛けようとする。
だが僧は、刹の手を足で踏みつけ、身動きが取れない様に封じた。
刹は観念したかのように、目を閉じた。
(――もう、終わりだ。今までやってきたことの報いだ。)
己が生き延びるために人を騙し、殺した。
全部罰が当たったのだと思った。
走馬灯のように記憶が走る。
「お前、俺に止めを刺そうなんざ、十年早いぞ」
頭上から、低くドスの効いた声が降ってきた。
体は小刻みに震え、顔は強張りながらも思わず口元が緩む。
笑っていた。
自分でもそれが何故だか、わからない。
――これで、終われる。
そう思うと、少しだけ気持ちが緩む。
(――父さん、母さん。)
刹が覚悟を決めたその時、僧の声は、さっきまでとは打って変わって能天気なものになった。
「なんてなっ! あぶねぇぞ! こんなもん振り回して。どうせ脅されでもしたんだろうけどよ」
僧は、短刀を掴むと、ポイっと草むらへ投げた。
「おい、なんか臭わねぇか?」
僧は鼻を鳴らしながら、辺りを嗅ぎ回る。
臭いを辿り、行き着いた場所は刹だった。
「臭ッ! お前かっ! 汚ったねぇな! 水浴びぐらいしろよ! 臭うぞ」
僧は鼻を摘まみ、「くさい、くさい」と手を仰ぐ。
刹は予想外の言葉に呆気にとられた。
僧は、手を差し伸べ刹を引き起こす。
なぜか刹は、自分でも驚くほど無意識に僧の手を取っていた。
「俺は玄瑞ってんだ。お前は?」
「……刹」
刹は警戒しながら玄瑞をじっと見つめるも、玄瑞は錫杖を肩に担ぎ、気楽そうに涼し気な顔をしていた。けれど、その立ち姿には一分の隙も無かった。笑っているのに、近づけば一瞬で叩きのめされる。そんな矛盾めいた気配に背筋がゾクリとした。
「お前、親は?」
「野盗に、殺された」
「で? なんで野盗とつるんでるんだよ」
「それしかなかった、から」
玄瑞は「ふーん」とだけ言った。
「お前、俺と一緒に来るか?」
刹の胸が跳ねる。
(また、……連れていかれるっ)
あの野盗に襲われた日を思い出し、刹の胸は締め付けられた。
玄瑞は刹の返事を聞く間もなく、「行くぞ」と半ば強引に手を引いて歩き出す。
(逆らうと殺される。俺に、自由はないのかよ……)
刹は逆らうこともできず、ただ、玄瑞について行くしかできなかった。




