第196話 第190階層の死闘(後編)〜神話級の大掃除〜
「ガキィィィッ!!」
轟音が、世界の底で炸裂した。
シノの渾身の一撃が、ルシリウスの重力補助と交わった瞬間——
ハンマーの穂先に凝縮された質量が、
第190階層の岩盤を、縦に、深く、抉り裂いた。
振動が足裏から脊椎を駆け上がり、
奥歯の縫い目を鳴らす。
手のひらの皮が、三枚は剥けた。
血が柄を濡らし、鉄臭い熱が空気に溶ける。
それでもシノは、ハンマーから手を離さなかった。
離せなかった。
岩の割れ目から、光が漏れ出した。
青白い。
どこか冷たい、星の産声に似た色だ。
それは一筋だったものが、二筋になり、
瞬く間に網の目となって——
床を、壁を、天井を、奔った。
まるで、眠っていた怪物の血管が、
一斉に拍動を取り戻したように。
シノは知っている。
これが何なのかを。
101階層から、ここまで。
死にかけながら、泣きながら、
一本一本打ち込み続けてきた杭の、
その最後の一本だ。
「……繋いだぁぁっ!!」
声が喉を破った。
叫ぶつもりではなかった。
ただ、肺の中に溜まっていたものが、
溢れ出ただけだった。
血だらけの両手。
砕けかけた関節。
三度は死にかけた——
たった今この数十分の記憶だけで、
脳裏に刻まれた傷の数は数え切れない。
それでも。
繋いだ。
シノが歯を食いしばって、
クレーターの縁に膝をついたその瞬間——
耳の奥で、ピタリと音が止まった。
タクトの、動く音が。
ルシリウスが、腕を下ろしていた。
白手袋の表面はもはや原形をとどめず、
砲撃の余波と飛び散った血糊で
ぐちゃぐちゃに塗れている。
口の端から一筋の赤が伝っていた。
それを親指の甲で静かに拭い、
執事は眼前の崩れかけた結界へ視線を向ける。
完全結界が、悲鳴を上げていた。
外部からの魔力砲が積み重なり、
幾千もの亀裂が光の膜を走っている。
それはまるで、
割れる寸前の薄氷に似ていた。
次の一撃で——終わる。
だがルシリウスは動じない。
役目を終えた結界が、音もなく砕けた。
ガラスが散るように、光の粒子が舞い散り、
外に吹き荒れていた魔力の暴風が、
獣の息のようにシノたちへと殺到してくる。
それでも執事は——微動だにしなかった。
ただ、タクトの先を持ち替え、
乱れた燕尾服の袖を、一度だけ払った。
その所作に、怒りはなかった。
あったのは——
怒りを氷点下まで冷却した後に残る、
純粋な殺意の結晶だけだった。
◇
「……ご苦労様でした、シノ様」
ルシリウスの声は、静かだった。
静かすぎた。
嵐の前の、湖面のように。
「ここから先は——『お掃除』の時間です」
執事は、破れた白手袋を、指先から一枚ずつ
丁寧に剥がした。
布が床に落ちる。
かつて純白だったそれは、今や黒と赤が
混ざり合った汚泥の塊と化している。
血の滲む口元を、今度は素手で拭った。
その瞳が——変わった。
感情がないのではない。
逆だ。
怒りも、屈辱も、主君への忠義も——
あらゆる感情を一点に圧縮して、
絶対零度まで冷やし固めた。
それが今、ルシリウスの双眸の奥で、
静かに燃えていた。
タクトを、一閃。
シノたちに殺到していた砲撃が、
見えない壁に激突して、空中で静止した。
迷宮のモンスターたちが操る魔力砲。
石弾。
飛刃。
——質量を持ったあらゆるものが、
理不尽な重力の檻に捕まり、
宙に縫い止められた。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、それらは音もなく、
ぐしゃりと形を失った。
鎧が潰れる音。
甲殻が砕ける音。
迷宮の軍勢が悲鳴を上げる間もなく、
重力に握り潰されて地面へと
叩きつけられていく。
「……え」
シノは声を失った。
第190階層の防衛を担うこいつらは、
ただのモンスターじゃない。
隊列を組み、指揮系統を持ち、
シノたちの弱点を学習しながら攻め続けてきた——
まるで訓練された軍隊そのものだ。
それが今、執事のタクト一振りで、
塵のように潰されている。
なのにルシリウスは、
燕尾服の襟を左手でさりげなく正しながら、
表情一つ変えていない。
◇
その轟音が後方まで届いた瞬間——
夜霧の、細い肩が揺れた。
揺れた、というより——
解けた、と言うべきか。
ずっと、張り詰めていたものが。
「……終わったどすか」
夜霧は、ぽつりと呟いた。
その声に、疲労はない。
あるのはただ、静かな凪だ。
獰猛な何かが、鎖から解き放たれる
直前の——一瞬の静寂。
隣に立つリリアが、薄く微笑む。
「ええ。……随分と、待たせてくれましたわね」
白磁の手が、胸元に触れる。
リリアの全身から、じわりと赤い靄が
滲み出していた。
敵の自爆戦術に晒され続けた数十分間——
後方の護衛に徹しながら、
その間ずっと、魔力をチャージし続けた。
限界まで。
臨界点まで。
今この瞬間、二人の魔圧が膨れ上がる。
「圧」という言葉では足りない。
空間が、歪んだ。
気温が、数度単位で急落した。
第190階層の空気そのものが、
二つの神話級の存在に怯えるように——
収縮していく。
◇
城塞の最深部。
岩盤に埋め込まれた演算機関——
『迷宮の脳髄』が、
異常を検知した。
この機関は、迷宮の意志を代行する
知性体だ。
数万のモンスターに命令を下し、
隊列を組ませ、戦術を立案し、
侵入者を効率よく葬ってきた。
今回の戦いでも、敵の動きを
精密に分析し続けていた。
三禍の魔力特性。
シノの杭打ちルート。
結界の耐久限界値。
すべてを計算に入れた上で、
最適な殲滅プランを実行してきた。
だが——
一つ。
二つ。
三つ。
急速に膨張する、神話級の魔圧反応。
演算が、追いつかない。
記録にない数値だ。
既存のデータベースに、
該当する脅威分類が存在しない。
予測が、できない。
この機関が生まれてから一度も
処理したことのない感情データが、
演算回路に割り込んできた。
——恐怖。
「全軍、撤退——」
命令信号が全域に送られる。
「防御陣形、最大展開——」
だが。
遅い。
あまりにも、遅すぎた。
◇
遅すぎる。
その言葉の意味を、
『迷宮の脳髄』が
理解した時には——
もう、始まっていた。
ルシリウスが、タクトを天高く掲げた。
「——【天獄】」
声に、温度がなかった。
怒りでも、高揚でもない。
ただ、処理すべき事象を処理する——
絶対的な執行者の声だ。
空間が、軋んだ。
城塞を中心に、見えない箱が
形成されていく。
壁。
天井。
床。
逃げ道。
あらゆる出口が、
次元ごと封鎖された。
数万のモンスターが一斉に動きを止め、
出口を探して壁に激突する。
だが、壁はない。
あるのは、空間そのものが
変質した「檻」だけだ。
「な、なんだこれ……」
シノは膝をついたまま、
その光景を呆然と見上げた。
城塞が——消えた。
正確には、消えたのではない。
この世界から切り離され、
ルシリウスの掌の上に
閉じ込められたのだ。
逃げ場のない、
完璧な死の箱の中に。
◇
「わたくしたちを待たせた罪——」
リリアの声が、
静かに空気を震わせた。
「万死に値しますわ」
微笑んでいた。
ぞっとするほど、優雅に。
白磁の指先が、緩やかに持ち上がる。
その瞬間——
天獄の檻の内側で、
異変が起きた。
モンスターたちが、
一斉に動きを止めた。
痛みではない。
恐怖でもない。
自分の体の、中から——
何かが、引き出されていく感覚。
「【鮮血の支配】——最大出力」
血が、動いた。
檻の内側にいる全ての生命体の、
血液が。
体内から引き剥がされるように、
皮膚を突き破り、
刃の形を成して噴き出す。
一つの体から。
十の体から。
百の体から。
数万の体から。
無数の血の刃が、
密閉された空間の中で
嵐のように渦を巻いた。
逃げ場はない。
壁は、空間ごと封じられている。
血の嵐が、内側から
あらゆるものを刻んでいく。
ミキサーの中に放り込まれたように——
数万の軍勢が、
原形を失っていった。
シノは目を背けた。
音だけが、聞こえた。
湿った、重い音が。
「ふぅ。……溜め込みすぎると、
お肌に悪いのよねぇ」
リリアが指先の血飛沫を、
ハンカチで優雅に拭いながら
ぼやいた。
◇
「面倒くさい防衛線やったどすなぁ」
夜霧が、静かに息を吐いた。
その両腕が——変わっていく。
指先から肘まで、
黒鱗が皮膚を突き破って
隆起してくる。
竜の腕だ。
爪が伸び、関節が太くなり、
筋肉の密度が跳ね上がる。
それだけではない。
夜霧の喉の奥で、
何かが収縮し始めた。
魔力が、圧縮されていく。
星が潰れて白色矮星になるように——
膨大なエネルギーが、
点へと、点へと、
凝縮されていく。
周囲の気温が、さらに下がった。
空気中の水分が凍りつき、
夜霧の口元から
白い霧が漏れ始める。
「……消えなはれ」
静かな一言だった。
怒りも、憎しみもない。
ただ、在るべき結末を
告げるだけの声。
夜霧が口を開いた。
【終焉の息吹】——
それは「炎」ではなかった。
極限まで圧縮された魔力が、
極大の奔流となって
解き放たれた瞬間——
光があった。
白く、眩しく、
何もかもを塗り潰すような光が。
天獄の檻の内側に、
叩き込まれた。
血の嵐と、終焉の息吹が——
密閉された空間の中で、
混ざり合った。
◇
シノは目を閉じた。
瞼の裏が、白く染まった。
熱くも、冷たくもない。
ただ——
すべてが、消えていく感触だけがあった。
概念が、削り取られていく音がした。
「存在した」という記録ごと——
空間から、剥ぎ取られていく音が。
◇
光が、収まった。
静寂が、落ちてきた。
落ちてきた、というより——
世界に、静寂しか
残らなくなった。
シノはゆっくりと、目を開けた。
そこには——
何も、なかった。
城塞が、ない。
数万のモンスターが、ない。
『迷宮の脳髄』が、ない。
岩盤すら抉れ、
なだらかなクレーターだけが
広がっていた。
悲鳴の残滓すら、ない。
血の匂いすら、ない。
塵一つ、残っていない。
「存在した」という痕跡ごと——
空間から削り取られた。
それが、正しい表現だった。
敵の気配は——完全に、ゼロ。
「…………」
シノは、しばらく動けなかった。
膝をついたまま、
クレーターの底を見つめていた。
頭が、追いつかない。
さっきまでここには、
数万の軍勢がいた。
難攻不落の城塞があった。
迷宮の意志を代行する
巨大な知性体があった。
それが今——
更地だ。
なだらかで、静かで、
何事もなかったかのような
更地だけが広がっている。
「…………兄ちゃんの集めた人たち」
シノの口から、
掠れた声が漏れた。
「マジで容赦ないじゃん……」
へたり込んだ。
全身の力が、
抜けてしまった。
戦闘の疲労ではない。
あまりのオーバーキルに、
膝が笑ってしまったのだ。
◇
背後で、衣擦れの音がした。
ルシリウスだった。
執事は懐に手を差し入れ、
予備のポケットから
新しい白手袋を取り出した。
指先から、丁寧に、
一本ずつはめていく。
左手。
右手。
それから、乱れた燕尾服の袖を
一度だけ払い、
襟を静かに正した。
血の痕は、もうない。
破れた手袋は、もうない。
完璧な執事が、
そこに立っていた。
「……少し、時間を無駄にしました」
ルシリウスが言った。
感情のない声だった。
反省でも、謝罪でもない。
ただ、事実を述べるだけの——
冷徹な執事の声だ。
「さあ、第200階層まで残り十階層です。
シン様が地下宮殿で
お待ちになっています」
シノは顔を上げた。
夜霧とリリアも、
すでにそちらを見ていた。
三禍の視線の先に——
暗闇があった。
第191階層以降へと続く、
縦穴の入り口だ。
そこは、不気味なほど静かだった。
音がない。
気配がない。
光がない。
ただ、虚無のような暗闇だけが、
口を開けている。
まるで——
世界の底が、
静かに待っているように。
シノは血だらけの両手で
地面を押し、立ち上がった。
膝が震えている。
腕が、痛い。
それでも——
足は、前を向いた。
「……行くか」
シノが呟いた言葉に、
誰も答えなかった。
答える必要が、なかった。
四つの足音が、
静寂の中に響き始めた。
虚無の暗闇へ向かって——
一歩ずつ、確かに。
本日も読んでいただき、ありがとうございます!
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