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第195話 第190階層の死闘(中編)〜軋む絶対安全圏〜

光が、暴力になっていた。

砲撃ではない。数万体の魔力が一点に収束し、城塞の壁に刻まれた呪紋(グリフ)を経由して増幅され、空間ごと圧縮された「何か」が、ルシリウスの【完全結界(パーフェクト・バリア)】に直撃し続けていた。


連続して。止まることなく。

結界の外側では岩盤がドロドロに溶け、石畳の石材が接触した魔力の余波で気化している。空間そのものが歪み、光の進む方向がねじれていた。


シノは結界の内側で、それを見ていた。言葉が出なかった。

外の世界と内の世界の境界が、薄い膜一枚で分かれている。その膜の外側が地獄だった。

内側は、チリ一つ揺れない異常なほど静寂だった。ルシリウスが維持しているのは結界の強度だけではない。重力も制御し、内側の空間を完璧に安定させ続けている。


(……この人が、全部支えてる)



ルシリウスの背中が見えた。

六枚の翼を広げ、城塞の全軍と向き合って立っている。その背中が、微かに、ほんの一度だけ揺れた。


漆黒の燕尾服の肩が、内側から何かに押されたように裂けた。縫い目からではない。布そのものが魔力の負荷に耐えきれずに断裂したのだ。

純白の手袋の片方が弾け飛び、露わになった素手がタクトを握り続けていた。震えてはいないが、手の甲の血管が異常なほど浮き上がっている。


「ルシリウスさん」

「何ですか」

「大丈夫ですか」

「大丈夫です」


即答だった。

だがその直後、ルシリウスの端正な横顔を、一筋の赤が伝った。口の端から、細く静かに血が流れていた。


シノはその光景を見て、息が止まった。

あの完璧な人が。俺を守るために。血を流している。



ルシリウスは流れた血を拭わず、タクトを握る手も下げなかった。

完全結界(パーフェクト・バリア)】の維持に全てのリソースを注ぎ込みながらも、その瞳の奥では何かが燃えていた。


演算値。敵将の計算が頭の中に見えていた。

あの『迷宮の脳髄(ダンジョン・ブレイン)』は、現在の砲撃の総量とルシリウスの結界強度の減衰率を計算し、あと何秒で結界が崩壊するかを弾き出している。


(……確かに、通常の演算ではそう結論付けるでしょうね)


ルシリウスは血を流しながら思った。魔力の総量で計算すれば、結界は既に限界を超えている。物理法則の足し算で測れば、あと三十秒も持たない。

ルシリウスの口の端がわずかに歪んだ。それは血塗れの、しかし確かな笑みだった。


(たかが物理法則や魔力演算の足し算で、私の主様への忠誠を測れると思うな)


タクトが強く握り直され、先端から光が滲んだ。

ルシリウスは自らの命を、燃料として注ぎ込み始めていた。魔力ではない。心臓が脈打つたびに生まれる生存本能の力を、結界の強度に直接変換していた。


「……ここは、私の主様の道です」


誰にも届かない声でルシリウスは言った。


「その道に、汚物が立つことは許しません」


結界の表面が、一段輝きを増した。



城塞の奥で、『迷宮の脳髄(ダンジョン・ブレイン)』の演算が更新された。

結界崩壊予測、修正。崩壊時刻、延長。原因不明。


「それ」の群青色の目がわずかに揺れた。計算外だった。減衰するはずのルシリウスの出力が、逆に上昇している。

「それ」の指がさらに二本動き、新しい戦術が演算された。


空間圧縮術式。物理的な砲撃ではなく、空間そのものを押し潰す概念攻撃だった。

城塞の天井に刻まれた呪紋(グリフ)が群青色から深い紫へと変色し、ルシリウスの真上に暗点が生まれた。重力でも魔力でもなく、「存在する空間の量」そのものを減らす概念的な圧力が、【完全結界(パーフェクト・バリア)】の頂点に向かって落ちてきた。



「……ッ」


ルシリウスの呼吸がわずかに乱れ、タクトが素早く上方へ向けられた。重力で空間圧縮に抵抗しようとしたが、概念攻撃に重力は通じない。


「……これは」


ルシリウスが初めて言葉に詰まったその隙間に。結界の頂点から、ピキィッ、とガラスに細い亀裂が入るような薄く高い音がした。

シノは頭上を見た。光の膜の天井に、一本の亀裂が走っていた。


「……結界に、ヒビが」

「わかっています」


ルシリウスの声は乱れていなかった。しかし、その声は今セッションで最も低く、絞り出されたものだった。


「シノ様」

「はい」

「急いでください」


命令でも懇願でもなく、事実の伝達だった。私の結界が持つ時間に限りがある、と。


シノはその声を聞いて岩盤を見た。手が震えそうだった。ルシリウスの血が、結界の亀裂が、外の地獄が見えている。

(……落ち着け。焦ったら外す。外したら、ルシリウスさんが血を流した意味がなくなる)


シノは深く息を吸い、指先を岩盤の継ぎ目に当てて【天啓の回路(フラッシュ・コア)】を最大限に開いた。

地脈が動いている。この深度の地脈は川でも海でもなく、迷宮全体の地脈が一点に向かって集まってくる大瀑布だった。複雑すぎて輪郭が掴めず、流れが速すぎて目で追えない。


(……どこに打てば、全部が繋がる)


シノの指先が岩盤の表面を静かに滑る。

頭上で、ピキィッ、と結界の亀裂がまた一本増えた。

急げ。でも焦るな。



指先の下で、大瀑布のような地脈の奔流が動いていた。

シノは目を閉じ、視覚を切って指先の感覚だけに集中した。

通常の魔導術師なら触れただけで意識を持っていかれる地脈の圧力を、シノは「感覚」として受け取り、設計情報として処理する。


地脈が音を持っていた。「ドォォォン」という重低音。「ギュイン」という鋭い音。「ザアアア」という水の音。

複数の音が重なって不協和音を作っている。


頭上でピキィッ、ピキィッ、と二本続けて亀裂が増えた。

シノは目を開けなかった。ルシリウスの焼けた翼も、流れる血も、今は見てはいけない。聞くだけだ。


指先が石畳の一点で止まった。複数の流れがこの一点の真下に向かって収束している感触。


「シノ様、状況を報告します」


わずかに掠れたルシリウスの声が届いた。


「結界の亀裂が現在十四本。空間圧縮の概念攻撃に対して重力では対抗できていません。……私の残存魔力が通常の三十パーセントを下回りました。現在は生命力の直接変換で補っています。……もって、あと四分です」


四分。シノは指先を一点に留めたまま動かさなかった。


シノの指先の下で大瀑布の奔流が動く。「ドォォォン」が来り、「ギュイン」が交差し、「ザアアア」が押し上げた。

その三つが重なった瞬間、指先の下で地脈が共鳴した。


「見つけた」


シノは目を開けた。


「ルシリウスさん、地脈の合流点、掴みました。でも、深さがこれまでの倍以上ある。ハンマーの打撃角度の計算に三十秒ください」

「……了解しました」


ルシリウスの声に混じった音。それは三十秒持たせるために、さらに生命力を注ぎ込む決意の音だった。


「絶対に打ちます」

「わかっています。……待っていますから」



シノは指先で合流点の深さを探り続けた。

(深さは『ドスンン』で、角度は『シュ、スゥ』で入れる感じ)

擬音でしか表現できない計算がシノの中で完成していく。


外の世界では砲撃が続き、ルシリウスの純白の羽根が一枚焼けて石畳に落ちた。

シノはそれを見て、前を向いた。


「ルシリウスさん、計算終わりました。二十七秒です」

「三秒、節約できましたね。……役に立ちましたか」

「ええ」


ルシリウスの掠れた声は、揺れていなかった。

シノは皮の剥けた手でハンマーを握った。痛みが来たが、関係ない。


「重力補助、お願いします」

「……準備しています」


シノはハンマーを合流点の真上に構えた。頭上でまた三本続けて亀裂が入る。



前衛で、夜霧の動きが変わった。

敵の足止め部隊と対峙しながら、竜の感覚が後方からの異質な血の匂いを感知していた。


「……ルシリウスはんが、血を流しとる」


夜霧の黒鱗がぶわりと逆立った。


「……あの堅物メガネが」


リリアも血の魔術師として感知していた。戻るか、と問うリリアに、夜霧は右腕で重装歩兵を薙ぎ払いながら「待ちなはれ」と制した。


敵将は最初からこの状況を計算していた。前衛がルシリウスの援護に戻ろうとすれば、この徹底した包囲がそれを最も高コストにする。突破する三分間に後衛が潰される完璧な遅滞設計だ。


「……リリア。戻るのは無理どす」

「ええ」

「ルシリウスはんとシノを信じる。あの二人がやり切る」


夜霧の口がゆっくりと凶悪に歪み、始祖の暗黒龍の本来の顔が覗いた。


「それまで、溜めるどす。今まで抑えてきた分、全部。あいつの首を落とすために」

「……なるほどですわ。では、わたくしも存分に溜めさせていただきますわ」


夜霧の両腕が赤熱し始め、リリアの血の大鎌が禍々しい鼓動を打ち始めた。

自分たちを足止めすればするほど蓄積される力が、最終的にどうなるか敵将には見えていない。


「……やり切ってくれるどす。そうでなければ、わっちが許さん」



ルシリウスの視界が霞み始めていた。


「……残存生命力、通常の四十二パーセント。結界亀裂、二十三本」


自分自身に報告することで意識を保つ。タクトを握る手は白くなり、血流が止まりかけていたが離さなかった。

今、私はシン様の道を守っている。シン様が降臨される時、その道に立っているのは私でなければならない。


「シノ様」

「はい」

「あと、二分を切りました。打てますか」

「打てます」


ルシリウスの声が、主の来客に告げるような穏やかな声になった。


「……シノ様。そろそろ、紅茶の時間が過ぎてしまいます。冷めた紅茶は、シン様に出せませんので」

「……わかりました、すぐ打ちます」


シノはハンマーを構えた。

ルシリウスが俺のために血を流している。命を削って立ち続けている。この一本を外したら、全部が終わる。

深呼吸を一度だけした。



天啓の回路(フラッシュ・コア)】が最終確認を終えた。迷宮全体の地脈がこの一点の真下に向かって集まってくる絶対座標。ここに打てば、全てが繋がる。


「ルシリウスさん! 重力補助、全開でお願いします!!」

「……了解しました」


ルシリウスの声は静かで穏やかで、そして決意していた。残る命の全てをこの一撃に注ぎ込む覚悟だった。

タクトが天に向かって持ち上げられ、残存生命力が先端に流れ込んだ。


「シノ様、私が重力を収束させます。腕が千切れると感じるかもしれませんが、手放さないように」

「腕より先にハンマーは離しません」

「よろしい。……では、シン様のために」


シノは血まみれの両手でハンマーを高く振り被った。

地脈の音が全身で聞こえる。「ドォォォン」と「ギュイン」と「ザアアア」が合流点の真下で重なり合う。その音が最大になる瞬間が来る。


ルシリウスの重力がシノの腕に収束し、千切れそうな重さが来た。腕の骨が軋む。


「……来る!!」


頭上で結界の天頂が一気に割れた。ピキィッ、と連続して亀裂が入り、大きな割れ目が生まれる。


三つの音が、完全に重なった。

その瞬間に。シノのハンマーが、振り下ろされた。

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