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第194話 第190階層の死闘(前編)〜盤上の将軍〜

光が、暴力になっていた。

それは単なる砲撃ではない。数万体の魔力が一点に収束し、城塞の壁に刻まれた呪紋(グリフ)を経由して増幅されたエネルギー。空間ごと圧縮された「何か」が、ルシリウスの【完全結界(パーフェクト・バリア)】に絶え間なく直撃し続けていた。


結界の外側では岩盤がドロドロに溶け、石畳の石材は魔力の余波に触れた瞬間に気化している。空間そのものが歪み、光の軌道すらねじ曲がっていた。

シノは結界の内側で、その光景をただ見つめていた。薄い膜一枚を隔てた外側は地獄。しかし内側は、チリ一つ揺れない異常なほどの静寂に満ちている。ルシリウスが維持しているのは結界の強度だけではない。内側の重力をも制御し、シノの作業空間を完璧に安定させ続けているのだ。

(……この人が、全部支えてる)



ルシリウスが六枚の翼を広げ、城塞の全軍と向き合って立っていた。

その背中が、微かに、ほんの一度だけ揺れた。


漆黒の燕尾服の肩が、内側からの圧力に耐えきれず断裂する。純白の手袋が弾け飛び、露わになった素手がタクトを握りしめていた。手の甲の血管が異常なほど浮き上がっているが、その手は決して震えてはいない。


「ルシリウスさん……大丈夫ですか」

「大丈夫です」


シノの問いに即答した直後、ルシリウスの端正な横顔を一筋の赤が伝った。口の端から、細く静かに血が流れていた。

(あの完璧なルシリウスさんが血を流してる……俺を守るために)


ルシリウスは流れた血を拭わず、タクトを掲げ続けた。

完全結界(パーフェクト・バリア)】の維持に全リソースを注ぎ込みながらも、その瞳は冷徹に戦況を分析していた。敵将『迷宮の脳髄(ダンジョン・ブレイン)』が弾き出した結界崩壊までのカウントダウンを、ルシリウスもまた肌で感じ取っていた。


(物理法則の足し算で測れば、あと三十秒も持たないでしょうね)


ルシリウスは血塗れの唇で、わずかに笑みを浮かべた。

(だが、たかが魔力演算の足し算で、私の主様への忠誠を測れると思うな)


タクトの先端から、眩い光が滲み出す。魔力ではなく生命力。心臓が脈打つたびに生まれる生存本能の力を、彼は結界の強度に直接変換し始めた。

「……ここは、私の主様の道です。汚物が立つことは許しません」



城塞の奥で、『迷宮の脳髄(ダンジョン・ブレイン)』の演算が更新された。

原因不明の結界強度上昇。敵将は即座に戦術を切り替え、空間そのものを押し潰す概念攻撃を開始した。

ルシリウスの真上の空間が歪み、重力すら無関係な「空間の消失」が結界の頂点に降りかかる。


ピキィッ。

ガラスにヒビが入るような高い音が、シノの耳に届いた。結界の天井に、一本の亀裂が走る。


「……結界に、ヒビが」

「わかっています。シノ様、急いでください」


ルシリウスの声は低く、絞り出されたものだった。

「私の結界が持つ時間に限りがある」


シノは岩盤に指を当て、焦りを必死に抑え込んだ。ルシリウスが命を削って作った時間を無駄にするわけにはいかない。

天啓の回路(フラッシュ・コア)】を最大限に開き、地脈の奔流を探る。この深度の地脈は、もはや川でも海でもなく「大瀑布」だった。あまりの複雑さに意識が持っていかれそうになる。


シノは目を閉じ、指先の感覚にすべてを委ねた。

「ドォォォン」という重低音。「ギュイン」という鋭い音。「ザアアア」という水の音。

地脈が奏でる不協和音を、設計情報として処理していく。


頭上でピキィッ、ピキィッ、と亀裂が増える音が響く。

(……急げ。でも、焦るな。焦ったら全部が終わる)



「見つけた」

石畳の一点でシノの指が止まった。三つの地脈が共鳴する「合流点」。


「ルシリウスさん、掴みました。でも深さが倍以上ある。計算に三十秒ください」

「……了解しました」


ルシリウスの声に、さらに生命力を注ぎ込む覚意が混じった。

「絶対に打ちます。だから、待ってください」

「……ええ」

それは、揺るぎない信頼の声だった。


外ではルシリウスの純白の羽根が焼けて散っている。シノは二十七秒で計算を終え、ハンマーを握った。剥けた手のひらの痛みを噛み殺す。

「重力補助、お願いします」



その頃、前衛の夜霧は後方の異質な血の匂いを感知していた。

(……ルシリウスはんが、血を流しとる)

竜の黒鱗が怒りで逆立つ。リリアもまた、支配下にある血の動揺を感じ取り、声を低くした。


敵将は、二人が援護に戻るコストを「三分の足止め」と計算し、包囲を強めていた。

「戻るのは無理どすな」

夜霧が前衛を薙ぎ払いながら、冷酷に笑った。始祖の暗黒龍の、凶悪な本能が覗く。


「ルシリウスはんとシノを信じる。あの二人がやり切るまで……溜めるどす」

「溜める、ですわね」

リリアの唇も愉悦に歪んだ。足止めをされるほど、彼女たちの内に蓄積される力は増大していく。演算の外側にある「神話級の怒り」を溜め、二人はオーバーキルの準備を始めた。



ルシリウスの視界は失血で霞んでいたが、タクトを掲げる手は下がらない。

「……シノ様。そろそろ、紅茶の時間が過ぎてしまいます。冷めた紅茶は、シン様に出せませんので」

「……わかりました、すぐ打ちます」


シノはハンマーを合流点の真上に構えた。

結界の亀裂はすでに三十本を超え、天頂には大きな割れ目が生まれている。


「腕より先にハンマーは離しません」

「よろしい。……では、シン様のために」


ルシリウスの全生命力が重力となり、シノの腕に収束する。骨が軋むほどの重圧。

地脈の三つの音が、完全に重なった。

その瞬間に。

シノのハンマーが、猛然と振り下ろされた。

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