3話 リスク:高
俺の靴底が、石畳に触れた。
たったそれだけのことなのに、膝が笑いそうになった。
電車の床とは感触が違う。
硬く、冷たく、湿っている。
本物のダンジョンだ。
十年間、画面の中でしか見なかった場所。
配信の向こう側にしかなかった場所。
そこに、俺は今、立っている。
背後では、まだ乗客たちが騒いでいた。
泣き声。
怒鳴り声。
繋がらないスマホを何度も見下ろす音。
車内には人の熱がある。
外には、冷えた石と獣の匂いがある。
俺は喉を鳴らした。
逃げたい。
今すぐ車内に戻って、誰かが助けてくれるのを待ちたい。
けれど、視界の表示は消えていなかった。
外部通路確認
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
その文字だけが、青白い洞窟の光よりもはっきり見えていた。
俺の後ろで、誰かが石畳へ降りる音がした。
振り返ると、さっき立ち上がった女子高生がいた。
制服の上にカーディガンを羽織り、スマホを握りしめている。
顔は青い。
それでも目だけは、車内に残った人たちより前を向いていた。
「本当に、外を見に行くんですよね」
声は震えていた。
俺はうなずくしかなかった。
「行く。ただ、遠くまでは行かない。まずは電車の周りと、前方の通路だけ確認する」
続いて、若い会社員が降りてきた。
俺より少し年上だろうか。
ネクタイを緩め、片手にビジネスバッグを握っている。
視線は鋭い。
俺を信用しているというより、状況を自分の目で確かめたい顔だった。
「俺は三崎です。営業です。戦えませんけど、何もしないで座ってるよりはマシなんで」
三崎さんの後ろから、母親が小学生くらいの男の子を抱き寄せながら降りようとしていた。
俺は思わず手を上げる。
「待ってください。お子さんは車内にいた方がいいです」
母親は首を横に振った。
目元は泣きそうなのに、腕だけは子供を強く抱いている。
「離れる方が怖いんです。この子だけ置いていけません」
男の子は何も言わなかった。
ただ母親の服を掴み、洞窟の奥を見ないようにしている。
その後ろから、高齢の男性がゆっくりと降りてきた。
足が少し悪いらしい。
手すりに体重を預け、息を整えている。
「若い人だけに任せて、後で後悔したくない。邪魔なら、すぐ戻る」
俺は返事に詰まった。
少人数で外部確認。
能力はそう示している。
けれど、子供と高齢者を連れて歩くのは危険に見える。
本当にこれでいいのか。
そう思った瞬間、視界に新しい表示が浮かんだ。
全員車内待機
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
少人数で外部確認
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
同行者を限定
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は息を吐いた。
能力は、全員を外へ出せとは言っていない。
連れていく人数と範囲を絞れと言っている。
いや、そう見えるだけかもしれない。
今日突然見え始めた文字だ。
都合よく信じて、全員を危険に巻き込むわけにはいかない。
俺は母親と男の子を見た。
「お母さんとお子さんは、ドアのすぐ近くまでにしてください。通路の奥までは行かない。異変があれば、すぐ車内へ戻る。それでお願いします」
母親は迷ったあと、小さくうなずいた。
高齢の男性にも同じように、ドア付近で待機してもらうことにした。
前に進むのは、俺と女子高生と三崎さんの三人だけ。
女子高生が小さく息を吸う。
「私、芹沢です。芹沢真帆。運動部だったので、走るくらいならできます」
三崎さんが苦い顔をした。
「走らなきゃいけない状況には、なりたくないけどな」
俺も同感だった。
走る状況になった時点で、たぶん手遅れに近い。
けれど、それを口に出す余裕はなかった。
俺たちは電車の前方へ歩き出した。
石畳はわずかに湿っていて、靴底が嫌な音を立てる。
壁の鉱石が青白く光り、影が不自然に揺れていた。
電車は、洞窟の中に無理やり置かれているように見えた。
車両の下に線路はない。
車輪の半分が石畳に沈み込み、床下から白い蒸気のようなものが漏れている。
天井は高い。
見上げても奥が暗く、青白い鉱石の光が途中で闇に呑まれている。
遠くで水滴の落ちる音がした。
十年間、俺はダンジョンの映像を見続けてきた。
地形の種類。
モンスターの出現傾向。
初心者がやりがちな失敗。
知識だけならある。
知識だけなら、人並み以上にある。
だからこそ分かる。
この場所は、発生したばかりで安定していない。
壁の一部がまだ脈打つように揺れている。
床の継ぎ目も、現実の建造物とは違う。
三崎さんが低い声で言った。
「これ、本当にダンジョンなんですか」
俺は壁に触れず、少し距離を取ったまま答える。
「たぶん。新規発生型です。空間ごと巻き込まれる事故は、過去にもあります」
芹沢さんが俺を見る。
「詳しいんですね。やっぱり探索者なんですか」
胸が痛んだ。
ここで堂々とうなずけるほど、俺は強くない。
「探索者免許はあります。知識と訓練も、一応」
三崎さんの目が細くなる。
「一応、ですか」
俺は短くうなずいた。
これ以上言えば、足が止まる。
実戦経験がないことまで今言えば、この場の空気は崩れる。
嘘はついていない。
でも、本当のことを全部言ったわけでもない。
その重さが、喉の奥に引っかかった。
しばらく進むと、通路が二つに分かれていた。
左の通路は広い。
壁の鉱石も多く、奥までぼんやり明るい。
道幅もあり、いざという時は走れそうだった。
右の通路は狭い。
光も少なく、奥が暗い。
人が二人並んで歩くのも難しそうだ。
普通に考えれば左だ。
俺だって、能力がなければ左を選んだ。
広く、明るく、逃げやすそうに見える。
視界に文字が浮かぶ。
左通路
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
右通路
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
俺は足を止めた。
やっぱり左ではない。
見た目の安全さと、能力の表示が噛み合っていない。
三崎さんが左を指さす。
「明るい方に行きましょう。見通しもいい」
芹沢さんも不安そうに左を見ていた。
「右、暗すぎませんか。何かいたら逃げられないですよ」
正論だった。
俺もそう思う。
今すぐ左を選びたい。
広い方が安全に決まっている。
明るい方が安心できる。
右へ進めば、引き返すのも難しそうだ。
それでも、表示ははっきり左を否定している。
俺は唇を噛んだ。
理由を説明できない。
視界に文字が見えるなんて言っても、信じてもらえるはずがない。
そもそも俺自身、まだ信じきれていない。
ただの幻覚かもしれない。
それでも、ここで黙ったら何のために外へ出たのか分からない。
「右へ行きましょう」
二人が俺を見る。
当然の反応だった。
三崎さんの声が硬くなる。
「理由は?」
俺は答えに詰まった。
能力のことを言うべきか。
いや、今はまだ自分でも理解できていない。
説明できないものを、他人に信じろとは言えない。
だから、情けない答えしか出せなかった。
「……勘です」
三崎さんの表情が露骨に変わった。
「勘でこっちを選べって言ってるんですか。悪いけど、それは無理がある」
その通りだ。
俺だって、他人に同じことを言われたら信用しない。
でも、視界の表示は消えない。
左通路。
リスクは高。
期待値は非推奨。
俺は左へ一歩進もうとする三崎さんの前に出た。
「お願いします。左はやめた方がいい」
三崎さんの眉が寄る。
空気が張りつめた。
その時、芹沢さんが小さく手を上げた。
「私は、右にします」
三崎さんが振り返る。
「本気か?」
芹沢さんは左通路を見たあと、俺を見た。
「左の方が安全そうです。でも、さっき車内に残るのも安全そうに見えました。見た目で選ぶの、怖いです」
その言葉に、俺は少しだけ息がしやすくなった。
信じてもらえたわけではない。
それでも、完全に否定されたわけでもなかった。
三崎さんは舌打ちしそうな顔をしたが、最終的には左から視線を外した。
「分かりましたよ。ただし、何かあったらすぐ戻る。それでいいですね」
俺はうなずいた。
右通路へ向かう。
狭く、暗い道だ。
背後で、電車の方に残っていた乗客たちがこちらを見ている。
全員が従ったわけではない。
左の通路を選ぼうとしている数人の姿も見えた。
止めるべきか。
全員を説得するべきか。
そう思った瞬間、能力表示が揺らいだ。
左通路説得継続
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
右通路確認
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
時間をかける方が危ない。
俺は奥歯を噛み、右通路へ足を踏み入れた。
後ろから芹沢さんと三崎さんの足音が続く。
数歩進んだところで、背後から低い音が響いた。
地面を叩くような、重い足音だった。
一つではない。
洞窟の空気が震える。
左通路の奥から、獣の唸り声が膨れ上がった。
次の瞬間、誰かの悲鳴が響いた。
俺たちは振り返った。
青白い光の向こうで、左通路の影が大きく揺れていた。




