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第70話 『王女の招待状』

王都ゼノリスの下町、その一角にある『レギオン・蜘蛛(アラクネ)』王都支部。


かつては市民の相談所として賑わっていたその建物は今、殺伐とした空気に包まれていた。 市民からの投石によって窓ガラスは無残に割られ、急場しのぎのベニヤ板で塞がれた隙間からは、外の冷たい風と、民衆の敵意を含んだ視線が入り込んでいる。


薄暗い室内。 その澱んだ空気を、雷鳴のごとき怒号が物理的に震わせた。


「――不敬にも程があるッ!!」


ドォンッ!!


木製の頑丈なテーブルが、上から叩きつけられた拳によって粉々に砕け散った。 木片が飛び散り、床板がきしむ。


吠えたのは、燃えるような赤い髪を逆立てた巨漢。 レギオン・蜘蛛(アラクネ)の象徴にして、表の支配者であるレギオンマスター、アレス・ランバートだ。


「たかが人間の王族風情が! 腐りきった国のふざけた小娘が!  あろうことか、始祖(オリジン)たる我が主を『お茶会』になど呼びつけるとは! 身の程を知れというのだ!」


アレスの全身からは、怒りのあまり紅蓮(ぐれん)の炎が漏れ出している。 その熱量は尋常ではなく、床の絨毯がジリジリと焦げ、部屋の温度が急上昇していく。 彼の背後には、陽炎(かげろう)のように揺らめく怒りのオーラが立ち昇り、周囲の空気を歪ませていた。


「アレス、落ち着きなさい。……建物が燃えるわ」


冷ややかな声で(たしな)めるのは、聖女の法衣を纏った美女、ミラである。 彼女は優雅に紅茶を啜っているが、そのカップを持つ手は微かに震え、美しい青い瞳の奥には絶対零度の殺気が渦巻いていた。


「でも、確かに不愉快ね。……あの女狐、シン様を『手駒』として取り込むつもりよ。  私たちの愛する主を、あろうことか自分のスパイとして利用しようだなんて……。  主の御身に触れようとするその手、切り落として浄化してあげましょうか? いえ、その汚らわしい舌ごと引き抜いて、聖なる炎で焼いて差し上げましょう」


「同感だ。……俺がこの手でひねり潰してやる」


部屋の隅で腕を組んでいた鋼鉄の巨漢、ボルトスもまた、岩石のような低い声で同意する。 彼の足元の床石は、ただ立っているだけで放たれる重圧に耐えきれず、蜘蛛の巣状にひび割れていた。


幹部たちの激昂。 それは単なる怒りではない。 自分たちが神と崇める絶対者に対し、地を這う虫ケラが対等な口を利いたことへの、生理的な嫌悪と信仰心ゆえの憤怒だった。


だが、その殺気渦巻く中心で、当のシンは――楽しげに笑っていた。


「まあ待て。そう青筋を立てるな」


シンは、ソフィアから送られてきた黒い封筒をヒラヒラと振って見せた。 安物の椅子に座り、ボロボロの服を着たFランク冒険者の姿。 だが、その瞳だけは、周囲のSランク幹部たちを従える王者の余裕を湛えている。


「しかし、主よ! これは明らかな罠です!  『お茶会』などと称して主を呼び出し、人質にするか、あるいは洗脳魔法をかけるつもりでしょう!  そのようなふざけた誘いに、ノコノコと出向いてやる義理など……!」


アレスが食い下がる。 主を危険に晒すこと、それ自体が彼らにとっては最大の禁忌なのだ。


「罠だからこそ行くんだよ」


シンは封筒から取り出した招待状に目を落とす。 最高級の羊皮紙に、金粉を混ぜたインクで書かれた流麗な筆記体。 そこには、『迷える子羊のような貴方に、救いの手を差し伸べたい』などと、虫唾が走るような甘言が並べられていた。


「ソフィア王女は、俺を『レギオン・蜘蛛(アラクネ)という暴力装置に怯える、哀れなFランク少年』だと思い込んでいる。  俺がアレス、お前の威圧にビクビクし、こき使われている可哀想な子供だと信じているんだ。  ……最高の配役じゃないか」


シンは口元を歪めた。 相手が自分を「弱者」だと侮っている時こそ、捕食者にとって最高の狩り場となる。


「はぁ……。主の『悪趣味』が始まりましたね」


ミラが呆れたように溜息をつく。 主がこう言い出したら、もう誰にも止められないことを彼女は知っていた。


シンは立ち上がり、壁に掛けられた姿見の前へ歩み寄った。 そして、鏡の中の自分に向かって、スッと表情を変えた。


肩をすくめ、視線を泳がせ、背中を丸める。 指先を小刻みに震わせ、口元を引きつらせる。 そこから発せられる覇気(オーラ)は皆無。どこからどう見ても、路地裏で明日の食事に怯える、無力な小市民の姿だ。


「……完璧だ」


シンは満足げに頷いた。


「俺はこれより、ソフィア王女に招かれた『弱者』として王城へ向かう。  ……アレス、お前たちは絶対に手を出すなよ? 俺が戻るまで、大人しく留守番していろ」


「ぐぬぬ……! ぎ、御意に!」


アレスは悔しげに拳を握りしめ、深々と頭を下げた。


「ミラ、お前はネモと連携して、俺が持ち帰る『手土産』を受け取る準備をしておけ」


「手土産、ですか? あのような女狐から?」


「ああ。きっと王女様は、俺と連絡を取り合うための『首輪』をくれるはずだ。  ……その首輪が、自分の首を絞めることになるとも知らずにな」


シンは道化師のように口の端を吊り上げると、虚飾(ヴァニティ)の仮面を被り直し、静かに支部を後にした。



王都ゼノリスの中枢、王城「白亜の宮殿」。 その北側に位置する「白百合の離宮」は、第二王女ソフィア・ゼノリスの私的な領域である。


手入れの行き届いた広大な庭園には、季節の花々が咲き乱れ、甘い香りが漂っている。 だが、植物に詳しい者が見れば、その庭の異様さに戦慄するだろう。


紫色のトリカブト、鈴のようなジギタリス、鮮やかなキョウチクトウ。 そこに植えられているのは、美しい外見の下に致死性の毒を隠し持った「毒草」ばかりなのだから。 それは、この庭の主の本性を、何よりも雄弁に物語っていた。


「――ようこそいらっしゃいました、シン様」


庭園の中央、白亜のガゼボ(西洋風の東屋)で待っていたのは、漆黒のドレスに身を包んだソフィアだった。


艶やかな黒髪を結い上げ、喪服のようなドレスを着こなす彼女は、夜の闇から抜け出してきたような妖艶な美しさを放っている。 彼女は立ち上がり、王族とは思えぬほど親しげな笑みを浮かべて、シンを出迎えた。


「は、はい……! あ、あの、お、お招きいただき、ありがとうございます……!」


シンはガチガチに緊張した様子で、深々と頭を下げた。 視線は定まらず、手は所在なさげに服の裾を握りしめている。 額には冷や汗を滲ませ、呼吸も浅い。


その姿を見て、ソフィアは内心で確信し、優越感に浸った。


(……間違いないわ。この子、完全に『飲まれて』いる)


SランクやAランクの化け物揃いのレギオン・蜘蛛(アラクネ)の中で、唯一のFランク。 兄とされるアレスの暴力的な威圧感に怯え、血と鉄の臭いに胃を痛める毎日。 そんな「可哀想な少年」の姿が、ソフィアの目にはありありと映っていた。


「楽になさって。ここは私のプライベートな庭ですもの。  誰も貴方を傷つけたりしないわ。……怖がらなくていいのよ?」


ソフィアは自らの手でポットを持ち、シンに紅茶を注いだ。 湯気と共に、甘い香りが立ち昇る。 もちろん、毒など入っていない。今の段階では、彼を殺すよりも生かして利用する方が、遥かに利益になるからだ。


「……おいしい……」


シンはカップを両手で包み込むように持ち、一口啜って呟いた。


「ふふ、良かったわ。  ネメシスでは、こんな静かな時間は過ごせないでしょう? あそこは、鉄と怒号の街ですものね」


ソフィアの言葉に、シンはビクリと肩を震わせ、俯いた。


「……は、はい。あそこは……毎日、魔物の叫び声とか、アレス兄さんが……ううん、アレス団長が怒鳴り散らす声ばかりで……。  昨日も、失敗した部下が……僕の目の前で……殴られて……」


シンは声を震わせ、恐怖を思い出すように体を抱いた。


「可哀想に。……怖いのね? あの野蛮な男たちが」


「こ、怖いです……!  僕、戦いなんて嫌いなのに……無理やり荷物持ちをさせられて……。  逃げようとしたら、『逃げたら殺すぞ』って、剣を突きつけられて……!」


シンの迫真の演技。目尻には涙さえ浮かんでいる。 その言葉は半分が事実(アレスの言動)だが、文脈は完全に捏造されている。 だが、レギオンの暴虐さを信じ込んでいるソフィアにとって、それは「やはりそうか」という確信を深める材料でしかなかった。


「なんて酷い……。実の弟にそこまで……。  許せないわ。そんな野蛮な獣たちが、この国を支配しようとしているなんて」


ソフィアは同情の色を浮かべながら、テーブル越しにシンの手に、自らの白く細い手を重ねた。


「もう大丈夫よ。私が貴方を守ってあげる」


甘い、甘い毒の囁き。 王女という権威と、女性としての魅力を武器にした、完璧な籠絡。


「私はね、この国の惨状を憂いているの。  兄様たちは無能で、レギオン・蜘蛛(アラクネ)のような無法者がのさばっている。  ……このままじゃ、貴方のような罪のない人々が犠牲になってしまうわ」


「そ、そんな……」


「だから、力を貸して欲しいの。シン」


ソフィアは真っ直ぐにシンの瞳を見つめた。 それは慈愛の目ではない。支配者が、所有物となるべき被支配者を絡め取る時の、冷徹な計算の目だ。


「貴方はレギオン・蜘蛛(アラクネ)の内部にいる。  幹部たちの会話を一番近くで聞ける立場にあるわ。……その情報を、私に教えてくれないかしら?」


「えっ……!?」


シンは驚いたように顔を上げた。


「僕が……スパイを……? で、でも、バレたら殺されます……!」


「大丈夫よ。誰にも気づかれないように、私たちが守るわ。  難しいことじゃないの。『次の作戦はどこか』『資金はどこに隠しているか』……あるいは『幹部たちの弱点』とか。  ……ほんの少しの情報をくれるだけでいいの」


ソフィアは身を乗り出し、シンの耳元で囁いた。


「そうすれば、私がレギオン・蜘蛛(アラクネ)を浄化して、貴方を自由にしてあげる。  莫大な報奨金と、貴族の位を用意してもいいわ。……もう二度と、あんな野蛮な連中に怯えなくて済むのよ?」


シンは逡巡するように視線を彷徨わせた。 恐怖と、自由への渇望。二つの感情の間で揺れ動く少年の葛藤。 やがて、彼は決心したように顔を上げた。


「……本当に、僕を助けてくれますか? 兄さんたちから、逃がしてくれますか?」


「ええ、王家の名にかけて誓うわ」


「……わかりました。僕で良ければ、協力します」


かかった。 ソフィアは歓喜の笑みを隠し、胸元から一つのアクセサリーを取り出した。 青白い宝石が埋め込まれた、銀のイヤーカフだ。


「ありがとう、シン。……これを持っていて」


「これは?」


「『対話の魔石(ウィスパー・ストーン)』よ。  離れた場所にいても、私とだけ会話ができる魔道具。この国でも数個しかない、貴重なものよ。  ……レギオン・蜘蛛(アラクネ)の人たちには内緒で、これを耳につけておいて。  何か分かったら、すぐに私に知らせるのよ」


シンはそれを受け取ると、宝物のように胸に抱いた。


「ありがとうございます、王女様……! 僕、頑張ります!  必ず、役に立ってみせます!」


「ええ、期待しているわ。……私の可愛い小鳥さん」


ソフィアは微笑み、シンの頭を撫でた。 その指先は、愛玩動物を愛でる飼い主のそれだった。



一時間の茶番――いや、お茶会を終え、シンはレギオン・蜘蛛(アラクネ)支部へと帰還した。


自室に戻り、扉を閉めた瞬間。 怯えた少年の表情は、氷のように冷徹な無表情へと切り替わる。 背筋が伸び、纏う空気が一変する。


「……ククッ。安い芝居だったな」


シンは掌の上にある『対話の魔石(ウィスパー・ストーン)』を放り投げ、空中で弄んだ。


「ネモ、いるか?」


「はぁい、主よ。ずぅっと見ておりましたよん」


部屋の隅、影の中からネモがぬらりと現れる。 道化師の仮面の下で、彼女はクスクスと笑っていた。


シンは魔石を彼女へと投げ渡した。


「回線は繋がった。ソフィア王女ご希望の『直通パイプ』だ」


「ウフフ……。哀れな王女様。  自分から『偽情報』を流し込まれる管を、わざわざ最高級の魔道具で繋いでくださるなんて」


ネモが魔石を愛おしげに撫でる。


「ああ。この魔石を使えば、俺たちはソフィアの行動を完全にコントロールできる」


シンは椅子に深く腰掛け、愉悦に瞳を細めた。


「レギオン・蜘蛛(アラクネ)が次に狙う場所、資金の移動ルート、幹部の弱点……。  彼女が欲しがる情報を、全て『嘘』で塗り固めて流せ。  もっともらしく、彼女が飛びつきそうな、甘い毒入りの餌をな」


「御意に。……どのタイミングで破滅させますか?」


「まだだ。十分に踊らせろ。  彼女が情報を信じ込み、『勝った』と確信し、全ての兵力を動かした時こそが……最高の狩りの時間だ」


シンは指先で虚空を弾く。


「さあ、始めようか。毒蜘蛛と道化、最後に笑うのが誰なのかを」


王女から与えられた「首輪」。 だが、その鎖の端を握っているのは、王女ではなくシンの方だった。


二重スパイ・シン。 彼の暗躍により、ソフィアが描いた完璧な計画は、その根底から腐り落ちようとしていた。


王都の空に、一番星が輝き始める。 それは、毒蜘蛛の罠にかかった獲物を嘲笑うかのような、冷たい光だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


ソフィア王女……完全に信じ込んでしまいましたね(笑)。 シンの「怯えるFランク小市民」の演技力は、ある意味で最強のスキルかもしれません。 これでソフィアは「レギオンの内部情報を握った」つもりになっていますが、流れてくる情報は全てシンがコントロールする「偽情報」です。 彼女が勝利を確信して兵を動かした時が、破滅の始まり……。


ここから、ソフィア王女への強烈なカウンター(ざまぁ展開)の準備が整いました。 知略を誇る彼女が、自分の策に溺れていく様子を、是非最後まで見届けてやってください。


ここまで読んで「面白い!」「ソフィアの今後が楽しみ!」「シンの演技ワロタw」と思っていただけましたら、 ブックマーク登録と、下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、更新のモチベーションが爆上がりします!


明日も更新します。

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