10話 みんなが俺を見る
隠し部屋に移ってから、空気は少しだけ変わった。
電車の中にいた時より、声が小さい。
泣き続けていた男の子も、母親の膝に頭を預けて目を閉じている。
負傷した男性は壁にもたれ、浅い呼吸を繰り返していた。
安全になったわけではない。
入口の向こうには、青白い通路が続いている。
モンスターがいつ現れてもおかしくない。
それでも、背中を預けられる壁がある。
座れる床がある。
水のある場所が見えている。
それだけで、人の顔色は少し戻るらしい。
芹沢さんが男の子の近くで声を潜め、母親と話している。
三崎さんは入口付近に立ち、通路の奥を見張っていた。
俺は白球を入口の近くに浮かせ、黒球を手元に置いていた。
魔力を流し続けるだけで、こめかみの奥が重くなる。
けれど、今は下げられない。
部屋の中で、誰かが遠慮がちに手を上げた。
「これから、どうするんですか」
その言葉で、部屋の視線が俺へ集まった。
俺はすぐに答えられなかった。
どうする。
そんなことを、俺が決めていいのか。
俺は探索者としては初心者だ。
このダンジョンに巻き込まれた乗客の一人でしかない。
それでも、誰も次の判断を口にしない。
乗務員も、負傷者も、他の大人たちも。
結局、全員が俺の答えを待っていた。
視界に表示が浮かぶ。
出口探索継続
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
隠し部屋に留まり続ける
リスク:中
リターン:低
期待値:有効
表示は進めと言っている。
だが、全員を今すぐ連れて行くのは違う。
負傷者もいる。子供もいる。高齢の男性も体力を削られている。
俺は唇を湿らせた。
「まず、全員で一気に動くのはやめます。ここで少し休んで、動ける人だけで先を確認します」
ざわめきが起きる。
反論というより、不安の声だった。
すぐに出たい人もいる。
もう動きたくない人もいる。
どちらの気持ちも分かる。
俺自身、できるならここで座り込んでいたい。
別の乗客が、鞄を抱えたまま言った。
「食べ物はどうしますか。電車に残ってる荷物もありますよね」
別の人が続ける。
「水は飲めるんですか。子供に飲ませても大丈夫なんですか」
また別の声が重なる。
「見張りは? 全員休んだら、入口から来た時に分からないんじゃないか」
質問が一つずつ増えていく。
俺の頭の中で、それぞれの選択肢が勝手に並び始めた。
同時に、視界へ文字が浮かぶ。
食料を均等配分
リスク:低
リターン:中
期待値:有効
水場を確認後に使用
リスク:低
リターン:中
期待値:推奨
見張りを交代制にする
リスク:低
リターン:中
期待値:推奨
全員休眠
リスク:中
リターン:低
期待値:非推奨
俺は表示を読みながら、ひとつずつ考える。
ただ従うだけでは駄目だ。
この場の人たちに伝わる形にしなければならない。
「食料は、持っている人が一度出してください。今は均等に分けます。水はすぐに飲ませません。まず匂いや濁りを確認して、少量だけ試します」
全員が静かに聞いていた。
俺は入口を見た。
「見張りは必要です。全員で休むのは危険です。動ける人で交代しましょう。最初は俺と三崎さんで見ます」
三崎さんが黙ってうなずいた。
「分かりました。俺は入口側を見ます」
芹沢さんが手を上げる。
「私も見張りできます。ずっと座ってるだけより、その方が落ち着きます」
俺は少し迷った。
無理はさせたくない。
けれど、人手は足りない。
視界に表示が出る。
芹沢さんを見張りに加える
リスク:低
リターン:中
期待値:有効
芹沢さんを休ませる
リスク:低
リターン:低
期待値:有効
どちらも悪くない。
なら、本人の意思を尊重していい。
「無理はしないでください。短い時間だけお願いします」
芹沢さんは真剣な顔でうなずいた。
「はい」
判断が増えていく。
食料。
水。
見張り。
怪我人。
一つひとつは小さい。
けれど、間違えれば誰かの体力が削れる。
誰かの不安が増える。
俺は自分の掌を見た。
さっきまで震えていた指先は、まだ完全には落ち着いていない。
十年間、自分の人生すら決められなかった男が、今は他人の食料の分け方まで決めている。
重い。
胃の底に石を入れられたみたいだった。
もし表示が外れたら。
もし俺の読み間違いだったら。
もし、この判断のせいで誰かが死んだら。
その想像だけで、息が詰まりそうになる。
だが、俺が黙れば何も決まらない。
この部屋は安全地帯ではない。
あくまで一時的に息を整える場所だ。
出口はまだ見つかっていない。
ここに留まり続ければ、いずれ食料も体力も尽きる。
俺は入口の向こうを見た。
青白い通路は静かだった。
静かすぎることが、逆に怖い。
視界に、次の表示が浮かぶ。
動ける者を先行偵察
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
全員同時移動
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
隠し部屋で長時間待機
リスク:中
リターン:低
期待値:非推奨
やはり、先を調べる必要がある。
だが、全員ではない。
動ける人間だけで、道と危険を確認する。
俺は顔を上げた。
「休憩後、俺を含めた数人で先行偵察に出ます。全員は動かしません。ここを一時的な待機場所にして、戻れるようにします」
部屋の中が静まった。
今度は、さっきよりも反論が少ない。
不安はある。
それでも、全員が理解し始めているのだと思う。
ただ待つだけでは助からない。
だが、焦って全員で動けば危険だ。
三崎さんが鞄を持ち直す。
「俺は行きます。入口の見張りもできますし、荷物持ちくらいなら役に立つ」
芹沢さんも立ち上がりかけた。
「私も行きます」
母親が心配そうに芹沢さんを見る。
芹沢さんは少しだけ笑って、首を振った。
「大丈夫です。走るくらいならできますし、ここで待ってるだけの方が怖いです」
俺はすぐには頷かなかった。
人数が増えれば、行動は遅くなる。
少なすぎれば、危険に対応できない。
視界に表示が浮かぶ。
零士、三崎さん、芹沢さんで偵察
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
零士と三崎さんのみ
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
大人数で偵察
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
俺は小さく息を吐いた。
「三人で行きます。俺と三崎さん、芹沢さん。ほかの人はここで待ってください。入口の見張りは、動ける人で交代をお願いします」
乗客の一人がうなずき、入口側へ移動した。
別の人が食料を集め始める。
誰かが負傷者に場所を譲る。
少しずつ、部屋の中が動き始めた。
俺が全てを動かしているわけではない。
それでも、最初の向きを決めているのは俺だった。
その事実が怖かった。
だが、逃げることはできなかった。
俺は白球へ魔力を流した。
淡い光が、入口の先を照らす。
黒球が手元で静かに回転した。
視界に表示が浮かぶ。
出口探索
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は表示を見て、立ち上がった。
全員を守れる自信はない。
正しい判断をし続けられる保証もない。
それでも、今は俺が決めるしかない。
俺は隠し部屋の入口へ向かい、青白い通路の奥を見据えた。




