玖 曼殊沙華
全速力で走り、追っ手の気配がなくなった頃、皆は荒く息をつきながら座り込む。
「刹っ!」
梓の血の気が一気に引き、体に緊張が走る。
刹は膝をつき、右肩を押さえていた。
黒い染みが革手袋に広がり、鉄の匂いに混じってあの村で嗅いだ臭いが鼻を刺す。
刹の血がぽたりと土に落ち、黒く染み込んでいく。
「ぐぁ……ぅッ!」
刹は肩に刺さった矢を、無理やり引き抜いた。
黒く濁った血がさらに流れ出る。
双子と朔は、その痛々しさに思わず顔を背ける。
「梓、刹の様子はッ!?」
玄瑞が息を切らしながら、梓に駆け寄ってきた。
梓は、刹の傷口を一点に見つめていた。
刹のかすかなうめき声が、闇を揺らし、その声に反応するかのように梓の手が、体が、震える。
(落ち着け。落ち着けっ! 落ち着けッ!)
「梓っ!」
「うるさいなッ! わかってるよッ!」
梓は玄瑞に怒鳴りつける。
その傍らで、双子と朔は何もできず、身を寄せ合いながら、ただ立ち尽くしている。
よすがは、朔の懐に入り込み、小さく震えた。
「ふぅ……」
梓は大きく息を吸い、長く吐くことで、心と体を落ち着かせた。
刹の目は虚ろになり、意識は朦朧としているようだった。意識が遠のきそうになる度、自分の足に爪を立てている。顔からは血の気が引き、肩が激しく上下し、荒い息だけが体を動かしている。
「すぐ診るからな」
(この匂い……やっぱり、どこかで)
梓は躊躇なく衣服を裂いて、肩の傷口を確かめた。
血は黒く濁り、肉の奥へ染み込むように広がりながら、とめどなく滴り続けている。
刹は浅い呼吸の合間、掠れた声で言った。
「……曼珠沙……華だ……」
その言葉に、今度は梓の意識が一瞬遠のきそうになる。
脳裏にあの赤い花びらが鮮明に蘇った。
梓の頭が何かを思い出しそうで、ズキンと痛む。
「うっ……」
「梓っ!? 大丈夫か?」
玄瑞の手が梓の肩に触れる。
「だ、大丈夫。それより、刹を……」
刹の呼吸は次第に不規則になり、喉の奥で苦しげな音が漏れた。
「ハァ……ハァ……」
断続的に漏れる息に、血の匂いが濃く漂う。
やがて刹の体が大きく震え、込み上げるものを堪えきれず吐き出した。
「刹っ!」
梓は咄嗟に横へ倒し、背を支える。
むせ返るような吐き気に刹の喉は詰まり、呼吸が途切れ始めた。
次の瞬間、逆流した吐瀉物が気道を塞ぎ、刹の胸が動かなくなった。
玄瑞が慌てて体を支え、梓が背中を叩くが間に合わない。
(刹っ! ごめんっ!)
梓は刹の体を抱き起こすと、ためらわず口を寄せ、塞いだ吐瀉物を吸い出した。舌に痺れるような苦みが広がり、体がわずかに拒絶する。
玄瑞が荷の中から、慌てて水筒を出し、梓に手渡した。
吐き捨てては、水筒の水で口をすすぎ、再び刹の口元に顔を寄せる。
「刹! もう少しの我慢だ……!」
「かはっ!」
刹の呼吸が戻り、口の周りの汚れを拭いてやる。
梓の脳裏をよぎる。刹のあの言葉。
――曼珠沙華。
(別名、地獄花。神経を蝕み、嘔吐と痙攣を招き、呼吸困難を起こす。遅れれば命を奪う猛毒――)
「……ッ」
玄瑞に刹の体を支えてもらい、刹の肩に手を当て、竹筒の水で血を洗い流した。
「もっと水を寄越せっ!」
梓が怒鳴ると、双子も朔も慌て背負っていた荷物から水筒を取り出し、火緒が手渡した。
そのまま傷口に口を押し当て、毒を吸い出す。
痺れに唇がわずかに震えたが、水ですすぎ、もう一度口をつける。
「おいっ、梓!」
火弦の声が鋭く飛ぶ。
「そないなことしたら、梓まで毒にやられてまうやんッ!」
火緒が思わず声を荒らげた。
梓は自分の衣を裂きながら短く言い放つ。
「大丈夫だ。俺は毒に強い。今さらこれぐらいじゃ死なない」
きっぱりと告げ、刹の肩に布を巻いて血を抑える。
皆は言葉を失い、ただその背中を見守るしかなかった。
刹の呼吸は浅く、喉の奥でかすれた音が震えていた。
「水をくれ!」
朔から差し出された水筒を受け取り、梓はまず手を清める。
片手で刹の顎を支え、もう片方で飲み口を抑えながら水筒を傾ける。
指の隙間から、ゆっくりと数滴ずつ水が垂れる。
「刹……飲まなくていい。舌を、少し湿らせるだけでいいから……」
口角のわずかな隙間に、水滴を落とす。
落ちた水は舌先へ流れ、熱と酸に乾いた粘膜をゆっくり濡らしていく。
刹の喉が、微かに“ひゅ”と震えた。
梓はなおも水筒を傾け、刹の唇に数滴の水を垂らした。
「少しでいい……」
しかしこれ以上喉は動かず、水は口端から零れ落ちるばかりだった。
「……水じゃ、繋ぎきれない……」
胸の奥で焦燥が燃え広がる。
庵まで持たせなければ助からない──その現実が梓の肩に重くのしかかる。
応急処置を終えた梓は、振り返りざま朔に声を荒らげる。
「朔! 庵まで走れ! 曼珠沙華だ! 師匠に処置を頼め! 行けッ!」
朔はただ頷き、矢のように闇へ駆け出した。
刹の呼吸はいったん静まったかに見えた。
だが次の瞬間、全身がびくりと震え、痙攣が始まる。
「抑えろ!」
玄瑞の声が響く。
火緒と火弦が両腕を押さえ、玄瑞が脚を支える。双子の手は、恐怖に震えていた。
「しっかりしろっ!」
玄瑞の言葉に、双子はただ頷き、手に力を込めた。
梓は頭を支え、喉が詰まらないよう必死に横へ向ける。
「舌を噛んだら危ないんとちゃうんっ……!」
火緒が焦ったように早口で尋ねる。
梓は刹の顎を支えながら、短く答えた。
「大丈夫だ。横にしてれば問題ない。喉も塞がらない」
長い痙攣の波がようやく収まり、刹の体から力が抜け落ちた。
(落ち着いた)
「──今だ! 玄瑞!」
「刹すまねぇ。ちぃと汚いが我慢してくれ!」
玄瑞が刹を背負い、身体に響かないよう、それでいて慎重に走り出す。
梓は玄瑞の横に付き、顎を支え、口を開かせ、必死に呼吸を確かめた。
「まだ息はある……でも長くはもたない。庵まで早くっ!」
玄瑞は何も言わず、ただ庵へと足を速める。
「しっかりしろ……刹……」
梓は耳を口元に寄せ、かすかな息を何度も確かめた。
喉がひゅ、と塞がるたび、顎を支えて喉を開かせた。
玄瑞の背中で、刹の体が揺さぶられる。
「くそ……ッ!」
梓は歯を食いしばり、なるだけ揺れないように、刹の体を必死に支え続けた。
双子が先導し、道を切り開く。
「梓! どうだ、まだ息はあるか!」
「ある……けど、弱い。急げ!」
玄瑞の声に、梓は落ち着きながら答えるも、自身の体も震えていた。
(クソッ! 落ち着け! 大丈夫。間に合うっ)
梓は刹を診ながら、時折自分の足を叩いた。
皆、いつも以上に呼吸が荒いのがわかる。
それでも足は止まらなかった。
(お願いだッ! 庵まで持ってくれッ! 刹!)




