第198話 第200階層、迷宮の心臓
扉が、呼吸していた。
収縮と膨張。地脈の塊で構成された巨大な壁面が、まるで眠る怪物の腹のように、ゆっくりと、しかし確実に動き続けている。
近づきすぎた。
シノは扉の前に立ちながら、自分の内臓が圧迫されているような感覚を覚えた。外からではない。内側からだ。扉から漏れ出すエネルギーが空気を通り抜け、細胞の一つ一つに直接干渉してくるのだ。
「……でかい」
シノは掠れた声で呟いた。他に言葉が出なかった。それ以上の語彙を、この扉は許さなかった。
◇
ルシリウスが前へ出た。
白手袋の指先がタクトの柄をゆっくりと握り直し、正眼に構える。
「……手加減は、できませんね」
独り言のような声と共に、タクトが一閃した。
空間が軋む。見えない巨大な手が扉の表面を掴んだような感触が、空気の歪みとして伝わってくる。
だが、扉は動かなかった。ルシリウスの眉が僅かに動く。それだけで、この完璧な執事が今、どれほどの力を注いでいるかがわかった。
夜霧が横に並んだ。
着物の袖が風もないのに揺れ、両腕が変貌していく。指先から肘まで黒鱗が皮膚を突き破って隆起し、爪が伸び、関節が膨れ上がり、筋肉の密度が跳ね上がっていく。
竜の腕が、扉の表面に触れた。
「……硬いどすなぁ」
呟きに感情はない。ただの事実確認だ。
黒鱗の指先が地脈の塊に食い込んでいく。爪がめり込み、関節が軋む。SSSランクの竜人が、全身の膂力を一点に集中させていた。
リリアが扇を閉じ、胸元に手を当てて目を伏せた。
白磁の肌から赤い靄がじわりと滲み出し、扉の表面を薄く、しかし確実に覆い始める。
「血の浸透、開始しますわ」
静かな声と共に、血の魔力が地脈の塊の隙間に染み込んでいく。内側からほぐすように。溶かすように。
「……少しだけ、楽になりますわよ」
それは誰への言葉か、扉そのものへの言葉のようでもあった。
三禍が同時に力を込めた。
重力が引き、竜の膂力が押し、血の魔力が溶かす。
扉が、軋んだ。
低い地鳴りのような音が階層全体に響き、床が振動し、天井から細かい粉塵が舞い落ちる。それでも扉は開かない。
「……もう一度」
ルシリウスが静かに言い、タクトをさらに深く構えた。
夜霧の爪が地脈の塊にさらに深く食い込み、リリアの血の膜が赤から深紅へと色を変える。
三禍の魔圧が膨れ上がり、空間が歪む。気温が急落し、シノの頬に粟立ちが走った。
◇
扉が動いた。
最初はほんの僅かだった。一センチ、二センチ。
それが、一気に解放された。轟音が炸裂し、地脈の塊が内側から弾けるように左右に割れる。
そこから溢れ出したものは、光ではなかった。
漆黒の、底のない暗闇だった。
シノはその暗闇を見つめた。
壁も天井もなく、床だけがどこまでも続いているような、宇宙の果てに放り出されたような空間。
そしてその中心に、巨大な球体が浮いていた。
無数の地脈が絡み合い、蠢き、脈打ちながら一つの塊を形成している。
赤黒い光が、規則的に、心臓のように明滅していた。
シノは息を飲んだ。
あれが、迷宮の心臓だ。
数十万の命が呑み込まれ、数十万の絶望が積み重なり、数十万の強欲が溶け込んだもの。その全てが圧縮されて、あの球体の中に在る。
赤黒い光がまた一度明滅した。まるで、シノたちの存在に気づいたように。
◇
夜霧が、音もなく静かに武器を下ろした。
好戦的なこの怪物が、それ以上前に出ようとしなかった。
沈黙が答えだった。
夜霧の細い目が球体を見据えたまま動かない。その瞳の奥には、珍しく「躊躇」があった。SSSランクの竜人が、本能で立ち止まっていたのだ。
「……これを叩き割ったら」
夜霧がぽつりと言った。
「溜め込まれた魔力が暴走して、上の大陸ごと吹き飛ぶどすな」
推測でも計算でもない、竜の本能が告げる断言だった。
「ええ」
リリアが静かに同意した。扇を胸元で止めたまま、球体から目を離さない。白磁の肌にまた鳥肌が立っていた。
「とても、手が出せませんわ。わたくしの血が、拒絶しておりますの」
本能で逃げようとする体を、意志で押さえ込んでいる。そういう声だった。
「当然です」
ルシリウスが前を向いたまま、タクトを静かに下ろして言った。
感情のない、事実を述べる執事の声だ。
「あれは我々の手に負えるものではない。あれは——主様の、『食事』です」
シノはその言葉を反芻した。
食事。数十万の命を呑み込んだあの塊が、シンの食事。
「兄ちゃん、何者なんだ……」
思わず口から出た独り言だった。
「我々の仕事は、主様がこの食卓に着くための道筋を完成させること。それだけです」
ルシリウスの視線がシノへと向く。
「シノ様」
「……わかってる」
◇
天啓の回路が、意識の奥で動いていた。
じりじりと、しかし確実に、一つの座標を指し示している。
球体の、真下。
あそこに最後の一本を打ち込めば、第1階層から第200階層まで全ての空間が繋がる。
回路が告げ、職人の勘が叫んでいた。あそこだ、と。
だが同時にわかっていた。
あの座標へ近づくだけで、コアから漏れ出すエネルギーの圧力がシノの体を内側から破裂させる。S+ランクのボロボロの肉体など、あの圧力の前では紙切れも同然だ。
シノは球体を見た。赤黒い光が規則的に明滅している。
怖いとは思わなかった。ただ、仕事があそこにある。それだけだった。
「行けますか」
ルシリウスが静かに問うた。命令ではなく、確認だ。
「……行くしかないじゃないっすか」
シノは苦く笑った。笑えた。それだけで、まだ動けると思った。
ハンマーを握り直す。
「ここまで来て、最後の一本が打てませんでしたじゃ、笑えないっすよ」
三禍の視線がシノに集まった。哀れみはない。こいつは行く。その事実を三体が同時に受け取った。
「……ならば」
ルシリウスがタクトを構え直した。
「我々も、仕事をしましょう」
◇
三禍が同時に動いた。一言の打ち合わせもなく。
ルシリウスがタクトを掲げると、シノの体から重さが消えた。
骨も筋肉も血の重さすら消え、重力という概念から完全に切り離される。平衡感覚が狂いそうになるシノに、ルシリウスが淡々と言った。
「慣れないでください。慣れる時間はありませんので」
リリアが両腕を広げると、白磁の肌から赤い靄が膜のように広がり、シノの体を薄く包み込んだ。
「痛みは、少し軽くなりますわ。少し、だけですけれど」
血の膜がコアからの圧力を受け止め始め、ミシ、と軋む音がした。
そして、夜霧がシノの正面に立ち、背中を向けた。
竜の腕が完全に顕現し、黒鱗が肩まで覆っている。その背中が壁となり、コアから放たれる魔力の波を真っ向から受け止めた。
轟音が炸裂するが、夜霧は一歩も退かず、黒鱗で魔力波を弾き、砕き、散らす。
「……歩きなはれ」
前を向いたまま夜霧が言った。
「うちが、道を作るどす」
SSSランクが三体。一人の職人を歩かせるためだけに、全力を使っていた。
◇
シノは歩いた。
重さのない体で、血の膜に守られながら、夜霧の背中を盾にして。
床が振動し、コアの鼓動が足裏から伝わってくる。赤黒い光が明滅するたびに視界が歪んだ。
血の味がした。血の膜が中和しきれなかった圧力が、毛細血管を少しずつ潰しているのだ。
「シノ様、呼吸を止めていますよ」
ルシリウスの声が遠くから届く。
息を吸うと鉄の匂いがしたが、それでも吸った。
意識が白く溶けるように白濁していく中で、幻覚が見えた。
暗闇の中に、背中があった。昔、こうやってマブダチの後ろを必死についていった。転びそうになりながら、置いていかれないように。
あいつは振り向かなかったが、ちゃんと待っていてくれた。
『……遅いぞ、シノ』
呆れたような、でもどこか笑っているような声。
「……うるさい。今、行くから」
シノは口の中で呟いた。
◇
夜霧の背中が魔力波を弾くたびに轟音が炸裂し、リリアの血の膜が軋むたびに赤い靄が薄くなり、ルシリウスの重力制御が限界に近づくたびに執事の口元に血筋が走る。
三禍が削れていた。それでも止まらなかった。
天啓の回路が叫んでいる。そこだ。あと、数歩。
シノは顔を上げた。視界が霞み、意識が遠く、指先の感覚が薄い。
それでも、指先だけはハンマーの柄と床の振動を感じていた。職人の指先が、最後まで仕事を覚えていた。
シノの足が止まった。
天啓の回路が静かになった。座標に着いたのだ。
コアの真下。絶対座標の中心点。赤黒い光が真上から降り注いでいる。
「……俺の仕事は、ここまでっす」
シノは呟いた。膝が笑い、腕が震え、口の端から血が伝っている。
それでも懐に手を入れ、冷たい鉄と魔力の匂いがする最後の一本を取り出した。ただの杭が、震える手の中で静かに光を待っていた。
◇
震える両手でハンマーを構えた。重さのない体が、この一振りのためだけに全てを集める。
「ルシリウスさん。最大で、頼みます」
「……承知しました」
執事の声に初めて温度があった。
タクトが掲げられ、重力がハンマーの穂先と杭の頭、そしてシノの両腕へと収縮していく。見えない質量が一点へと凝縮される。
床が軋み、空間が歪む。コアの鼓動が乱れた。まるで気づいたように、恐れたように。
シノは深く息を吸った。肺の中に自分の血の匂いが満ちる。これが最後の一息でも構わなかった。
「ガァァァァンッ!!」
振り下ろした一撃が、世界の底を抜いたような音を立てた。
轟音が炸裂し、床が割れ、空間が震え、コアが獣の断末魔のように鳴いた。
杭が一分の隙もなく、地脈の奥底へと完全に沈んでいく。
次の瞬間、光が生まれた。
青白く冷たい光が、空間そのものから一気に噴き出した。
第200階層から上層へ向けて、これまで打ち込んできた全ての杭が同時に共鳴する。
青白い光の網が迷宮の全空間を覆い尽くし、第1階層から第200階層までが一本の線で繋がった。
光の柱が、天を突き抜けた。
◇
シノはその光の中に立っていると思っていたが、気づけば膝が折れ、床に手をついていた。ハンマーが手から離れている。
笑うしかなかった。ボロボロの体が、それでも笑っていた。
「……兄ちゃん。繋がったよ」
腕の力が抜け、体が傾く。だが床には落ちなかった。
落ち着いた温度の腕が、シノの体を静かに抱きとめていた。夜霧だった。
無言のまま、着物の袖の柔らかい感触でシノを支えている。
「……ありがと」
返事はなかったが、腕の力が少しだけ強くなった。
◇
コアが乱れていた。
規則的だった鼓動が、怯えるように震えている。何かを感知していたのだ。
光の柱の中に、青白い輝きの奥に、絶対的な静寂と虚無があった。
音も気配も殺意もなく、ただ「在る」だけで周囲の空間を塗り替えていく存在が、光の中から滲み出してくる。
数十万の命を呑み込んだ迷宮の心臓が、初めて恐怖した。
青白い光がさらに強くなり、眩しくて目を開けていられないその中心に、人の形をした影があった。
絶対的な虚無を纏った始祖の影。
意識が遠ざかる中で、シノは感じた。
来た、と。兄ちゃんが来た、と。
それだけを感じながら、シノの意識は静かに落ちていった。
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