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5話 最初の犠牲

左通路の奥から、悲鳴が響いた。


俺は待避スペースの入口で息を止めた。

狭い横穴の中には、母親と男の子、高齢の男性、負傷した乗客が身を寄せ合っている。

誰も声を出せなかった。


石畳を踏みしめる重い音が、分岐の向こうで止まる。

濡れた息遣い。

壁を削るような音。


青白い光の先を、大きな影が横切った。

毛の生えた太い脚。

岩みたいな肩。


全身は見えない。

けれど、人間が素手でどうにかできる相手ではないことだけは分かった。

男の子が小さく息を吸い、母親が慌ててその口を押さえる。


俺も動けなかった。

喉が乾いている。

心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。


あのまま左を選んでいたら。

広くて、明るくて、安全そうに見えた道へ進んでいたら。

俺たちは今、あの影の正面にいた。


足音が遠ざかる。

それでも、すぐには誰も動けなかった。

三崎さんが壁に背を預け、長く息を吐く。



「……なんなんだよ、あれ」



答えられる人間はいなかった。

ダンジョンのモンスター。

そう言えば簡単だが、画面越しに見るのと、同じ空間で息を潜めるのではまるで違う。


芹沢さんは唇を噛んでいた。

震える指で、横穴の奥にいる男の子の肩に手を添えている。

怖いのは同じはずなのに、泣き出させまいとしているのが分かった。


左通路の方から、また物音がした。

今度は足音ではない。

誰かが這うように進む音だった。


俺たちは顔を見合わせる。

三崎さんが先に動いた。

俺も遅れて、待避スペースの外を覗く。


青白い鉱石の光の中、男の人が一人、腕を押さえながら戻ってきていた。

スーツの袖が裂け、肩口から血がにじんでいる。

その後ろには、足を引きずる女性がいた。


さらに奥には、散らばった鞄と、床に擦れた血の跡があった。

誰かが落としたスマホが、割れた画面のまま光っている。

左通路の明るさが、かえってその惨状をはっきり見せていた。


三崎さんが男の人を支える。

芹沢さんは女性の腕を取り、横穴の入口まで連れてきた。

俺は周囲を確認しながら、奥の音に耳を澄ませる。


まだ来ていない。

けれど、長くここにいる余裕はなかった。



「奥に、何がいましたか」



俺が聞くと、男の人は顔を歪めた。



「分からない。急に出てきたんだ。広いから安全だと思ったのに、奥から、あんなのが……」



女性は浅い呼吸を繰り返していた。

足首をひねっているらしい。

立てはするが、走るのは難しそうだった。


最初の犠牲。

その言葉が頭に浮かんで、すぐに打ち消した。

まだ死んだと決まったわけではない。


けれど、負傷者は出た。

安全そうに見えた道を選んだ結果だ。

ダンジョンは、見た目の印象で判断していい場所ではなかった。


俺は歯を食いしばった。

このまま横穴に隠れ続けるわけにはいかない。

負傷者を抱えたまま、ここで息を潜めても、次に見つかった時点で終わる。


車内に戻る必要がある。

状況を伝えなければならない。

ただし、全員が同時に騒ぎ出せば、また危険を呼ぶ。


視界に文字が浮かんだ。


待避スペース継続

リスク:中

リターン:低

期待値:有効


車内へ帰還

リスク:中

リターン:中

期待値:推奨


左通路確認

リスク:高

リターン:低

期待値:非推奨


俺は奥歯を噛んだ。

左へは行けない。

今は、負傷者を連れて電車側へ戻るしかない。


三崎さんに目を向ける。



「車内に戻ります。負傷した人を先に。大きな声は出さないように伝えてください」



三崎さんは短くうなずいた。

さっきまでの疑いは消えていない。

それでも、今は反論しなかった。


俺たちは負傷者を支えながら、電車側へ戻った。

通路を戻る数十秒が、ひどく長く感じる。

背後からいつ足音が追ってくるか分からない。


電車の明かりが見えた瞬間、車内から何人もの声が上がった。

戻ってきた俺たちを見るなり、乗客たちが一斉に押し寄せる。

負傷者の血を見て、空気が一気に変わった。



「何があったんだよ!」


「外に出たら駄目だって!」


「早く救助呼べよ!」



別々の声が重なり、車内がまた混乱し始める。

乗務員が落ち着かせようとするが、誰もまともに聞いていない。

泣き出す子供の声が、さらに不安を広げていく。


俺は負傷した男の人を座席に座らせた。

芹沢さんが女性を支える。

三崎さんは押し寄せる乗客たちを手で止めていた。



「下がってください! 通路を塞がないでください!」



その声に何人かが怯んだ。

だが、車内の意見は割れていた。


絶対に外へ出るなと言う人。

このまま待っていれば救助が来ると言う人。

逆に、今すぐ全員で出口を探すべきだと言う人。


どれも間違いとは言えなかった。

俺だって、本当は救助を待ちたい。

誰か専門の探索者が来てくれるなら、その方がいいに決まっている。


視界に表示が出た。


救助待機

リスク:高

リターン:低

期待値:非推奨


出口探索

リスク:中

リターン:高

期待値:推奨


全員同時移動

リスク:高

リターン:中

期待値:非推奨


表示はまた、待つなと言っていた。

出口を探せと言っていた。

ただし、全員で一気に動くなとも言っている。


俺は拳を握った。

十年間、俺は決められなかった。

自分の人生すら、自分で動かせなかった。


けれど今は違う。

俺が黙っていれば、この車内は混乱したまま動けなくなる。

何もしない選択は、安全ではない。


俺は一歩前へ出た。



「救助を待つだけでは危険です」



車内の視線が、俺に集まった。

声が震えないように、腹に力を入れる。



「外にはモンスターがいます。左通路へ行った人たちは負傷しました。このまま車内に残っていても、見つかれば逃げ場がありません」



すぐに反発が返ってきた。



「あんたに何が分かるんだよ!」


「探索者なのか?」


「素人が勝手に仕切るな!」



当然だった。

俺は実績のある探索者ではない。

探索者免許を持っているだけの会社員だ。


それでも、ここで下がるわけにはいかない。

下がれば、また全員が恐怖で止まる。



「全員で一斉に動くのも危険です。まず、動ける人だけで出口を探します。安全に進める場所があるか確認してから、子供や怪我人を動かします」



ざわめきが広がる。

納得していない人の方が多い。

それでも、完全に無視される空気ではなかった。


三崎さんが俺の横に立った。



「少なくとも、さっきは久遠さんの判断で助かりました。左に行っていたら、俺たちもやられていた」



芹沢さんも顔を上げる。



「私も、久遠さんの言う通りにした方がいいと思います。見た目で安全そうな方を選んだ人たちが、怪我をしました」



その言葉で、車内の空気が少しだけ変わった。

全員が信じたわけではない。

それでも、数人が俺を見る目は変わっていた。


母親が男の子を抱きしめたまま、小さく言う。



「この人がいなかったら、私たちもあそこにいました」



胸が痛んだ。

信じられるほどの根拠を、俺はまだ持っていない。

ただ表示に従っているだけだ。


それでも、今はその表示しかない。

俺の視界に、再び文字が浮かぶ。


出口探索開始

リスク:中

リターン:高

期待値:推奨


俺は息を吸った。

怖い。

今でも、足は震えている。


それでも、もう戻れない。



「まず、動ける人だけで出口を探します。怪我人と子供は車内で待機。戻る道と隠れられる場所を確認しながら進みます」



車内が静まり返った。

誰かが反論しようとして、言葉を飲み込む。

乗務員も、蒼白な顔で俺を見ていた。


十年間、俺は何も決められなかった。

潜るかどうかも。

挑むかどうかも。


けれど今、俺は他人の命に関わる選択を口にしている。

その重さに潰されそうになりながら、それでも視線を逸らさなかった。


ダンジョンの奥から、また低い唸り声が聞こえた。

時間は、もう残されていなかった。

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