17話 生還
重い足音が、空洞の奥から近づいてくる。
ドン。
床が震える。
穴の下にいた小型モンスターたちが、一斉に動きを止めた。
まるで、もっと大きなものに場所を譲るみたいに。
俺は白球を前へ出した。
光が暗闇の奥を照らす。
そこに、巨大な影があった。
左通路で聞いた足音。
別グループを負傷させた大型モンスター。
その本体が、ようやく姿を現した。
岩のような肩。
長い腕。
獣に似た頭部。
小型モンスターとは比べものにならない圧が、空洞全体を押し潰す。
乗客たちの動きが止まりかけた。
出口候補の光は、もうすぐそこにあるのに。
俺は息を吸う。
戦えるのか。
倒せるのか。
その問いが浮かんだ瞬間、視界に文字が走った。
戦闘継続
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
撤退
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
黒球を囮にする
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
答えは、はっきりしていた。
戦うな。
倒そうとするな。
逃げろ。
分かっている。
分かっているのに、悔しさが胸を刺した。
ここまで来た。
白球と黒球で戦った。
何体も小型モンスターを押し返した。
乗客たちをここまで連れてきた。
だから、最後も戦えるんじゃないか。
一瞬だけ、そんな考えが浮かんだ。
けれど、すぐに握り潰す。
勝つことが目的じゃない。
全員を外へ出すことが目的だ。
ここで大型モンスターと正面からぶつかれば、俺だけでなく後ろの全員が巻き込まれる。
俺は黒球を短剣の形にした。
手元ではなく、大型モンスターの左側へ飛ばす。
刃先を石床に擦らせ、火花のような光を散らした。
大型モンスターの顔が、黒球の方を向く。
反応した。
その瞬間、俺は白球を反対側へ振る。
光弾を撃つ。
直撃は狙わない。
床を撃ち、壁を撃ち、音と光で視線を散らす。
大型モンスターが低く唸った。
空洞の空気が震える。
小型モンスターたちも、その動きに合わせてざわついた。
「止まらないでください! 出口へ!」
俺は叫んだ。
三崎さんがすぐに反応する。
「進め! 久遠さんを見るな! 前を見ろ!」
その声で、乗客たちが再び動き出す。
母親が男の子を抱えるようにして進む。
芹沢さんがその横につき、高齢の男性の前を空ける。
負傷した男性は顔を歪めながらも、若い乗客に支えられて足を進めていた。
結界札の光は薄くなっている。
もう長くは保たない。
大型モンスターが踏み出した。
一歩で距離が詰まる。
俺は黒球をさらに奥へ走らせた。
短剣の刃を大きく振る。
当てる必要はない。
大型モンスターの視界の端をかすめればいい。
だが、遠くへ飛ばした黒球を維持するだけで、頭の奥が割れそうになる。
白球も動かしている。
二つを同時に操る。
十年間、シミュレーターでやってきたことだ。
それでも本物は違う。
足元は崩れている。
肩は痛い。
息は乱れている。
黒球が大型モンスターの爪をかすめた。
弾かれそうになる。
俺は魔力を流し込み、無理やり軌道を立て直した。
指先が痺れる。
視界が一瞬だけ揺れた。
白球を撃つ。
光弾が大型モンスターの足元で弾ける。
大型モンスターが吠え、黒球へ腕を振り下ろした。
黒球を避けさせる。
遅い。
刃の端が巨大な爪に弾かれ、黒い球体が石床を転がった。
胸の奥が冷える。
黒球を失えば、俺の手札は半分消える。
それでも、今は回収に走れない。
視界に表示が浮かぶ。
黒球回収
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
黒球を囮継続
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
撤退開始
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は歯を食いしばった。
黒球を戻したい。
壊したくない。
十年間持ち続けた武器だ。
初めてダンジョンで俺を戦わせてくれた相棒だ。
だが、今は俺の未練より全員の命が優先だった。
黒球へ魔力を流す。
短剣ではなく、黒い球体のまま床を跳ねさせる。
大型モンスターの足元を横切らせた。
大型モンスターが反応する。
腕を振る。
石床が砕ける。
その隙に、俺は後退した。
白球で小型モンスターを牽制しながら、出口候補へ向かう。
足が重い。
肺が焼ける。
肩の痛みが遅れて強くなる。
それでも止まらない。
出口の光の手前で、三崎さんが振り返っていた。
「久遠さん! 早く!」
「先に出てください!」
「でも!」
「出ろ!」
自分でも驚くほど強い声だった。
三崎さんは一瞬だけ顔を歪め、母親たちを押し出すように光の方へ向かわせた。
一人。
また一人。
乗客たちが光の中へ入っていく。
母親と男の子。
高齢の男性。
負傷した男性。
芹沢さん。
最後に三崎さんが、こちらを見た。
俺は白球を振り、近づく小型モンスターの前に光弾を落とす。
「行ってください!」
三崎さんが歯を食いしばって、光の中へ消えた。
残ったのは俺だけだった。
大型モンスターが黒球を追っていた顔を、こちらへ向ける。
気づかれた。
黒球の動きが鈍っている。
もう魔力がきつい。
白球も黒球も、同時に維持するのが限界に近い。
視界に表示が浮かぶ。
戦闘継続
リスク:高
リターン:低
期待値:非推奨
撤退
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
黒球を囮にして撤退
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺は黒球を大型モンスターの正面へ走らせた。
黒い影が床を跳ねる。
大型モンスターの腕がそちらへ向かう。
その一瞬でいい。
俺は白球を自分の前へ引き寄せ、足元を照らした。
崩れた床の縁を越え、出口候補の光へ走る。
背後で轟音が鳴った。
大型モンスターの腕が石を砕いた音だ。
黒球から返ってくる感覚が、一瞬途切れかける。
戻れ。
そう思った。
けれど足は止めなかった。
止めたら終わる。
俺だけではない。
ここまでの全部が終わる。
出口候補の光が視界いっぱいに広がる。
熱も冷たさもない。
ただ、白い光だった。
最後の一歩を踏み込む瞬間、黒球を手元へ引き戻す。
完全ではない。
軌道は乱れている。
それでも、黒い球体が視界の端でこちらへ戻ってくるのが見えた。
俺は手を伸ばしながら、光の中へ飛び込んだ。
音が消えた。
体が浮いたような感覚。
次に、硬い地面へ膝をついた。
肺に冷たい空気が入ってくる。
眩しい。
青白い鉱石の光ではない。
人工灯の白い光。
顔を上げると、そこは線路脇の非常退避区域だった。
遠くでサイレンが鳴っている。
反射ベストを着た人たちが走っている。
警察。
救急隊。
探索者協会の職員。
泣き崩れる乗客たち。
抱き合う親子。
地面に座り込む三崎さん。
芹沢さんは口元を押さえながら、こちらを見ていた。
俺は息を吐こうとして、うまく吐けなかった。
肩の痛み。
足の震え。
魔力を使いすぎた頭痛。
全部が一気に押し寄せる。
白球が俺の横に落ちる。
黒球も遅れて転がり、俺の足元で止まった。
戻ってきた。
そう思った瞬間、力が抜けた。
誰かが俺に駆け寄ってくる。
声が聞こえる。
何を言っているのか、すぐには分からなかった。
母親が、男の子を抱いたまま泣いていた。
男の子は俺を見て、何かを言おうとしている。
三崎さんが地面に手をつき、何度も息を吐いている。
助かった。
その事実だけが、遅れて胸の奥に落ちてきた。
全員ではない。
負傷者もいる。
戻れなかった人もいるかもしれない。
それでも、俺が導いた人たちは、ここにいる。
暗いダンジョンの中ではなく、外の光の下にいる。
俺は非常退避区域の床に座り込んだまま、白球と黒球を見た。
十年間、一度もダンジョンに入れなかった。
その最初のダンジョンで、俺は戦った。
逃げた。
守った。
そして、生きて帰った。




