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第197話 |虚無の道程《ボイド・ロード》と世界の綻び

光が、死んだ。

まず音が消え、次に熱が消え、最後に——全てが消えた。


気づいた時、シノは冷たい岩盤に膝をついていた。膝が折れた感覚すらない。

いや、それは岩盤ですらなかった。不自然なほど滑らかで、存在ごと削り取られたような地面だ。


シノはゆっくりと顔を上げた。

そこにあったのは更地だった。更地という言葉でさえ生温い。城塞が、城壁が、数万という命が、その欠片すら残さず消えていた。

岩盤すら抉れ、なだらかなクレーターが第190階層の底に刻まれている。血の一滴も、骨の一片も、悲鳴の残滓すらない。


声が出なかった。出す意味がわからなかった。

震える指先が空になったハンマーを握り続けている。渾身の一撃を叩き込んで「繋いだ」と叫んでから、数秒か、数分が経ったのか。

わかるのはただ、あの光の中に全てがあって、今この更地の中に何もないという事実だけだ。



衣擦れの音がした。ルシリウスだった。


執事は懐から白い布を取り出し、左の手袋を指先から一枚ずつ剥がしていく。

かつて純白だったそれは、今や判別のつかない黒と赤の塊だった。

布が音もなく床に落ちる。それを一瞥もせず、ルシリウスは素手の指先をハンカチで丁寧に、一本ずつ丹念に拭いた。


そして新しい手袋をはめ直し、燕尾服の袖を払って乱れた襟を正す。

完璧な執事がそこに立っていた。たった今、数万の軍勢を城塞ごと、存在の記録ごと消し去った男が。


「……少し、散らかしすぎましたね」


感情のない、事実を述べるだけの声だった。

シノは笑えなかった。笑い飛ばせるほどの余裕が、もう残っていなかった。



夜霧が、クレーターの縁に静かに降り立った。

着物の裾が揺れ、白い足先がなめらかな岩肌に触れる。その瞳は更地を、どこか遠くを見るように眺めていた。


「……面倒くさい階層やったどすなぁ」


誰への言葉でもない、消えたものへの最後の礼儀だったかもしれない。

リリアは何も言わず、ただ扇を閉じた。パチン、という乾いた音だけが静寂に落ちた。


——これが、三禍だ。


その事実が、シノの脳髄に静かに沈んでいく。恐怖ではなく、抗いようのない事実として身体の深くに刻まれた。

シノは血だらけの両手を見た。皮の剥けた手のひらからは血が滲み、ハンマーの柄は鉄錆びの匂いに塗れている。

重さのない空の柄から、手を離す方法を忘れていた。


自分は今、何と並んで歩いているんだろう。

心の中に浮かんだ問いに、答えは出なかった。



「さあ、参りましょう」


ルシリウスの声が静寂を割った。


「第200階層まで、残り十階層です。シン様がお待ちになっています」


シノは震える膝に力を込めて立ち上がった。ふらつく身体を誰も支えない。三禍はただ静かに見ていた。

それでいい。同情は要らない。前に進めるなら、それだけでいい。


前方の第191階層以降へと続く暗闇が、不気味なほど静かに口を開けている。

音も、気配も、光もない。ただ虚無のような暗闇が待っていた。


「……次、行きます」


シノの掠れた声が、死の静寂に溶けた。



第191階層に敵はいなかった。一匹も、息をするものすら。

四人分の足音だけが虚ろな空間に反響し、静寂を際立たせる。


「……おかしいどすな」


夜霧が低く呟く。その声に滲むのは戦いの気配ではなく、本能が発する根源的な忌避の色だ。


「190階層の『脳』を潰し、防衛システムが沈黙したのでしょう。敵は来ません」

「……それは、わかっとる。そういう話やない」


第192、193、194階層。下へ降りるほど、空気が変わっていった。

毒でも腐敗でもない、生命に対する害意を持った変質ではない。もっと根本的な、「存在」を否定する圧力だ。大気そのものが「ここに在るな」と言っている。

シノは息をするたびに、肺の中が薄くなっていく感覚を覚えた。「在ること」の手応えが、一息ごとに削れていく。



壁面の岩盤の質感が消え、幾何学模様が浮かんでいた。

直線と曲線が複雑に絡み合い、脈打つように明滅している。「そこだけ世界の解像度が違う」ような、目の奥が痛くなる奇妙な紋様だ。


シノが思わず手を伸ばすと、ルシリウスが静かに制した。


「触れない方がよろしいかと。あれは岩ではありません。世界の綻びです」

「……綻び?」

「最深部に近づくほど、世界を構成する『法則』が希薄になります。あれはその剥がれかけた縫い目のようなものです」


シノが手を引くと、幾何学模様はまるで呼吸するように脈打ち続けていた。


「敵がおる方が、まだマシでありんす」


夜霧が第195階層の入り口で、その先の暗闇を細い目で睨んだ。


「ここは……世界が腐り落ちとる」


SSSランクの怪物(バケモノ)が本能で発する忌避。「在ってはいけないもの」を前にした生命の根源的な拒絶反応だ。


「ええ。わたくしですら、肌が粟立ちますわ」


リリアが扇を揺らしながら同意する。白磁の肌にうっすらと鳥肌が立っていた。SSSランクの血魔術師の肌が、この「虚無」の前で正直に反応していた。



シノにはその感覚がわかってしまった。

下へ降りるほど「重さ」が変わる。物理的な重量ではなく、「自分がここに存在している」という感触の重さだ。

踏んでいる感覚が薄い。息をしている感覚が薄い。生きているという感覚が、霞んでいく。


「……気持ち悪い場所だな」


強がりではない、正直な感想だった。


「慣れることをお勧めはしません。慣れる前に、抜けますので」

「……頼むわ、それ」


第196階層。幾何学模様は壁だけでなく、床や天井、空間そのものを覆っていた。

発熱した何かが悪寒に震えるように、明滅のリズムが速くなっている。

シノは下を見ないようにした。じっと見ていると、世界の「外側」へ吸い込まれる気がしたからだ。


第197階層、第198階層。もはや沈黙だけが一行を包んでいた。

言葉が薄まり、音を出しても空気に溶ける前に消えていく。虚無がコミュニケーションを希釈していく空間で、四つの足音だけが止まらずに響き続けていた。



第199階層の入り口で、夜霧が足を止めた。

暗闇をしばらく見つめ、静かに息を吐く。


「……行くどす」


その短い言葉だけで十分だった。四つの足音が、再び虚無の底へ向かって動き出した。


存在の重圧が、シノを押し潰しにかかっていた。

「在るな」という世界そのものの圧力に、一歩ごとに脳の輪郭が滲んでいく。自分が誰で、何をしているのか、その答えが霧に沈む。


シノは歯を食いしばった。膝が笑い、視界が暗い。手のひらの傷から滲む血だけが、かろうじて「生きている」証拠だった。



幻覚が見えた。

暗闇の中に、大きな男の背中があった。

広い肩、無造作な黒髪、歩くたびに少し右に傾く癖のある歩き方。


——兄ちゃん。


声には出せなかった。出したら消えそうで、勇気がなかった。

シノはただその背中を見つめ、機械のように足を動かし続けた。


「シノ様、歩けていますか」


水の底から聞こえるようなルシリウスの声に、自分の声も遠く答える。


「……歩いてる。191、完了。195、接続……」


脈絡のない数字。打ち込んできた杭の記録。

自分がここまで確かにやってきた証明。意識が溶けかけるたびに、シノはその数字を心の中で繰り返し、在り続けることを確かめた。



シノの歩調の乱れに気づいた夜霧が、短く「……リリア」と呼んだ。

それだけで理解したリリアの白磁の指先が、シノの左腕に触れる。


「少し、失礼しますわ」


シノの血管の中で何かが押し流され、心臓が強制的に一拍打たされた。

視界が急に鮮明になる。リリアの魔力が血管を直接動かし、脳へ、足へ、強引に血を送り込んだのだ。


「血の魔術で直接動かしてあげますわ。乱暴で申し訳ないけれど」

「……すごい気持ち悪いけど、助かる」

「褒め言葉として受け取っておきますわ」


夜霧の手が、シノの右肩にそっと添えられた。

着物越しに伝わる、怪物特有の落ち着いた体温。


「……無理したら、あかんどすえ」


夜霧は前を向いたまま言った。


「無理しないと、ここ抜けられないじゃん」

「そやな。やから、うちが支えるんどす」


命令でも義務でもなく、ただそうするという静かな意志だった。



ルシリウスがタクトを一度振ると、シノの体感重量がゼロになった。

羽毛のように軽い。


「重力の調整です。この先、ご自身の体重を支える必要はありません。足を動かすことだけに集中してください」

「……助かる」


リリアが血を動かし、夜霧が肩を支え、ルシリウスが重さを消した。

共に虚無の底まで降りてきた事実が、三禍の中に奇妙な連帯を生んでいた。

言葉にする必要もなく、四つの足音は同じリズムで響き続けた。



シノは震える手でハンマーを握り直した。


「197、接続」


虚無に侵食されかけた意識の中で、職人の手は迷わなかった。壁面に杭を当て、打つ。

反響しない鈍い音が虚無に吸われ、それでも青白い光が漏れた。


「198、接続」

「199——」


杭を打つたびにシノは思った。これは命綱になるインフラだ。

一本ずつ、職人の手が虚無の空間に光の道を刻んでいく。


——なあ、マブダチ。

おまえの兄ちゃんから頼まれた仕事、終わったぞ。

生きて帰ったら、絶対に言ってやろうと思った。



最後の一本を打った。

鈍い音と共に漏れた星の産声に似た光が、か細く走った。


「……199、完了」


掠れたシノの声が、虚無の底に確かに届いた。

ハンマーを下ろし、顔を上げる。そこにあったのは、扉だった。


金属でも岩でもない。巨大な樹の根が複雑に絡み合い、生きた心臓のように収縮と膨張を繰り返す地脈(ちみゃく)の扉。

これまでの全ての階層を足しても及ばない質量がにじみ出し、ただ「在る」だけで周囲の空気を変質させる根源的な存在感。


夜霧が腕を黒鱗に変え、リリアが扇を開き、ルシリウスがタクトを握り直した。

三禍が静かに、この先から溢れ出すものへ備える。


シノは懐に手を入れ、最後の一本を取り出した。

ただの杭だ。


「……仕事、終わりな」


その時、扉が振動した。

地脈(ちみゃく)そのものが低く深く共鳴し、迷宮の心臓の鼓動が伝わってくる。

迷宮は生きていて、シノたちの存在を感知していた。扉の向こうで何かが動いた。


手の中で、杭が応えるように光を強めた。

シノは深く、ゆっくりと息を吸った。


「——行くぞ」


四つの足音が、最後の扉へと向かった。

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