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まほろばー流転奇譚ー  作者: 雨音かえる
曼珠沙華之段

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10/35

玖 曼殊沙華

 全速力で走り、追っ手の気配がなくなった頃、皆は荒く息をつきながら座り込む。

 

「刹っ!」

 

 梓の血の気が一気に引き、体に緊張が走る。

 刹は膝をつき、右肩を押さえていた。

 黒い染みが革手袋に広がり、鉄の匂いに混じってあの村で嗅いだ臭いが鼻を刺す。

 刹の血がぽたりと土に落ち、黒く染み込んでいく。

 

「ぐぁ……ぅッ!」

 

 刹は肩に刺さった矢を、無理やり引き抜いた。

 黒く濁った血がさらに流れ出る。

 双子と朔は、その痛々しさに思わず顔を背ける。

 

「梓、刹の様子はッ!?」


 玄瑞が息を切らしながら、梓に駆け寄ってきた。

 梓は、刹の傷口を一点に見つめていた。

 刹のかすかなうめき声が、闇を揺らし、その声に反応するかのように梓の手が、体が、震える。

 

 (落ち着け。落ち着けっ! 落ち着けッ!)


「梓っ!」

「うるさいなッ! わかってるよッ!」

 

 梓は玄瑞に怒鳴りつける。

 その傍らで、双子と朔は何もできず、身を寄せ合いながら、ただ立ち尽くしている。

 よすがは、朔の懐に入り込み、小さく震えた。


「ふぅ……」

 

 梓は大きく息を吸い、長く吐くことで、心と体を落ち着かせた。

 刹の目は虚ろになり、意識は朦朧としているようだった。意識が遠のきそうになる度、自分の足に爪を立てている。顔からは血の気が引き、肩が激しく上下し、荒い息だけが体を動かしている。

 

「すぐ診るからな」

(この匂い……やっぱり、どこかで)

  

 梓は躊躇なく衣服を裂いて、肩の傷口を確かめた。

 血は黒く濁り、肉の奥へ染み込むように広がりながら、とめどなく滴り続けている。

 刹は浅い呼吸の合間、掠れた声で言った。

 

「……曼珠沙……華だ……」

 

 その言葉に、今度は梓の意識が一瞬遠のきそうになる。

 脳裏にあの赤い花びらが鮮明に蘇った。

 梓の頭が何かを思い出しそうで、ズキンと痛む。


「うっ……」

「梓っ!? 大丈夫か?」


 玄瑞の手が梓の肩に触れる。


「だ、大丈夫。それより、刹を……」

 

 刹の呼吸は次第に不規則になり、喉の奥で苦しげな音が漏れた。

 

 「ハァ……ハァ……」


 断続的に漏れる息に、血の匂いが濃く漂う。

 やがて刹の体が大きく震え、込み上げるものを堪えきれず吐き出した。

 

「刹っ!」

 

 梓は咄嗟に横へ倒し、背を支える。

 むせ返るような吐き気に刹の喉は詰まり、呼吸が途切れ始めた。

 次の瞬間、逆流した吐瀉物が気道を塞ぎ、刹の胸が動かなくなった。

 

 玄瑞が慌てて体を支え、梓が背中を叩くが間に合わない。


(刹っ! ごめんっ!)

 

 梓は刹の体を抱き起こすと、ためらわず口を寄せ、塞いだ吐瀉物を吸い出した。舌に痺れるような苦みが広がり、体がわずかに拒絶する。

 玄瑞が荷の中から、慌てて水筒を出し、梓に手渡した。

 吐き捨てては、水筒の水で口をすすぎ、再び刹の口元に顔を寄せる。

 

「刹! もう少しの我慢だ……!」

「かはっ!」

 

 刹の呼吸が戻り、口の周りの汚れを拭いてやる。

 梓の脳裏をよぎる。刹のあの言葉。


 ――曼珠沙華。


 (別名、地獄花。神経を蝕み、嘔吐と痙攣を招き、呼吸困難を起こす。遅れれば命を奪う猛毒――)

 

「……ッ」

 

 玄瑞に刹の体を支えてもらい、刹の肩に手を当て、竹筒の水で血を洗い流した。


「もっと水を寄越せっ!」


 梓が怒鳴ると、双子も朔も慌て背負っていた荷物から水筒を取り出し、火緒が手渡した。

 そのまま傷口に口を押し当て、毒を吸い出す。

 痺れに唇がわずかに震えたが、水ですすぎ、もう一度口をつける。

 

「おいっ、梓!」


 火弦の声が鋭く飛ぶ。

 

「そないなことしたら、梓まで毒にやられてまうやんッ!」

 

 火緒が思わず声を荒らげた。

 梓は自分の衣を裂きながら短く言い放つ。

 

「大丈夫だ。俺は毒に強い。今さらこれぐらいじゃ死なない」

 

 きっぱりと告げ、刹の肩に布を巻いて血を抑える。

 皆は言葉を失い、ただその背中を見守るしかなかった。

 刹の呼吸は浅く、喉の奥でかすれた音が震えていた。

 

「水をくれ!」

 

 朔から差し出された水筒を受け取り、梓はまず手を清める。

 片手で刹の顎を支え、もう片方で飲み口を抑えながら水筒を傾ける。

 指の隙間から、ゆっくりと数滴ずつ水が垂れる。

 

「刹……飲まなくていい。舌を、少し湿らせるだけでいいから……」

 

 口角のわずかな隙間に、水滴を落とす。

 落ちた水は舌先へ流れ、熱と酸に乾いた粘膜をゆっくり濡らしていく。

 刹の喉が、微かに“ひゅ”と震えた。

 梓はなおも水筒を傾け、刹の唇に数滴の水を垂らした。

 

「少しでいい……」

 

 しかしこれ以上喉は動かず、水は口端から零れ落ちるばかりだった。

 

「……水じゃ、繋ぎきれない……」

 

 胸の奥で焦燥が燃え広がる。

 庵まで持たせなければ助からない──その現実が梓の肩に重くのしかかる。

 応急処置を終えた梓は、振り返りざま朔に声を荒らげる。

 

「朔! 庵まで走れ! 曼珠沙華だ! 師匠に処置を頼め! 行けッ!」

 

 朔はただ頷き、矢のように闇へ駆け出した。

 刹の呼吸はいったん静まったかに見えた。

 だが次の瞬間、全身がびくりと震え、痙攣が始まる。

 

「抑えろ!」


 玄瑞の声が響く。

 火緒と火弦が両腕を押さえ、玄瑞が脚を支える。双子の手は、恐怖に震えていた。


「しっかりしろっ!」


 玄瑞の言葉に、双子はただ頷き、手に力を込めた。

 梓は頭を支え、喉が詰まらないよう必死に横へ向ける。

 

「舌を噛んだら危ないんとちゃうんっ……!」

 

 火緒が焦ったように早口で尋ねる。

 梓は刹の顎を支えながら、短く答えた。

 

「大丈夫だ。横にしてれば問題ない。喉も塞がらない」

 

 長い痙攣の波がようやく収まり、刹の体から力が抜け落ちた。

 

(落ち着いた)

 

「──今だ! 玄瑞!」

「刹すまねぇ。ちぃと汚いが我慢してくれ!」


 玄瑞が刹を背負い、身体に響かないよう、それでいて慎重に走り出す。

 梓は玄瑞の横に付き、顎を支え、口を開かせ、必死に呼吸を確かめた。

 

「まだ息はある……でも長くはもたない。庵まで早くっ!」

 

 玄瑞は何も言わず、ただ庵へと足を速める。

 

「しっかりしろ……刹……」

 

 梓は耳を口元に寄せ、かすかな息を何度も確かめた。

 喉がひゅ、と塞がるたび、顎を支えて喉を開かせた。

 玄瑞の背中で、刹の体が揺さぶられる。

 

「くそ……ッ!」

 

 梓は歯を食いしばり、なるだけ揺れないように、刹の体を必死に支え続けた。

 双子が先導し、道を切り開く。

 

「梓! どうだ、まだ息はあるか!」

「ある……けど、弱い。急げ!」

 

 玄瑞の声に、梓は落ち着きながら答えるも、自身の体も震えていた。


 (クソッ! 落ち着け! 大丈夫。間に合うっ)


 梓は刹を診ながら、時折自分の足を叩いた。

 皆、いつも以上に呼吸が荒いのがわかる。

 それでも足は止まらなかった。

 

(お願いだッ! 庵まで持ってくれッ! 刹!) 

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