4話 安全そうな道
左通路の奥で、影が大きく揺れていた。
悲鳴が遅れて響く。
俺は反射的に戻りかけた。
左へ進もうとしていた人たちが、まだあちら側にいる。
助けに行かなければ。
そう思った瞬間、視界に文字が浮かんだ。
左通路へ戻る
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
右通路を進む
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
俺の足が止まる。
戻るな、と表示は言っている。
けれど、悲鳴を聞いて動かない方が正しいなんて、簡単に受け入れられるはずがなかった。
三崎さんも顔を強張らせている。
芹沢さんは口元を押さえ、左通路の方を見ていた。
青白い光の奥から、何かを引きずるような音が近づいてくる。
次の瞬間、左通路から男の人が一人、転がるように飛び出してきた。
肩口の服が裂け、腕から血が流れている。
その後ろから、もう一人が足をもつれさせながら逃げてきた。
奥で、低い唸り声が膨れ上がる。
はっきりした姿は見えない。
ただ、壁に映った影だけで分かった。
大きい。
人間よりずっと大きい。
左の広い通路は、安全な道ではなかった。
青白い鉱石の光が、逃げてきた人たちの背中を照らしている。
その奥で、石壁が削れる音がした。
爪か、角か、それとも別の何かが壁に擦れている。
俺は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
能力の表示が正しかった。
その事実が、安心ではなく恐怖として胸に落ちてきた。
三崎さんが小さく息を吐いた。
「……左に行ってたら、終わってましたね」
俺は答えられなかった。
自分が判断した気になっていた。
でも、実際は見えた表示に従っただけだ。
それでも、あのまま左へ行っていたら。
俺たちも、今頃あの影に追われていた。
そう思うと、足の裏から力が抜けそうになる。
左通路から逃げてきた男の人が、こちらに気づいて声を上げる。
「助けてくれ! 奥に、何かいる!」
三崎さんが動いた。
逃げてきた男の人の腕を掴み、右通路側へ引き込む。
芹沢さんも、足をもつれさせたもう一人を支えた。
俺は右通路の奥へ視線を向ける。
狭い。
暗い。
けれど、今はこの狭さが救いになるかもしれない。
大型の何かが通るには、左の方が都合がいい。
広くて明るい道は、俺たちのための道ではなかった。
視界に、次の表示が浮かぶ。
通路奥へ直進
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
右壁のくぼみ確認
リスク:低
リターン:中
期待値:推奨
俺は息を呑んだ。
右壁のくぼみ。
そんなもの、意識して見なければ気づかない。
青白い鉱石の光は弱く、壁の凹凸は影に紛れている。
三崎さんが不審そうに俺を見た。
「今度は何ですか」
俺は壁際に目を凝らした。
普通なら、こんな時に壁を調べる余裕などない。
逃げるか、戻るか、その二択だけで頭がいっぱいになる。
それでも表示は、そこを確認しろと言っている。
「この壁です。何かあるかもしれません」
三崎さんが一瞬、言葉を失った。
無理もない。
左通路の危険を避けた直後に、壁のくぼみを調べると言い出す男など、普通は信用できない。
芹沢さんが震えた声で言う。
「そんなところに、ですか?」
俺も同じ気持ちだった。
自分でも馬鹿げていると思う。
けれど、左通路の表示は当たった。
今度も無視する方が怖い。
俺は壁そのものには触れず、足元の影を覗き込んだ。
そこに、人が身をかがめれば入れる程度の横穴があった。
ただのくぼみに見える。
けれど奥は少し広がっている。
三、四人どころか、体を詰めればもう少し入れそうだった。
俺はスマホのライトを向けた。
光が奥へ吸い込まれる。
床は乾いていて、獣の足跡もない。
少なくとも、今すぐ何かが潜んでいる気配はなかった。
「ここ、隠れられます」
三崎さんが目を見開いた。
「本当にあったのかよ……」
その声には、驚きと疑いが混ざっていた。
芹沢さんも横穴を覗き込み、息を呑む。
さっきまでただの影にしか見えなかった場所が、確かに避難場所になっている。
俺は逃げてきた人たちを横穴の入口へ移動させた。
一人は腕を押さえている。
血は出ているが、傷は浅い。
もう一人は足を痛めたらしい。
立てないわけではないが、走るのは難しそうだった。
放っておけば、次に何かが来た時に逃げ遅れる。
男の人が荒い息のまま俺を見た。
「あんた、なんで右に行ったんだ。左の方が明るかっただろ」
俺は答えに詰まった。
本当のことは言えない。
言ったところで、信じてもらえるか分からない。
「……見た目だけで、安全とは限らないと思ったんです」
苦しい答えだった。
でも、完全な嘘ではない。
左は明るかった。
広かった。
誰が見ても安全そうだった。
だからこそ危険だったのかもしれない。
モンスターが通るなら、広い道の方が都合がいい。
逃げ道に見える場所が、相手にとっての移動経路だった。
少しして、芹沢さんと三崎さんが電車側へ戻った。
母親と男の子。
高齢の男性。
それから、震えて動けなくなっていた乗客を二人。
三崎さんは肩で息をしながら、母親を横穴へ誘導した。
「奥へ。子供を先に。頭を下げてください」
芹沢さんは男の子の前にしゃがみ、できるだけ優しい声を出した。
「大丈夫。少しだけ隠れよう。声を出さなければ、きっと通り過ぎるから」
男の子は泣きそうな顔でうなずいた。
母親がその肩を抱く。
高齢の男性も、息を整えながら横穴の壁に背を預けた。
人数を詰めると、横穴はすぐいっぱいになった。
全員をここへ入れることはできない。
電車にはまだ多くの乗客が残っている。
俺の視界に、また表示が浮かぶ。
全員車内待機
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
全員一斉誘導
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
動ける者から分散誘導
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は奥歯を噛んだ。
全員を一度に動かせば、混乱する。
泣く子供、怪我人、足の悪い人、パニックになった大人。
一斉に走れば、誰かが転ぶ。
誰かを助けようとして、さらに人が止まる。
その間に、あの影が来る。
動ける人から順番に移す。
安全そうに見える車内に残すのではなく、少しずつ動かす。
それが今の最適解なのだと、表示は示している。
本当に信じていいのか。
まだ迷いはあった。
でも、左通路の結果を見た後では、無視する方が怖かった。
三崎さんが俺の横に立つ。
「さっきの左も、この横穴も、なんで分かったんですか」
俺は一瞬だけ視線を落とした。
問い詰める口調ではない。
けれど、疑問は当然だった。
「説明できるほど、俺にも分かっていません。ただ、見た目だけで選ぶのは危ないと思いました」
三崎さんは納得していない顔をした。
それでも、さっきまでのように否定はしなかった。
目の前で結果を見てしまったからだ。
芹沢さんが小さく言った。
「でも、当たってました。二回とも」
その言葉が、重かった。
当たった。
だから次も当たるとは限らない。
それでも、今はこの表示以外に頼れるものがない。
俺が迷えば、他の人たちも迷う。
時間だけが削られていく。
三崎さんが鞄を持ち直す。
「次はどうします」
その言い方が、さっきまでと違っていた。
命令を待っているわけではない。
でも、俺の判断を聞こうとしている。
その重さが背中に乗った。
「電車に残っている人を、動ける人から少しずつ移します。全員で一気に動くのは危険です」
三崎さんは頷いた。
「分かりました。俺は車内側を見ます。騒ぎ出す人を抑えればいいですか」
「お願いします。芹沢さんは、お子さんと怪我人の近くにいてください。もし何かあったら、すぐ奥へ下がらせてください」
芹沢さんは真剣な顔でうなずいた。
「分かりました」
俺は自分が指示を出していることに、遅れて気づいた。
十年間、自分の進路すら決められなかった男が、人の動きを決めている。
失敗すれば、誰かが死ぬかもしれない。
胃が重い。
逃げ出したい。
それでも、今は俺が止まれば全員が止まる。
左通路の奥から、足音が近づいた。
重く、鈍い音。
石畳がわずかに震える。
俺たちは息を殺した。
横穴の中で、母親が男の子の口元をそっと押さえる。
芹沢さんも動かない。
青白い光の先を、大きな影が横切った。
毛の生えた太い脚。
岩のような肩。
濡れた息の音。
姿の全ては見えない。
それでも、あれが人間の相手をしていい生き物ではないことだけは分かった。
影は左通路から分岐の前を通り過ぎ、別の奥へ消えていった。
もし左へ進んでいたら。
もし、あの広くて明るい道を選んでいたら。
俺たちは全員、あの足音の先にいた。
誰も声を出さなかった。
三崎さんの顔から血の気が引いている。
芹沢さんも、唇を噛んだまま動けずにいた。
やがて足音が遠ざかる。
俺はようやく息を吐いた。
視界の端で、文字が浮かぶ。
周辺探索継続
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
右通路奥の確認
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は暗い通路の奥を見た。
青白い光が途切れる、そのさらに先。
壁の隙間から、淡い緑色の光が一瞬だけ漏れた。
ただの鉱石の光ではない。
規則的に揺れる、何か人工物のような光だった。
もしかすると、次の手がかりかもしれない。
怖い。
今も怖い。
けれど、ここに隠れ続けても助からない。
俺は震える手を握りしめ、暗い通路の奥を見据えた。




