1話 10年悩み続けた男
帰りの電車は、いつも通り混んでいた。
俺は吊り革につかまりながら、片手でスマホを見ていた。
画面の中では、若い探索者が暗い洞窟を走っている。
ダンジョン探索専用の配信アプリ、ダンジョンライブだ。
白い光をまとった剣が、ゴブリンの肩口を裂いた。
配信者は息を切らしながら笑っている。
右上に表示された同接は、八千人を超えていた。
画面の下には新人ランキングの告知が流れている。
一位は十七歳。
二位は十八歳。
三位も、まだ十九歳だった。
コメント欄には、視聴者の反応が次々と流れていた。
『今の回避うまい』
『高校生でこれなら将来有望』
『新人ランキング載るんじゃね?』
俺はその文字を見て、親指を止めた。
高校生。
画面の向こうの探索者は、どう見ても俺よりずっと若かった。
俺は二十六歳だ。
会社員。
毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じような書類を処理して帰る。
悪い人生ではない。
給料は出る。
危険もない。
明日もたぶん、今日と同じように続いていく。
それなのに、胸の奥にはずっと引っかかっているものがあった。
俺は探索者免許を持っている。
取ったのは十六歳の時だ。
高校に通いながら講習を受け、筆記も実技も通過した。
あの頃の俺は、本気でダンジョンに潜るつもりだった。
だから、十年前に発売された双球武装も買った。
白い球と黒い球を同時に操る、扱いづらい失敗作の武器だ。
白球は遠距離から魔法を放つ。
黒球は近距離で武器の形を取る。
理屈の上では、遠距離と近距離を一人で補える。
ただ、使いこなせる人間がほとんどいなかった。
二つの球に均等に魔力を流し続け、同時に別々の軌道を管理する必要がある。
普通の剣や杖を持った方が早いと言われ、すぐに市場から消えた。
俺の部屋には、今もそれが置いてある。
隣には自作した訓練シミュレーターもある。
仕事から帰れば、俺は画面の中で白球と黒球を動かしていた。
一日一時間だけの日もあった。
休日に十時間以上続けた日もあった。
飲み会を断った夜も、旅行に行かなかった連休も、結局はオルタナの軌道計算に使った。
記録上の累計訓練時間は、一万時間を超えている。
実戦で使ったことは一度もない。
ダンジョンに入ったことも、一度もない。
それでも手入れだけは欠かさなかった。
白球と黒球に触れない日は、十年間で一日もなかった。
潜る勇気はないくせに、諦める勇気もなかった。
死ぬのが怖かった。
怪我をするのが怖かった。
才能がないと分かるのが怖かった。
もう少し準備してから。
もう少し操作が安定してから。
もう少し知識をつけてから。
そう言い訳しているうちに、一年が過ぎた。
三年が過ぎた。
就職して、気づけば十年が過ぎていた。
画面の中の探索者が、モンスターを倒して拳を握る。
視聴者数が増える。
投げ銭の通知が重なる。
俺はスマホの画面を消した。
黒くなった画面に、くたびれたスーツ姿の男が映っている。
十年間、準備だけして何も始められなかった男だ。
車内アナウンスが流れた。
次の駅名を告げる、聞き慣れた声。
俺はスマホをコートのポケットにしまい、窓の外へ視線を向けた。
夜の街が流れている。
ビルの明かり。
踏切の赤い点滅。
線路沿いの住宅。
駅へ向かって歩く人影。
いつもと同じ帰り道だった。
その全部が、突然ぶれた。
電車が大きく揺れる。
車内の誰かが短く悲鳴を上げた。
俺は吊り革を握る手に力を込める。
急停車ではない。
ブレーキの感覚とも違う。
車両そのものが、下から突き上げられたみたいだった。
照明が一度落ちた。
すぐに非常灯がつく。
薄い赤い光が、乗客たちの顔を照らした。
スマホを取り出した女性が、画面を見て眉をひそめる。
近くの男子学生が、舌打ちしながら窓の外を覗いた。
赤ん坊を抱いた母親が、周囲を不安そうに見回している。
何が起きた。
そんな声が、あちこちから漏れた。
俺も窓の外を見た。
そこにあるはずの街明かりが消えていた。
線路も、住宅も、駅のホームもない。
代わりに見えたのは、石の壁だった。
古い洞窟のような壁面に、青白い鉱石が埋まっている。
その光が、濡れた石畳をぼんやり照らしていた。
最初は、トンネルだと思おうとした。
けれど、ありえない。
この路線に、こんな場所はない。
車内放送が途中で途切れる。
ノイズだけが数秒響き、やがて完全に沈黙した。
誰かが通報しようとして、圏外だと叫んだ。
空気が変わっていた。
電車の隙間から入り込む風が冷たい。
土と鉄と、わずかに獣臭い匂いがする。
ドアの上の表示板が乱れた。
次の駅名が文字化けし、意味のない記号になっていく。
その直後、車両のドアが勝手に開いた。
外から冷たい空気が流れ込む。
乗客たちが一斉に後ずさった。
ホームはない。
ドアの向こうには、石畳の通路が続いていた。
線路ではない。
駅でもない。
誰かが震えた声で言った。
「ここ、どこだよ」
その声で、車内の混乱が一気に広がった。
泣き出す子供がいる。
スマホを掲げて電波を探す者がいる。
車掌室へ向かおうとする男もいた。
座席にしがみついたまま、動けなくなっている老人もいる。
誰も状況を理解できていなかった。
俺は動けなかった。
足の裏が床に貼りついたみたいだった。
頭の中だけが、嫌に冷えていく。
知っている。
これは、ニュースで何度も見た現象だ。
都市部でも、郊外でも、前触れなく空間が歪み、人や建物ごと飲み込むことがある。
新規ダンジョン発生。
それも、電車ごとだ。
喉が乾いた。
指先が震える。
さっきまでダンジョン配信を見ていたスマホが、ポケットの中で重く感じた。
十年間、俺は自分から入れなかった。
怖くて、準備ばかりして、最後の一歩だけを踏み出せなかった。
何度も明日に延ばし、何度も自分を誤魔化してきた。
そのダンジョンが今、俺たちを飲み込んでいる。
俺は開いたドアの先を見つめた。
青白い光の奥で、何かが動いた気がした。
その直後、洞窟の奥から低い唸り声が響いた。
悲鳴が上がるより先に、背筋が冷たくなる。
十年間、俺が入れなかったダンジョンが、向こうから俺の人生に入り込んできた。




