第69話 『見えざる毒牙』
その「毒」は、誰の目にも見えない形で、静かに、しかし確実にゼノリス王国の血管を蝕み始めていた。
王都ゼノリスと、南の迷宮都市ネメシスを繋ぐ主要街道。 普段ならば多くの行商馬車が行き交い、大陸中から集められた物流の大動脈として賑わうその場所は今、殺伐とした鉄と焦げた臭いに包まれていた。
「おい! どういうことだ! なぜ通さない!」
検問所の前で、一人の大柄な商人が顔を真っ赤にして怒声を上げていた。 彼の背後には、数台の荷馬車が列をなしている。荷台には、ネメシス産の高品質な魔石や、サフィナが調合した特効薬魔薬、そして王都では手に入らない貴重な迷宮食材が満載されている。 どれも、食糧難にあえぐ王都の生活を支えるための、命綱とも言える必需品だ。
だが、検問所を塞ぐように展開した王国騎士たちは、冷徹な表情で槍を交差させ、頑として道を譲ろうとしない。
「通すわけにはいかん。王都警備隊の特別命令だ」
騎士の一人が、無機質な声で告げる。 その目は、市民を守る騎士のものではなく、ただ命令を遂行する機械のように冷たい。
「だから、その理由を聞いているんだ! 俺たちは正規の通行手形を持っているんだぞ! 関税だって払う用意はある! この荷物が届かなければ、予約している客たちが……」
「……ネメシス発の荷物には、『未知の病原菌』が付着している可能性がある」
騎士の言葉に、商人は絶句した。
「は……? 病原菌……だぁ?」
「先日の『カイン王子事故死』の件だ。 あの地下施設から漏れ出した毒素が、ネメシスからの流通品に混入している疑いがあるとの報告が入っている。 よって、安全が確認されるまで、レギオン・蜘蛛関連の物資は全て没収・焼却処分とする」
「馬鹿な! そんな話があるか! これは俺たちの全財産なんだぞ! 借金して仕入れたんだ! 燃やすなんて……ふざけるな!」
商人が騎士に掴みかかろうとする。 だが、次の瞬間、騎士の剣が閃いた。 切っ先が商人の喉元寸前で止まり、皮膚を薄く切り裂く。
「黙れ。……これは第二王女、ソフィア殿下の勅命である!」
勅命。 その言葉が出た瞬間、商人は凍りついたように押し黙るしかなかった。 この国において、王族の言葉は絶対の法だ。抗議すれば、即座に反逆罪で処刑される。
「没収だ。燃やせ」
隊長の合図と共に、兵士たちが松明を荷台へと投げ込む。 油を染み込ませた布が燃え上がり、あっという間に炎が荷馬車を包み込んだ。
「あ、ああ……俺の……俺の商品が……!」
商人がその場に崩れ落ちる。 パチパチと音を立てて燃え上がるのは、貴重な薬草や食材だけではない。彼の生活、家族の未来、そして王都の市民たちが待ち望んでいた「明日への希望」だ。
立ち昇る黒煙は、空を灰色に染め上げながら、まるで王都の未来を暗示する狼煙のように高く、高く伸びていった。
◇
物流の遮断は、即座に王都の市民生活を直撃した。
王都ゼノリス、中央市場。 かつては大陸一の賑わいを誇り、どんなものでも手に入ると言われたこの場所は今、重苦しい沈黙と、疑心暗鬼の囁き声に支配された「噂の培養所」と化していた。
棚には商品がなく、空の木箱だけが虚しく積み上げられている。 肉も野菜も、そしてパンを作るための小麦粉さえも、法外な値段に跳ね上がっていた。
「……ねえ、聞いた? 今日のパン、また値上がりしてるわよ」
「小麦が入ってこないらしいな。ネメシスからの便が止まったとか」
「やっぱり、あの噂は本当なのかしら……」
井戸端で水を汲む主婦たちが、怯えたように声を潜めて話しているのは、ここ数日で爆発的に広まった「ある噂」についてだ。
『カイン王子を殺したのは、レギオン・蜘蛛の暗殺部隊だ』 『レギオン・蜘蛛は迷宮の魔物を操り、この国を乗っ取ろうとしている』 『ネメシスから来る物資には、人を狂わせる毒が入っている』
根拠のないデマ。 誰が言い出したかもわからない、悪意に満ちた流言飛語。 だが、物流の停止と物価の高騰という「現実」が、その嘘に奇妙なリアリティを与えてしまっていた。
人は、生活が脅かされると、その怒りの矛先を向ける「敵」を欲しがる生き物だ。 「自分たちが苦しいのは、誰かのせいだ」と思わなければ、やりきれないからだ。
そして今、その矛先は、これまで街の英雄として称えられていた『レギオン・蜘蛛』へと向けられようとしていた。
「おい、見ろよ。あれ……」
男が指差した先。 市場の一角にある『レギオン・蜘蛛王都支部』――レギオンが運営する酒場兼・相談所の看板に、腐った卵や泥が投げつけられ、汚されていた。
数日前までは、依頼を求める市民で行列ができていた場所だ。 魔物退治の依頼、行方不明者の捜索、あるいはただの生活相談。レギオンは親身になって市民の声を聞き、解決してきたはずだった。
だが今は、誰もがその前を通るのを避け、汚らわしいものを見るような目で遠巻きに睨んでいる。
「……怖いねぇ」
「ああ。やっぱり冒険者なんて、野蛮な連中は信用できねぇよ」
「毒を撒いてるって本当なのか? うちの子が病気になったのも、あいつらの薬のせいじゃ……」
不安は伝染し、猜疑心は膨れ上がる。 たった数日。 ソフィアが指先を動かしただけで、レギオン・蜘蛛が地道に築き上げてきた「信用」という城壁は、音を立てて崩れ始めていた。 それは、剣や魔法による攻撃よりも遥かに陰湿で、防ぎようのない「情報の毒」だった。
◇
迷宮都市ネメシス、地下宮殿。
地上での喧騒とは隔絶された、絶対零度の静寂と濃密な魔素に満たされた玉座の間。 そこで、一人の男が深く頭を下げていた。
「――申し訳ございません、我が主。私の不手際です」
豪奢な商人服に身を包んだ、銀髪の美青年。 十王第一席・【商】のジェイドである。 普段は柔和な笑みを絶やさず、どんな商談でも主導権を握る彼だが、今の表情には隠しきれない焦燥と、屈辱の色が浮かんでいた。
「王都における我々の経済活動が、約四割……いえ、五割近く阻害されています。 物流の停止、銀行口座の凍結、そして風評被害による不買運動。……完全に、我々の手足を縛りに来ています」
ジェイドの声には、怒りが滲んでいた。 金と物流こそが彼の武器であり、プライドだ。それを、真正面からではなく、搦め手で封じられたことが許せないのだ。
「ほう」
漆黒の玉座に座るシンは、頬杖をつきながら面白そうに目を細めた。 18歳の魔王の姿。その深紅の瞳は、報告の深刻さとは裏腹に、どこか楽しげな光を宿している。
「ジェイド。お前の力(金)で、検問の騎士や役人を買収することはできないのか? 帝国の将軍ですら金で転んだ。この国の役人など、はした金でどうにでもなるだろう」
「……試みました。ですが、無駄でした」
ジェイドは悔しげに唇を噛む。
「ソフィア王女は、重要なポストの役人や検問の隊長を、全て自身の息のかかった『狂信的な若手』に入れ替えています。 彼らは金では動きません。王女への異常なまでの忠誠と、レギオン・蜘蛛への敵意で洗脳されています。 買収を持ちかけただけで、『汚らわしい』と剣を抜く始末です」
「なるほど。金銭欲ではなく、正義感を利用したか」
シンは感心したように頷いた。 ジェイドの【商】の支配領域は、あくまで「利益」と「欲望」だ。損得勘定で動く相手なら無敵だが、損得を度外視して「正義」や「忠誠」で動く相手には相性が悪い。 ソフィアはそれを見抜き、経済のルールそのものを、政治と権威という暴力で書き換えてきているのだ。
「それに……下手に資金をばら撒けば、『レギオン・蜘蛛が汚い金で国を買おうとしている』という噂の裏付けにされてしまいます。 ……見事な手腕です。こちらの攻撃手段を逆手に取り、こちらの動きを封じている」
ジェイドが拳を握りしめる。 経済戦争において、これほどまでに一方的に追い詰められたのは、彼が若返って以来初めてのことだった。
「クソッ! じれったい! なら、いっそ私が王城に乗り込んで、あの女の首を跳ねてきましょうか!?」
玉座の傍らに控えていたアレスが、炎のような怒気を放って吠える。 真紅の魔鎧がカシャンと鳴り、周囲の空気が熱を帯びる。 主の組織がコケにされていることが、彼には我慢ならないのだ。
「待て、アレス。短絡的すぎる」
シンは片手を上げてアレスを制した。
「今、お前が動けば、それこそソフィアの思う壺だ。 『ほら見なさい、レギオン・蜘蛛は野蛮な暴力集団でしょう?』と宣伝されて終わりだ。 お前の剣は、民衆を守るために振るうからこそ意味がある。民衆を敵に回してしまえば、ただの殺戮者だ」
「ぐっ……しかし、主よ! このままでは……!」
「構わん。泳がせておけ」
シンは玉座から立ち上がり、黒いコートを翻した。 その瞳には、怒りではなく、獲物を値踏みするような昏い光が宿っている。
「面白いじゃないか。 俺たちの圧倒的な『武力』に対し、『情報』と『法』だけで戦いを挑んでくるとはな。 ……カインのような力押しの馬鹿とは違う。彼女は自分の武器を正しく理解し、最大限に活用している」
シンは空中に【幻影の窓】を展開し、王都の地図を映し出した。 赤く染まっていく敵対エリア。包囲網は確実に狭まっている。
「ジェイド。今は耐えろ。表立っての反撃はしなくていい」
「は……しかし、よろしいのですか? このままでは支部の運営資金が……」
「構わん。金ならいくらでもある。 それに、毒は回れば回るほど、解毒した時の『感謝』は大きくなる。 ……ソフィア王女には、せいぜい悪役としての舞台を整えてもらおう」
シンは口元を三日月型に歪めた。
ソフィアは知らない。 彼女が「国を守るため」と信じて行っているレギオンへの弾圧が、結果として民衆を疲弊させ、既存の王家への不満を限界まで蓄積させていることを。 物流を止めれば、苦しむのはレギオンではなく、末端の市民だ。 そして、その限界点でレギオン・蜘蛛が「真実」を暴き、再び物資を供給すれば――溜まった不満は全て王女への殺意へと反転し、レギオンへの信仰は揺るぎないものとなる。
「それに……そろそろ『招待状』が届く頃だろう?」
「招待状、でございますか?」
「ああ。彼女は俺たちを『野蛮な獣』だと思っている。 ならば、その獣を飼い慣らすための『首輪』を探しに来るはずだ。 組織の幹部ではなく、もっと御しやすそうな、弱みになりそうな『弱点』をな」
シンは王都の方角を見据え、ククク、と喉を鳴らした。
「教育してやろう。蜘蛛の巣の主が誰なのかをな」
◇
翌日。
王都ゼノリスの下町にある、レギオン・蜘蛛支部。
かつては冒険者たちで賑わっていたその場所も、今は閑古鳥が鳴いている。 市民からの投石で窓ガラスが割れ、壁には誹謗中傷の落書きがされ、殺伐とした空気が漂っている。
その荒れ果てた支部の前に、場違いなほど豪奢な馬車が横付けされた。 王家の紋章である「白百合」が刻印された、黒塗りの馬車。 降りてきたのは、燕尾服を着た初老の執事だ。白手袋をはめた手には、一通の封筒が握られている。
「……レギオン・蜘蛛所属、シン殿とお見受けする」
執事は、支部の入り口を箒で掃除していた黒髪の少年に声をかけた。 ボロボロの服を着て、煤で汚れた顔をした少年。 Fランク冒険者を演じているシンは、ビクッと肩を震わせて振り返る。
「は、はい……! 僕がシンですが……な、何か……?」
怯えた上目遣い。 背中を丸め、視線を泳がせる、完璧な「弱者」の演技だ。
執事はその様子を見て、微かに侮蔑の笑みを浮かべた。 (なるほど。報告通り、ただの雑用係か。……これなら、殿下の玩具には丁度いい)
執事は内心の嘲笑を隠し、恭しく封筒を差し出した。 漆黒の封蝋で閉じられた、高級紙の封筒。 そこには、毒蜘蛛を模した紋章が刻印されていた。
「第二王女、ソフィア殿下より親展でございます。 『明日のお茶会に、是非とも貴殿を招きたい』と」
「えっ……王女様が、僕を……? な、なんで……?」
シンは目を白黒させ、後ずさる。
「僕みたいなFランクに、王女様のご用なんて……」
「ご謙遜を。……貴殿が、あの『紅蓮の獅子』アレス殿の弟君であることは存じ上げております。 殿下は、レギオンの方々と友好を深めたいとお考えなのです。……悪い話ではありませんよ。貴方にとってもね」
執事は意味深な言葉を残し、返事も聞かずに封筒をシンの手に押し付けた。 そして、馬車へと戻り、優雅に去っていく。
残されたシンは、砂埃を上げる馬車を見送りながら、震える手で封筒を握りしめる演技を続けた。
「……」
周囲に誰もいないことを、気配察知で確認する。 次の瞬間。 シンの顔から「怯え」が消え失せ、冷徹な捕食者の笑みが浮かび上がった。
(……来たな。予想通りだ)
シンは封筒の封蝋を指でなぞった。 微かに魔力が込められている。開ければ発信器が作動する仕掛けか。
(俺をアレスの「弱点」だと踏んで、人質に取るつもりか。あるいは、懐柔してスパイにする気か。 ……どちらにせよ、俺を「無力な子供」だと侮ったのが、お前の敗因だ)
シンは封筒を懐にしまった。
(さて、ソフィア王女。 その自信満々の笑顔が、いつまで持つか見物だな。 お前が招いたのは、飼い慣らせる小鳥じゃない。……お前ごと国を食い尽くす、毒蜘蛛だ)
見えざる毒牙。 だが、その牙が噛みついた相手は、毒をも喰らう始祖だった。
毒蜘蛛の招待状は、自らの破滅への招待状となることを、彼女はまだ知らない。 魔王は口笛を吹きながら、荒れ果てた支部の中へと戻っていった。
お読みいただきありがとうございます。
今回はソフィア王女による「レギオン包囲網」でした。 シノのような派手な爆発も怖いですが、物流を止めたり、悪い噂を流したりといった「生活を脅かす攻撃」の方が、一般市民にとっては恐怖だったりしますよね。 ジェイドも商売人としてかなり悔しそうでしたが、シン様にとっては「面白い余興」のようです。
そしてラスト、ついに王女様からシン宛に「招待状」が届きました。 「Fランクの弱そうな少年」として目をつけられたシン。 これはもう、盛大な「勘違い」フラグが立ちましたね(笑)。
ここまで読んで「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、 ブックマーク登録と、下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、更新のモチベーションが爆上がりします!
続きます。




