9話 レアな素材と休める場所
古い箱の前で、俺は息を止めた。
箱を開ける
リスク:低
リターン:高
期待値:推奨
視界の表示は変わらない。
罠の気配はない。
それでも、何も考えずに手を伸ばす気にはなれなかった。
隠し部屋。
古い箱。
淡く光る壁。
どれも、配信で見てきたダンジョンの報酬部屋に似ている。
ただ、ここは画面の向こうではない。
俺たちは、電車ごと飲み込まれた乗客を連れている。
俺は黒球を箱の横へ滑らせた。
直接触れず、蓋の隙間を軽く押す。
硬い抵抗があった。
三崎さんが、少し離れた位置で息を潜めている。
芹沢さんも、いつでも後ろへ下がれるように足を引いていた。
俺はもう一度表示を確認してから、ノワールで蓋を押し上げた。
ぎ、と乾いた音がした。
箱の蓋が、ゆっくり開く。
中から光が漏れた。
青白い鉱石の光とは違う、淡い緑色の光だった。
中に入っていたのは、拳より少し小さい石だった。
表面は半透明で、内側に細い光の筋が走っている。
まるで石の中に、薄い水脈が閉じ込められているみたいだった。
芹沢さんが小さく呟く。
「綺麗……」
三崎さんは顔をしかめた。
「宝石、ですか?」
俺は首を横に振った。
宝石ではない。
少なくとも、普通の鉱石ではない。
ダンジョン配信で見たことがある。
採掘系探索者が、低確率で見つけて大騒ぎしていた素材。
通常のC級ダンジョンでは、ほとんど出ないと言われていた。
魔力を内部に蓄える鉱石。
加工すれば魔道具の核にもなる。
企業が高値で買い取るタイプの素材だ。
「たぶん、魔力鉱石です。しかも普通のものより純度が高い」
三崎さんの目がわずかに見開かれる。
「高いんですか」
「多分。でも、今は金額よりも確認が先です」
本当は、かなり価値があるはずだった。
探索者協会に持ち込めば、会社員の給料では見たことのない額になるかもしれない。
けれど、不思議と胸は弾まなかった。
ここで金のことを考えている場合ではない。
車内には怪我人がいる。
泣き疲れた子供もいる。
高齢の男性は、さっきから呼吸が荒かった。
乗客たちの体力は少しずつ削られている。
出口が見えないまま動き続ければ、先に人が倒れる。
俺は箱の中の石をハンカチで包み、鞄の内ポケットへ入れた。
取得通知は出ない。
宝箱内の素材は、自動取得ではなく自分で回収する必要があるらしい。
視界に文字が浮かぶ。
魔力鉱石を保管
リスク:低
リターン:中
期待値:推奨
隠し部屋に滞在
リスク:低
リターン:中
期待値:有効
即時移動
リスク:中
リターン:中
期待値:保留
俺は表示を見つめた。
今までは、進むことを促されることが多かった。
だが今回は違う。
滞在。
休むことにも価値があると、表示は言っている。
リターンは素材だけではない。
俺は部屋の隅へ視線を向けた。
石皿のようなくぼみに、透明な水が溜まっている。
天井から落ちる雫が、静かな波紋を作っていた。
水がある。
座れる場所がある。
通路から隠れている。
この三つだけで、車内よりずっとましだった。
電車の中は広いようで逃げ場がなく、ドアも開いたままだ。
何かに襲われれば、通路へ散るしかない。
だが、この部屋は入り口を絞れる。
見張りを置けば、少なくとも全員が少し息を整えられる。
負傷者の処置も、車内よりは落ち着いてできるはずだった。
三崎さんが部屋を見回す。
「ここに、みんなを連れてくるんですか」
「はい。すぐ出口を探したい気持ちはあります。でも、このまま全員を歩かせ続ける方が危ないです」
芹沢さんが水場を見る。
「水、飲めるんでしょうか」
俺はすぐに答えなかった。
安全かどうかを確かめる必要がある。
視界に表示が出る。
水場確認
リスク:低
リターン:中
期待値:推奨
その場で飲用
リスク:中
リターン:中
期待値:保留
俺は頷いた。
「まず確認だけします。飲めるかどうかは、すぐには判断しません」
三崎さんが小さく息を吐く。
「慎重ですね」
「慎重じゃなかったら、十年間もダンジョンに入れませんでした」
自分で言って、少しだけ苦くなった。
冗談のつもりではない。
ただの事実だ。
俺たちは一度、車内へ戻った。
通路を戻る間も、白球と黒球は浮かせたままだ。
小型モンスターの足音は聞こえない。
だが、静かだから安全とは限らない。
左通路のことを、俺はもう忘れられなかった。
車内へ戻ると、乗客たちが一斉に顔を上げた。
負傷した男性は座席で腕を押さえている。
母親は男の子の背中を撫で、高齢の男性は目を閉じて呼吸を整えていた。
俺はできるだけ短く説明した。
行き止まりの先に隠し部屋があったこと。
水場があること。
数人ではなく、車内の人間を移せる広さがあること。
車内がざわつく。
当然だ。
行き止まりの壁が開いたなど、普通なら信じられない。
だが、三崎さんが前に出た。
「本当です。俺も見ました。壁の奥に部屋がありました」
芹沢さんも頷く。
「ここより、少し落ち着けると思います。怪我をしている人も、座れる場所があります」
その言葉で、数人の表情が変わった。
全員が納得したわけではない。
それでも、動く理由はできた。
視界に表示が浮かぶ。
負傷者から移動
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
全員一斉移動
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
動ける者を先に誘導
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
順番が必要だ。
焦って全員を動かせば、狭い通路で詰まる。
大型モンスターが戻れば逃げ場を失う。
「怪我をしている人と、子供、高齢の方を先に移します。動ける人は荷物を持って、前後を支えてください。一度に全員で動かず、三組に分けます」
自分の声が、思ったよりはっきり響いた。
車内の人たちは、完全ではないにせよ従い始めた。
三崎さんが負傷した男性の肩を支える。
芹沢さんは男の子に声をかける。
母親が何度も頭を下げる。
高齢の男性には、若い乗客が肩を貸した。
俺は最後尾に近い位置で、通路の奥を見張った。
白球を前方に、黒球を後方に置く。
両方を同時に動かすだけで神経が削れる。
それでも、今は下げられない。
ここで襲われれば、全員が混乱する。
一組目。
二組目。
三組目。
狭い通路を、できるだけ静かに進む。
泣きそうな子供を母親が抱き寄せ、芹沢さんが隣で小さく声をかけ続けている。
三崎さんは文句も言わず、負傷者の歩幅に合わせていた。
やがて全員が隠し部屋へ入った。
車内より狭いはずなのに、不思議と息がしやすかった。
入口が一つしかないからだ。
見張る場所がはっきりしている。
壁が背中を守ってくれる。
少なくとも、全方向から襲われる恐怖は薄い。
乗客たちはその場に座り込んだ。
誰かが小さく泣いた。
別の誰かが、ようやく息を吐いた。
俺は水場の近くにしゃがみ、白球の光で表面を照らした。
水は澄んでいる。
嫌な匂いはない。
飲んでいいかどうかはまだ決めない。
それでも、ここに水があるというだけで、空気が変わっていた。
希望と呼ぶには小さい。
だが、絶望だけではなくなった。
視界に文字が浮かぶ。
隠し部屋に滞在
リスク:低
リターン:中
期待値:有効
出口探索再開
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は表示を見て、ようやく理解した。
リターンは、金や素材だけではない。
休める場所。
水がある場所。
怪我人が横になれる場所。
子供が泣き止める時間。
それも、間違いなくリターンだった。
鞄の内ポケットには、さっきの魔力鉱石が入っている。
高価な素材のはずだ。
けれど今の俺には、この部屋そのものの方がずっと重く感じられた。
俺は入口の方を見た。
その先には、まだ青白い通路が続いている。
出口は見えない。
それでも、ここで一度息を整えられる。
次に進むための場所を得た。
その事実だけで、ほんの少しだけ足元が固まった気がした。




