2話 リスクリターンが可視化された
ドアの向こうから、低い唸り声が響いていた。
誰かが息を呑む。
赤ん坊の泣き声が、車内のどこかで細く震えていた。
俺は開いたドアの前で固まったまま、青白い洞窟の奥を見つめていた。
新規ダンジョン発生。
その言葉を頭では理解している。
理解しているのに、身体は何一つ動かなかった。
目の前にあるのは駅でも線路でもない。
石畳の通路。
青白い鉱石。
冷たい風と、獣の匂い。
乗客たちは一斉に騒ぎ始めた。
スマホを掲げる者。車掌室へ向かおうとする者。座席に座り込んだまま、震えている者。
誰も正しい答えを持っていない。
俺も同じだった。
十年間、ダンジョンに入れなかった男が、急に冷静になれるわけがない。
車両の前方から、制服姿の乗務員が駆けてきた。
顔色が悪い。
それでも声だけは張ろうとしていた。
「皆さん、落ち着いてください! 現在、状況を確認しています。車外には出ないでください!」
その言葉に、何人かが少しだけ安堵した。
指示がある。
大人がいる。誰かが何とかしてくれる。
俺も、そう思いたかった。
乗務員は無線機を口元に当てる。
しかし返ってくるのは砂嵐のようなノイズだけだった。
何度呼びかけても、応答はない。
電車の奥から別の男の声がした。
「運転士は? 前はどうなってるんだよ!」
乗務員は答えられなかった。
その沈黙だけで、車内の空気がまた悪くなる。
救助を待つべきだと言う者と、早く外へ出るべきだと言う者が言い争い始めた。
俺は座席の背に手を置いた。
掌が汗で濡れている。
何もするな、と頭の中の臆病な部分が言っていた。
ここにいればいい。
勝手に動くな。
責任を負うな。
十年間、俺はそうやって生きてきた。
怖いものには近づかない。
失敗するくらいなら、準備不足を理由に先延ばしにする。
その時だった。
視界の中央に、薄い文字が浮かんだ。
車内待機
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
俺は瞬きをした。
消えない。
目の疲れでも、スマホの通知でもない。
文字は、俺の視界に直接貼りついていた。
息が詰まる。
意味が分からない。
けれど、そこに書かれた内容だけは理解できた。
車内に残るのは危険。
待っているだけではまずい。
そう示されている。
続けて、別の表示が浮かんだ。
前方車両確認
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
外部通路確認
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は喉を鳴らした。
心臓が嫌な速さで打っている。
これは固有能力なのか。
探索者には、ごくまれに特殊な能力が発現する。
配信でも何度か見たことがある。
未来視、感覚強化、魔力感知、危険察知。
でも俺には関係ない話だと思っていた。
十六歳で免許を取ってから十年間、何も起きなかった。
今さら、こんな状況で発現するなんて考えたこともなかった。
周囲ではまだ言い争いが続いている。
車内にいれば安全だと言う男。
外に出なければ酸欠になるかもしれないと言う女。
泣いている子供を抱きしめる母親。
俺の視界には、文字が残り続けていた。
車内待機。
リスクは高。
期待値は非推奨。
何もしないことが、一番危険だと告げている。
信じていいのか。
そもそも俺に何ができる。
実戦経験はゼロだ。
オルタナは鞄の中にある。
持ち歩いてはいる。
だが、使ったことがあるのはシミュレーターの中だけだ。
画面の中なら動けた。
数字の上なら勝てた。
本物のダンジョンで、人を連れて動く資格なんて俺にはない。
洞窟の奥で、何かが石を擦る音がした。
低い唸り声が近づいた気がする。
車内の誰かが、ドアを閉めろと叫んだ。
乗務員が操作盤に手を伸ばす。
けれど、ドアは動かなかった。
開いたまま、冷たい空気だけが流れ込んでくる。
俺は唇を噛んだ。
このまま座っていれば、誰かが何とかしてくれるかもしれない。
救助が来るかもしれない。
探索者協会が、外からこのダンジョンを見つけてくれるかもしれない。
でも表示は消えない。
外部通路確認
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は十年間、最後の一歩だけを踏み出せなかった。
準備はした。
訓練もした。
けれど、怖くていつも止まった。
今また止まれば、何も変わらない。
いや、今度は俺一人の話では済まない。
ここには、何も知らない乗客がいる。
母親に抱かれた子供が泣いていた。
女子高生が震える指で、繋がらないスマホを握っていた。
高齢の男が座席にしがみつき、浅い呼吸を繰り返していた。
俺が正しいとは限らない。
能力らしき表示が、本当に信用できるものかも分からない。
それでも、何もしないまま終わる方が怖かった。
俺は座席から手を離した。
膝が震える。
それでも立った。
周囲の視線が、こちらへ集まる。
自分でも驚くほど、声が喉に引っかかった。
一度飲み込んで、もう一度息を吸う。
「外を確認します」
車内が一瞬静かになった。
乗務員が目を見開く。
近くにいた会社員風の男が、俺を上から下まで見る。
「おい、あんた探索者なのか?」
答えに詰まった。
探索者と名乗れるほど、俺は何もしていない。
ただ免許を持っているだけの会社員だ。
でも、今それを全部言えば、また誰も動けなくなる。
俺自身も、きっと動けなくなる。
「探索者免許は持っています。前方と外の様子だけ確認します。全員で動くのは、その後です」
嘘ではない。
ただ、本当のことを全部言っていないだけだ。
胸の奥が痛んだが、今はそれでいいと思うしかなかった。
乗務員が迷うように俺を見る。
止めるべきか。
任せるべきか。
その判断を、彼もできずにいる。
その時、奥の座席から女子高生が立ち上がった。
「私も行きます。ここで待ってる方が怖いです」
続いて、若い会社員が鞄を握りしめて立つ。
「一人よりはマシだろ。俺も行く」
母親が子供を抱き寄せる。
高齢の男は、何か言いたげに俺を見ていた。
車内の全員が、答えを待っている。
俺の視界に、また表示が浮かぶ。
単独行動
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
少人数で外部確認
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
外部通路確認
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺はゆっくりとうなずいた。
まだこの能力の正体は分からない。
でも少なくとも、何を選ぶべきかは見えている。
開いたドアの前に立つ。
足元の先には、電車の床ではなく石畳があった。
青白い光が、俺の靴先を照らしている。
心臓の音がうるさい。
怖い。
今すぐ座席に戻りたい。
それでも、もう目を逸らせなかった。
俺は十年間、ダンジョンの前で止まり続けた。
今度は、ダンジョンの方が俺を逃がしてくれない。
俺は冷たい空気を吸い込み、開いたドアの外へ一歩を踏み出した。




