第72話 『毒蜘蛛の捕縛』
王城「白百合の離宮」の最奥。 豪奢な王女の寝室は今、異形の怪物の巣へと変貌していた。
「アアアアアッ!!」
絶叫と共に、ソフィアの身体が弾け飛んだドレスを食い破るように膨張する。 美しい足は融合して肥大化し、硬質な甲殻に覆われた八本の節足へと作り変えられる。背中からは鋭利な棘が生え、艶やかな黒髪は逆立ち、瞳は複眼のように赤く輝き始めた。
王家の血に眠る『【才能【毒蜘蛛の女王】】』の血脈を、禁断の薬物で無理やり覚醒させた姿である。
「……力が、溢れてくるわ」
ソフィアは自身の変貌した姿を見ても動じなかった。むしろ、血管を流れる圧倒的な魔力の奔流に陶酔していた。 今の自分なら、王城の騎士団など紙切れ同然に引き裂ける。 レギオンの幹部さえも殺せるかもしれない。
「見ていなさい、レギオン。私の全てを奪った代償……その命で払わせてあげる」
彼女は窓を突き破り、闇夜へと躍り出た。 目指すはレギオンの隠れ家ではない。まずは王城を脱出し、地方の有力貴族を脅して再起を図るのだ。 半人半蜘蛛の怪物は、重力を無視して壁を垂直に駆け下り、誰もいない裏庭の抜け道――王族専用の緊急脱出路へと滑り込んだ。
◇
王都の地下水路。 王城から続く隠し通路は、腐臭と湿気に満ちていた。 ソフィアは八本の脚を巧みに操り、天井を高速で移動していた。
「(ここを抜ければ、街の外へ出られる……!)」
彼女の計算は完璧だったはずだ。この通路の存在を知る者は、王族と一部の側近のみ。 だが。
「――おやおや。随分と慌てて、どちらへお出かけですかぁ?」
不意に、進行方向の闇から声がかかった。 ソフィアは急停止し、天井に張り付いたまま威嚇音を鳴らす。
「誰ッ!?」 「ただの通りすがりですよん。……と言いたいところですが、貴女をお出迎えに来た案内人です」
闇の中から姿を現したのは、不気味な道化師の仮面をつけた女性だった。 十王【諜】ネモ。 彼女は水路の縁に腰掛け、お手玉をするように短剣を弄んでいる。
「レギオン……! ここが王家の隠し通路だと知っての狼藉!?」 「ウフフ、隠し通路? 私たちの情報網に引っかからない場所なんて、この国にはありませんよぉ」
ネモの嘲笑に、ソフィアの理性が弾け飛んだ。
「死になさいッ!」
ソフィアが口を開く。 ヒュッ! 放たれたのは紫色の液体――触れた瞬間に相手を溶解させる猛毒の酸だ。 狭い水路では回避不可能。直撃コース。
だが、ネモは動かなかった。 酸が彼女の顔面に直撃し、ジュウウウ! と肉が焼ける音が響く。
「……口ほどにもない。所詮は道化ね」
ソフィアが勝利を確信して鼻を鳴らした、その時だ。 溶けたはずのネモの顔が、ゆらりと揺らぎ――霧のように晴れた。
「――幻ですよ?」
声は背後から聞こえた。 驚愕して振り返るソフィアの視界に、もう一人の人影が映る。 闇色のメイド服を纏い、【黒曜石の短剣】を持った少女。 その身から放たれる圧倒的な魔圧は、先ほどの道化師とは次元が違う。
レギオン最高幹部・四天が一角、【幻影の死神】チェルシー・エバンズ。
「私の【幻影回廊】の中では、上下左右も、敵の位置も、貴女自身の痛みさえも……全てはあやふやな夢に過ぎません」 「四天……!? 最高幹部が、なぜこんな薄汚い場所に!」
ソフィアは戦慄した。十王クラスならまだしも、天災にも匹敵する【|準天災級セミ・カタストロフ】ランクの怪物が待ち伏せているなど想定外だ。 彼女は壁を蹴り、チェルシーへと殺到する。 その鋭利な前脚は、岩盤をも粉砕する威力がある。 だが、彼女の攻撃は全て空を切った。 【黒曜石の短剣】を振るう少女も、笑う道化師も、斬っても斬っても霧のように消え、また別の場所から現れる。
「なぜ……なぜ当たらないのッ!?」 「目が多いくせに、何も見えていないんですねぇ」
ネモの声が四方八方から響く。
「貴女は『毒蜘蛛』を名乗っていますが……本物の蜘蛛の前では、ただの羽虫に過ぎませんよ」
挑発。 焦燥。 ソフィアは闇雲に糸を吐き散らし、酸を撒き散らした。水路の壁が溶け、崩落していく。 その滅茶苦茶な暴れ方は、もはや策士の面影もない、ただの獣の足掻きだった。
「チェックメイトです」
冷淡な声と共に、ソフィアの足元の影が、突如として実体を持って彼女の八本の脚を絡め取った。
「なッ……!?」 「影縫い。……捕まえました」
チェルシーが鎌の柄で地面を叩く。 動けないソフィアの背後から、実体を持ったネモが音もなく忍び寄り――その首筋に、冷たい何かを押し当てた。
「おやすみなさい、王女様♡」
バチバチバチッ!! 強力な雷撃魔法が流し込まれる。 Aランク相当の肉体を持つソフィアでさえ、脊髄を直接焼く衝撃には耐えられない。
「あ、が……ッ……」
ソフィアの意識が暗転し、巨大な蜘蛛の身体が痙攣して崩れ落ちた。 変異が解け、ボロボロになった人間の姿へと戻っていく。
◇
「……う、ん……」
ソフィアが意識を取り戻した時、彼女は既に自由を奪われていた。 手足は背中で強固に拘束され、口には猿轡。 そして何より、視界が完全に閉ざされていた。厚手の布で目隠しをされ、さらに魔法的な闇で視覚を遮断されている。
(ここは……どこ? 水路の臭いがしない……)
肌に感じる空気は冷たく、そして異様なほどに濃い魔素を含んでいる。 恐怖で心臓が早鐘を打つ。
「お目覚めですか、ソフィア殿下」
耳元で、あの道化師の声が囁いた。 ソフィアはビクリと身体を震わせ、逃れようともがくが、拘束はピクリとも緩まない。
「暴れないでくださいなぁ。貴女はこれから、とても偉大な御方の前へ連れて行かれるのですから」 「んーッ! んんーッ!」(離しなさい! 無礼者!)
ソフィアのくぐもった叫びを無視し、ネモはパチンと指を鳴らした。
「座標固定。……『深淵の謁見』へ」
その言葉と共に、ソフィアの全身に浮遊感が襲いかかった。 地面が消え、内臓が裏返るような不快な感覚。 空間転移。 それも、短距離の跳躍ではない。次元の壁を超え、物理的に隔絶された場所へと引きずり込まれる感覚だ。
(転移魔法!? 私をどこへ連れて行く気……!)
問いかける暇もなかった。 世界が反転し、彼女の身体は光の粒子となって王都の地下から消失した。
絶対的な力によって「座標」ごと拉致される。 目隠しをされたソフィアが次に足をつける場所は、地上のどこにも存在しない、毒蜘蛛たちの真の巣――『地下宮殿』の最奥だった。
本日もお読みいただきありがとうございます。
ソフィア王女、変身しての強行突破を図りましたが……相手が悪すぎました。 レギオンの中でも特に「捕縛」と「搦め手」を得意とするコンビの前では、単純な物理攻撃など当たるはずもありません。
そしてラストは強制転移による連行。 目隠しをされたまま、自分の知らない場所へ一瞬で連れ去られる恐怖。 彼女が連れて行かれた先で待っているのは……もちろん、あの「Fランク少年(魔王)」です。
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続きます。




