16話 脱出作戦
結界札は三枚しかない。
俺はその薄い札を見下ろしながら、頭の中で何度も順番を組み直した。
誰を守る。
どこで使う。
どのタイミングで走らせる。
出口候補までは近い。
けれど、崩れた床とモンスターの群れが間にある。
ただ走れば誰かが落ちるし、ゆっくり進めば追いつかれる。
視界に表示が浮かぶ。
子供優先
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
負傷者優先
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
全員同時
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
俺は息を吸った。
全員を一度に守ることはできない。
だから順番を決めるしかない。
母親と男の子。
負傷した男性。
高齢の男性。
まずは動きが遅い人を中央にまとめる。
動ける人が左右を支える。
三崎さんには結界札を一枚持ってもらい、芹沢さんには列の前側で声をかけてもらう。
説明している間、乗客たちは黙って聞いていた。
誰かが泣き出してもおかしくない状況だった。
それでも、もう無秩序に叫ぶ人はいない。
俺はそれが余計に怖かった。
全員が、俺の判断に乗ろうとしている。
外れたら終わる判断に。
「結界札は、俺が合図したら使ってください。光の膜が出たら、その範囲から出ない。走るよりも、列を崩さないことを優先してください」
三崎さんが札を握りしめる。
「久遠さんはどこに立つんですか」
「最後尾です」
即答したつもりだった。
けれど、声は少し掠れていた。
芹沢さんが目を見開く。
「最後尾って、一番危ない場所じゃないですか」
「だからです。後ろから来た時に止められる人が必要です」
本当は怖い。
先頭にいた方が出口へ近い。
少しでも早く逃げられる。
だが、最後尾が崩れれば列全体が崩れる。
後ろから追われた時、誰かが足を止めれば、全員が詰まる。
それを防げる可能性があるのは、今のところ俺だけだった。
視界に表示が浮かぶ。
零士が最後尾
リスク:高
リターン:高
期待値:推奨
零士が先頭
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
俺は表示を見て、腹を括った。
危険でも、ここは最後尾だ。
白球を前方に出す。
黒球は手元で短剣の形を取らせる。
結界札を持つ三崎さんへ目を向けた。
「合図したら使ってください。まず子供と怪我人を守ります」
三崎さんは一瞬だけ何か言いたそうにして、結局うなずいた。
「分かりました」
母親が男の子を強く抱きしめる。
男の子は泣いていない。
唇を噛みしめて、俺の方を見ていた。
俺は視線を逸らしそうになった。
怖いのは俺も同じだ。
それでも、大丈夫だと言わなければならない。
「行きます」
俺の声を合図に、列が動き出した。
崩落した床の端を避け、壁沿いの細い足場へ進む。
白球の光が足元を照らす。
空洞の奥で、小型モンスターたちが反応した。
爪が石を掻く音が重なる。
数体が穴の縁へ上がろうとしていた。
俺は白球を振った。
光弾を一発、穴の手前へ撃ち込む。
直撃ではない。
音と光で注意をこちらへ向けるためだ。
小型モンスターたちの視線が、俺へ集まる。
「今です!」
三崎さんが結界札を起動する。
薄い光の膜が、母親と男の子、負傷者、高齢の男性を包み込んだ。
完全な壁ではない。
だが、小さな爪や飛びかかりを受け流す程度の強度はある。
乗客たちはその光の中で、必死に足を進めた。
一体目が穴の縁を越えた。
俺は黒球を横へ滑らせる。
短剣の刃が、小型モンスターの進路を遮った。
爪と刃がぶつかる。
衝撃が腕まで返ってきた。
俺は歯を食いしばり、白球で床を撃つ。
小型モンスターが姿勢を崩す。
黒球を押し込む。
体が淡い光の粒になって崩れた。
通知を見る余裕はない。
二体目が右から来る。
三体目は低く跳んで、列の方へ向かった。
視界に文字が走る。
右回避
リスク:中
リターン:中
期待値:推奨
列側迎撃
リスク:高
リターン:高
期待値:推奨
俺は列側を選んだ。
黒球を戻すより早く、白球で横から撃つ。
光弾はわずかに逸れた。
小型モンスターの肩を掠めるだけだった。
それでも軌道はずれる。
結界札の膜へぶつかり、火花のような光が散った。
母親が息を呑む。
男の子が目を閉じる。
三崎さんが札を押さえながら叫んだ。
「急いでください! でも走らない!」
列が少しずつ進む。
出口候補の光が近づいていく。
だが俺の方には、さらに二体が迫っていた。
黒球を戻す。
短剣を低く構える。
一体の爪を受け、もう一体へ白球を向ける。
魔力が足りなくなってきた。
頭の奥が痛む。
呼吸が荒い。
シミュレーターなら、ここで次のパターンへ移れた。
だが現実では、地面の凹凸も、恐怖も、背後にいる人たちの息遣いも全部が邪魔になる。
三体目の動きに対応が遅れた。
左肩の服が裂ける。
熱い痛みが走った。
血は見ない。
見たら足が止まる。
俺は歯を食いしばり、黒球を振り上げた。
小型モンスターを弾く。
白球を床へ撃つ。
砕けた石片が飛び、相手の動きが乱れる。
倒しきれない。
それでいい。
今必要なのは、時間だ。
視界に表示が浮かぶ。
後退しながら牽制
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
その場で迎撃継続
リスク:高
リターン:中
期待値:非推奨
俺は一歩下がる。
もう一歩下がる。
乗客たちの列に近づきすぎない距離を保ちながら、モンスターの注意だけを引く。
白球が光弾を放つ。
黒球が爪を弾く。
また白球。
完璧ではない。
何度も外れる。
何度も反応が遅れる。
それでも、致命的な一撃だけは避ける。
表示を見る。
考える。
動く。
芹沢さんの声が前方から聞こえた。
「あと少しです! そのまま進んでください!」
乗客たちが出口候補へ近づいていた。
光が強くなる。
風のようなものが、空洞の奥から流れてくる。
本当に外へ続いているのかもしれない。
そう思った瞬間、足元がふらついた。
黒球の操作が一瞬遅れる。
小型モンスターが間合いへ入る。
俺は反射的に白球を近距離で撃った。
光が弾ける。
衝撃で自分の体も後ろへ押される。
肩が壁にぶつかった。
痛い。
息が詰まる。
それでも倒れなかった。
小型モンスターが光の粒になって消える。
探索者ライセンスが震えたが、確認する余裕はなかった。
三崎さんが振り返る。
「久遠さん!」
「前を見てください! 止まらないで!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
三崎さんは歯を食いしばり、列へ戻る。
結界札の光が薄くなり始めていた。
時間がない。
乗客たちはもう出口候補の手前まで来ている。
あと少しだ。
俺は最後尾で、白球と黒球を浮かせ直した。
残っている小型モンスターは三体。
穴の下には、まだ影がある。
全部倒す必要はない。
引きつける。
近づけさせない。
それだけを考える。
その時、空洞の奥から重い音が響いた。
ドン。
床がわずかに震える。
小型モンスターたちの動きが、一瞬止まった。
ドン。
今度ははっきりと聞こえた。
重い足音。
左通路の奥で聞いた、あの音に似ていた。
俺の背中に冷たい汗が流れる。
乗客たちはまだ気づいていない。
出口候補の光へ向かうことだけで精一杯だ。
ドン。
暗がりの奥で、大きな影が動いた。
まだ姿は見えない。
けれど、あの質量だけは分かる。
小型ではない。
最初に左通路の奥で遭遇した、あの大型の気配。
俺は白球を前へ出し、黒球を手元へ引き寄せた。
肩の痛みが熱を持っている。
呼吸も乱れている。
それでも、目を逸らせなかった。
乗客たちは出口候補の目前にいる。
俺がここで崩れれば、全部が崩れる。
まだ終わっていない。
俺は白球と黒球を構え直し、暗闇の奥を睨んだ。




