15話 最後の障害
崩れた床の下で、複数の影がうごめいていた。
白球の光を落とすと、暗がりの中で小さな目がいくつも反射する。
小型モンスターだ。
穴の底だけではない。
崩落した床の向こう側にも、何体かが徘徊している。
出口候補へ続く光は、そのさらに奥にあった。
近い。
けれど、近いだけだった。
そこまでの道が、安全とは限らない。
むしろ、出口が見えたからこそ、ダンジョンは最後の罠を置いているように見えた。
乗客たちは声を失っていた。
さっきまであった希望が、穴の底へ落ちたみたいだった。
母親は男の子を抱きしめ、高齢の男性は壁に手をついている。
負傷した男性は、歯を食いしばって立っていた。
ここまで歩いてきただけでも限界に近いはずだ。
それでも、目の前に出口候補があるから、座り込むこともできない。
三崎さんが穴の向こうを見ながら、低く言う。
「……あれを抜けないと、出られないんですよね」
俺はすぐには答えられなかった。
白球を少し高く浮かせ、空洞全体を照らす。
床の崩落で、直線の道は消えている。
完全に通れないわけではない。
左右の壁沿いに、細い足場が残っている。
けれど、そこを全員で渡るには危険すぎた。
小型モンスターの群れは、穴の下と出口候補の手前に散っている。
今はまだ、こちらへ一斉に向かってきてはいない。
だが、音を立てれば集まる。
ここで走れば、誰かが落ちる。
ゆっくり進めば、モンスターに追いつかれる。
どちらにしても、負傷者と子供を連れて突破するには厳しい。
視界に表示が浮かぶ。
正面突破
リスク:高
リターン:高
期待値:非推奨
時間をかけて迂回
リスク:中
リターン:中
期待値:有効
結界札使用
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
オルタナで囮になる
リスク:高
リターン:高
期待値:保留
俺はその表示を見つめた。
結界札。
十三話で手に入れた、あの防御用の札。
鞄の内側に入れてある。
三枚。
一定時間だけ、小さな範囲を守れる探索者用の道具。
俺は札を取り出し、手の中で確認した。
薄い金属と符紙を重ねたような札。
刻まれた術式は、白球の光を受けてかすかに浮かび上がる。
芹沢さんがそれを見て、息を呑んだ。
「さっきの札……使えば、みんなを守れるんですか」
「守れます。ただ、万能ではありません」
俺は札を見つめたまま答えた。
広い範囲を覆えるわけではない。
長時間保つわけでもない。
使えるのは、小さな範囲を短時間だけ守る程度。
子供や負傷者を一時的に守ることはできる。
だが、全員を出口まで安全に包んで運べる道具ではなかった。
三崎さんが唇を噛む。
「じゃあ、これだけじゃ足りないんですね」
「はい。モンスターが一斉に寄ってきたら、結界札だけでは止めきれません」
言葉にした瞬間、部屋の空気が重くなった。
出口候補は見えている。
守る札もある。
それでも足りない。
あと一つ、必要なものがある。
モンスターの注意をそらす役だ。
視界の表示が、再び頭に浮かぶ。
オルタナで囮になる
リスク:高
リターン:高
期待値:保留
推奨ではない。
非推奨でもない。
保留。
成功するかもしれない。
失敗するかもしれない。
能力ですら、はっきり背中を押さない選択肢。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
囮になる。
つまり、モンスターの視線を自分へ向けるということだ。
白球で牽制し、黒球で進路を塞ぐ。
俺がモンスターを引きつけている間に、乗客たちを出口候補へ進ませる。
理屈では分かる。
だが、体が拒んでいた。
小型モンスター一体を倒しただけで吐きそうになった。
あの感触は、まだ手に残っている。
今日まで、俺は会社員だった。
十年間、ダンジョンに入るかどうかすら決められなかった男だった。
数時間前まで、通勤電車で配信を見ていただけだった。
そんな俺が、今は囮になるかどうかを考えている。
自分でも、現実感がなかった。
母親が男の子を抱きしめたまま、震える声で聞く。
「ほかに、方法はないんですか」
俺は答えに詰まった。
ない、と言い切るのは怖かった。
ある、と言える根拠もなかった。
時間をかけて迂回する選択肢はある。
だが、そこにもリスクがある。
体力が残っていない人たちをさらに歩かせることになる。
正面突破は非推奨。
結界札だけでは足りない。
なら、残るのは限られていた。
三崎さんが俺の顔を見た。
「久遠さん、まさか」
その言葉を聞いて、俺はようやく自分がどんな顔をしているのか理解した。
もう、答えが出かけている顔だ。
怖いのに、逃げられない顔だ。
芹沢さんが小さく首を振る。
「一人で引きつけるつもりですか。危険すぎます」
危険。
その通りだ。
表示もリスク高と言っている。
けれど、リターンも高い。
全員が出口候補へ近づける可能性がある。
俺が前へ出れば、結界札の効果を最大限に使えるかもしれない。
俺は白球と黒球を見る。
十年間、使えなかった武器。
今日、初めて本物のダンジョンで動かした武器。
白球は遠距離からモンスターを牽制できる。
黒球は近づく敵の進路を遮れる。
完璧ではない。
俺自身も、完璧ではない。
むしろ未熟だ。
実戦経験は、今日が初めてだ。
それでも、ここにいる中では俺が一番モンスターに対応できる。
それを認めるしかなかった。
強いからではない。
他に選べる人がいないからだ。
そして、俺には選択肢が見えている。
リスクが見えている。
怖い。
足は震えている。
でも、ここで誰かに代わってくれとは言えなかった。
俺は結界札を三崎さんへ一枚渡した。
「これは、子供と負傷者を守るために使ってください。使うタイミングは俺が合図します」
三崎さんは札を受け取りながら、顔を強張らせた。
「久遠さんは、どうするんですか」
俺は穴の下のモンスターを見る。
暗がりの中で、何体もの影がこちらを見上げていた。
出口候補の光は、その奥で静かに揺れている。
胸の奥で、何かが冷たく固まっていく。
覚悟というほど綺麗なものではない。
ただ、もう逃げ道を選べないと分かっただけだ。
俺は白球を前へ出した。
黒球が手元で短剣の形を取る。
魔力が指先から流れ、二つの球が静かに反応する。
「俺が引きつけます」
言った瞬間、乗客たちが息を呑んだ。
母親が目を見開く。
芹沢さんが一歩前へ出ようとした。
「待ってください。それは……」
俺は首を横に振った。
「結界札だけでは足りません。誰かが注意を引かないと、全員が出口候補まで進めない。俺が白球と黒球で引きつけます」
三崎さんが拳を握る。
「一人でやる気ですか」
「一人で全部倒すわけじゃありません。引きつけるだけです。全員を通す時間を作ります」
言葉にしながら、自分に言い聞かせていた。
倒す必要はない。
勝つ必要もない。
必要なのは、時間を作ること。
乗客たちが動けるだけの数十秒を稼ぐこと。
それだけだ。
それだけのことが、今の俺には恐ろしく重かった。
視界に表示が浮かぶ。
囮役を引き受ける
リスク:高
リターン:高
期待値:保留
結界札と併用
リスク:中
リターン:高
期待値:推奨
俺はその文字を見て、息を吐いた。
一人では保留。
結界札と合わせれば推奨。
なら、やるべき形は見えた。
次は作戦に落とし込むだけだ。
俺は全員を見回した。
疲れ切った顔。
怯えた目。
それでも、出口の光を見ている人たち。
ここまで来た。
もう少しで外へ出られるかもしれない。
そのために、俺が前へ出る。
「次に動く時、俺が先にモンスターを引きつけます。その間に、結界札で守りながら出口候補へ進んでください」
空洞に、誰の声も響かなかった。
ただ、穴の下からモンスターの爪音だけが聞こえていた。
俺は白球と黒球を浮かせたまま、出口候補の光を見据えた。
恐怖は消えない。
震えも止まらない。
それでも、もう後ろには下がらなかった。




