7話 戦えない男
小型モンスターが消えた場所には、何も残っていなかった。
血もない。
死体もない。
石畳の上には、淡い光の粒が数秒だけ漂い、やがて空気に溶けるように消えていった。
探索者ライセンスの通知だけが、今の戦闘が現実だったことを示している。
魔石片。
小型魔獣の爪。
素材は自動で取得された。
モンスターは消滅した。
知識としては知っていたことだ。
それなのに、黒球を通して伝わった感触だけが手に残っていた。
爪を受け止めた衝撃。
刃が通った瞬間に、抵抗がふっと消えた感覚。
俺は一歩下がった。
膝が震えている。
勝ったはずなのに、息がうまく吸えなかった。
白球が肩の横で小さく揺れる。
黒球は短剣の形を解き、黒い球体に戻っていた。
二つとも、俺の魔力に反応して静かに浮いている。
画面の中なら、ここで次の行動に移れた。
討伐成功。
素材取得。
次の敵へ。
それだけだった。
だが現実では、終わった後の空気が重い。
攻撃した感触が、手の内側から消えない。
吐きそうだった。
胃の奥から熱いものがせり上がってくる。
俺は壁に手をついた。
石の冷たさが掌に刺さる。
芹沢さんが近づこうとして、足を止めた。
「久遠さん、大丈夫ですか」
大丈夫。
そう言えば済むはずだった。
でも、声が出なかった。
怖かった。
今さらになって、全身が恐怖を思い出している。
さっきまで向かってきていた小型モンスターの動きが、何度も頭の中で再生される。
牙。
爪。
跳躍。
三崎さんの方へ飛びかかった瞬間。
黒球で遮った衝撃。
一手遅れていたら、誰かが怪我をしていた。
俺は何とか息を整えた。
喉が痛い。
手の震えを隠すように、白球と黒球を自分の近くへ引き寄せる。
三崎さんが、消えたモンスターの跡と俺を交互に見た。
「今の動き、どう見ても初心者じゃなかったですよ」
その言葉に、胸が痛んだ。
初心者じゃない。
そう見えたなら、十年間の訓練は無駄ではなかったのかもしれない。
でも、俺自身は分かっている。
これは余裕の勝利ではない。
能力の表示と、反復した訓練が、ぎりぎりで噛み合っただけだ。
俺は小さく首を振った。
「違います。俺は、探索者としては初心者です」
車内のざわめきが止まった。
三崎さんの表情が変わる。
芹沢さんも息を呑んだ。
言わない方がいい。
そう思う自分もいた。
ここで明かせば、せっかく生まれた信頼が崩れるかもしれない。
でも、隠したまま進む方が危ない。
俺が熟練者だと勘違いされたままでは、誰かが無茶をするかもしれない。
「免許はあります。訓練もしていました。知識もあります。でも、実際にダンジョンへ入ったのは今日が初めてです」
誰もすぐには喋らなかった。
沈黙が重い。
俺は視線を落としそうになるのを堪えた。
三崎さんが、信じられないという顔で俺を見る。
「今日が、初めて……?」
「はい」
芹沢さんの声が震えた。
「でも、さっきの戦い方……初めてには見えませんでした」
「十年間、シミュレーターでは練習していました。毎日です。でも、本物は初めてです。だから、正直に言うと……怖いです」
口にした途端、胸の奥に溜まっていたものが崩れた。
俺は強くない。
戦うのは怖い。
今も逃げたい。
小型モンスター一体を倒しただけで、吐きそうになっている。
これで探索者だなどと胸を張れるはずがない。
人を導く資格があるのかも分からない。
車内の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。
失望されたかもしれない。
当然だと思った。
だが、母親の声がした。
「それでも、助けてくれました」
俺は顔を上げた。
男の子を抱きしめたまま、母親がこちらを見ている。
その顔色は悪い。
それでも、目だけはまっすぐだった。
「左の道に行っていたら、私たちもあそこにいました。さっきのモンスターだって、あなたが止めてくれなかったら、誰かが怪我をしていました」
男の子が母親の服を掴んだまま、小さくうなずいた。
声は出さない。
それでも、その仕草だけで十分だった。
三崎さんが頭を掻く。
「俺も、もう信じるしかないと思ってます。右の道も、待避スペースも、さっきの迎撃も、全部久遠さんの判断で助かった」
芹沢さんも頷いた。
「久遠さんが怖いのは分かります。私も怖いです。でも、怖いのに動いてくれたから、私たちは今ここにいます」
その言葉は、重かった。
褒められているとは思えなかった。
むしろ逃げ道を塞がれたように感じた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
強いから頼られているわけじゃない。
完全な探索者だから求められているわけでもない。
俺は正しい選択肢を選ぶために、ここにいる。
戦って勝つためだけではない。
全員が生き残る可能性を、少しでも高い方へ寄せるために動く。
視界に文字が浮かんだ。
出口探索継続
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
撤退して車内待機
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
表示は、まだ進めと言っている。
俺はそれを見つめた。
怖さは消えない。
吐き気も残っている。
手の震えも止まっていない。
それでも、止まれば終わる。
俺は白球と黒球を拾い、鞄に戻さず両側へ浮かせた。
まだ完全には安定しない。
魔力を流すだけで、指先が少し痺れる。
それでも、今はこれが必要だ。
「俺は強い探索者じゃありません。戦うのも怖いです」
自分の声が、車内に響く。
情けない宣言だと思った。
でも、嘘をつくよりはましだった。
「それでも、今までの勘は外れていません。見た目では分からない危険もありました。だから、その勘を使って出口を探します」
三崎さんが眉を上げる。
「勘、ですか」
「はい。説明できるほど、俺にも分かっていません。ただ、何も考えずに進むよりはましだと思います」
三崎さんは少しだけ息を吐いた。
「……分かりました。今は、その勘に賭けます」
芹沢さんも黙ってうなずいた。
母親は男の子を抱いたまま、小さく頭を下げる。
車内の何人かも、反論しないままこちらを見ていた。
俺は小型モンスターが消えた場所を避けるようにして、通路の奥を見た。
ダンジョンの青白い光が、まだ先へ続いている。
出口は見えない。
けれど、進まなければ何も変わらない。
「俺は戦うためじゃなく、全員を出口まで連れて行くために動きます。動ける人だけで、もう一度周辺を確認します」
誰もすぐには反論しなかった。
沈黙の中で、三崎さんがバッグを持ち直す。
芹沢さんもスマホを握りしめたまま立ち上がった。
俺は息を整えた。
胃の奥はまだ気持ち悪い。
手には、黒球越しに伝わった感触が残っている。
それでも、俺は白と黒の球を浮かせたまま、一歩前へ出た。
出口は見えない。
けれど、今度は足を止めなかった。




