第12話 蜘蛛の巣の誕生と、甘い味
地下迷宮の湿った闇を抜け、地上の乾いた風が肌を撫でたその瞬間、アレス・ランバートの感覚は、数時間前とは決定的に変質していた。
世界が、あまりにも脆く見える。
視界は異常なほどに鮮明だ。舞い上がる砂塵の粒子一つ一つ、遠くで羽ばたく鳥の羽音、そして大気中に漂う希薄な魔素の流れまでもが、手に取るように知覚できる。 体内に渦巻くエネルギーは、暴れ馬のように血管を駆け巡り、皮膚の下で唸りを上げていた。
「……ッ、と!」
先頭を歩くアレスが、地下通路から地上へと続く何でもない石段で、わずかにバランスを崩しかけた。 とっさに、手すりの代わりとなっていた自然岩の突起に手をかける。 体を支えるための、無意識の動作。
ただ、それだけのはずだった。
バキィッ!!
乾いた破砕音が、静寂を切り裂く。
「……は?」
アレスが目を見開く。 彼が軽く手を添えただけの岩盤が、まるで乾燥したビスケットのように粉砕され、その指の形に深くえぐれ落ちてしまっていたのだ。 ボロボロと崩れ落ちる石の破片。その断面は、巨大な攻城兵器で打撃を受けたかのように、無惨に砕けている。
「ひっ……!?」
アレスが青ざめて自分の手を見る。 傷ひとつない。それどころか、岩を砕いた感触すら希薄だった。まるで、水を含んだ豆腐を握りつぶしたかのような、頼りない軽さ。
(これが……主より賜りし力……)
体の中から無限に湧き上がってくる力が、制御を離れて暴走しかけている。 自分が触れるもの全てを壊してしまいそうな、全能感と背中合わせの恐怖。
「……力の制御が追いついていないようだな」
隊列の最後尾。 自身の体重の倍はあろうかという巨大な荷物を背負いながら、涼しい顔で歩く少年――シンが、呆れたように告げた。
その口調に、先ほどまでの演技じみた敬語はない。 配下を導く、冷徹な王としての響きがあった。
「俺が授けた才能の断片と、細胞レベルでの若返り……。 それらは、お前たちの『種としての限界』を強制的にこじ開けたものだ」
シンは、アレスの砕いた岩を一瞥もしない。
「今の肉体は、以前とは別の生物に進化しかけている状態だと思え。 ……慣れろ。壊すのは敵だけにしておけ」
「は、はいッ……! 申し訳ございません!」
アレスたちは冷や汗を流しながら、直立不動で頭を下げた。
背後の少年は、表向きはただのFランク荷物持ち。 だがその実態は、自分たちを生かしも殺しもできる絶対的な支配者であり、世界の理そのもの。 その事実が、彼らの魂に心地よい緊張と、絶対的な恐怖を与えていた。
◇
冒険者ギルド・ネメシス支部。 その巨大なホールは今、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「おい、マジかよ……!?」 「Bランクダンジョンに、Sランクの変異種が出ただと!?」 「『不死王』……!? 書物にしか載っていない伝説の魔物じゃないか!」
カウンターに集まった冒険者たちが、どよめき、ざわめく。 ギルド長代理の男が、震える手でアレスが提出した「黒い結晶」を鑑定水晶にかける。
ブォンッ……!
水晶が、激しい深紅の光を放ち、魔力許容量を超えてピキピキとひび割れた。 測定不能。あるいは、測定限界突破。
「……間違いない。Sランク相当……いや、それ以上の魔力結晶だ! ギルド始まって以来の、歴史的快挙だぞ!!」
ギルド長の興奮した叫び声が、ホール全体に響き渡る。
ワァァァァァァッ!!
爆発的な歓声。天井が揺れるほどの拍手喝采。 Bランクダンジョンでの変異種発生は、放置すれば都市壊滅級の魔物災害に直結する大事件だ。それを未然に防ぎ、あまつさえ討伐してのけた彼らは、まさに都市の救世主。
若き英雄、アレス。 彼は集まった冒険者たちの中心で、称賛の嵐を浴びながら、愛用の魔剣を掲げて見せた。
「……ああ。苦戦したが、俺たちの敵ではなかった」
アレスの声は太く、自信に満ちているように聞こえる。その表情は、英雄としての威厳を湛えているように見える。 だが。 よく見れば、その笑顔は微妙に引きつり、額には玉のような脂汗が浮かんでいた。
そして、その視線はチラチラと、カウンターの隅――巨大な荷物の陰に隠れるようにしている、一人の少年の方を向いていた。
(……くっ、俺などが英雄気取りで……! シン様が後ろで見ておられるというのに、なんと滑稽な……! 恥ずかしい、死にたい……!)
アレスの内面は、羞恥心と申し訳なさでズタボロだった。
あれは俺が倒したのではない。シン様が指を鳴らし、時間を止め、ゴミのように処理した残骸を拾っただけだ。 神の御業を自分の手柄にするなど、冒涜にもほどがある。 穴があったら入りたい。いや、自分で穴を掘って埋まりたい。
だが、これも先刻、シン様から厳命された「設定」だ。
『あの姿――真の俺は、この少年の姿の兄である』 『普段の俺は力を封印された弟。いざという時だけ、影から兄が現れて敵を滅ぼす』
この「兄と弟」という関係性を守り抜き、シン様を表舞台の煩わしさから守ることこそが、今の彼に課せられた最大の任務。
「お、おい見ろよ! あいつだ!」
酔っ払った冒険者の一人が、カウンターの隅にいるシンを指差して嘲笑った。
「あのFランクの荷物持ち……シンとか言ったか? 生きて帰ってこれて運が良かったな!」 「ギャハハ! アレス様の金魚のフンやってて助かったな、雑魚が!」 「おい坊主、Sランクの魔物を見てションベン漏らさなかったかぁ? ママのミルクでも飲んで寝てな!」
ドッと湧く笑い声。 強者への称賛は、弱者への侮蔑とセットになることで、よりその輝きを増す。彼らはアレスを持ち上げるための踏み台として、シンを徹底的に貶める。
以前のアレスなら、一緒になって笑っていただろう。弱者は踏まれて当然。それがこの世界のルールだと思っていたからだ。 だが今は、その嘲笑を聞くたびに、アレスのこめかみにどす黒い青筋が浮かび上がり、拳が怒りで震えていた。
(貴様ら……! 誰に向かって口を利いている……!)
アレスの腸が煮えくり返る。
このお方こそが、真の支配者なのだぞ。お前らが崇める英雄など、この方の指先一つで消し飛ぶペットに過ぎないのだぞ。 その雑魚と呼ぶ少年が、その気になれば、このギルドごと、いやこの都市ごと瞬きする間に消滅させられると知ったら、貴様らはどんな顔をする?
殺気。 抑えきれない殺意が、アレスの全身から漏れ出し、周囲の空気をピリつかせる。
「……あ?」
近くにいた冒険者が、アレスの異様な雰囲気に気づき、顔を引きつらせた。 アレスが剣の柄に手をかけようとした、その時。
クイクイ。
背後から、そっとアレスの服の裾が引かれた。 振り返れば、シンが怯えたような上目遣いで見上げている。
「……ア、アレス様。報告は終わりましたか? 早く宿に戻って、荷物を降ろしたいのですが……重くて……」
弱々しい、か弱い少年の声。 だが、その声に含まれた微細な魔力波長は、アレスの脳髄に直接、絶対零度の命令を響かせた。
『――抑えろ。道化を演じきれ』
アレスはハッとして、喉まで出掛かっていた怒号を飲み込んだ。 主の演技を無駄にしてはならない。
「あ、ああ……そうだな。今日は疲れた。……帰るぞ」
アレスは逃げるようにギルドを後にした。 周囲は「おや、あのアレスが随分と丸くなったな?」「荷物持ち如きに気を使うとは、やはり英雄は器が違う」と勝手な解釈をしていたが、それ以上追求する者はいなかった。
◇
その夜。 『紅蓮の獅子』が拠点として借りている、ネメシスの一等地にある石造りの屋敷。 その地下室――かつて倉庫として使われていた、薄暗くカビ臭い六畳ほどの部屋に、一行は集まっていた。
「……狭いな」
シンがぽつりと呟いた。 その一言に、アレスとボルトスが弾かれたように平伏する。
「も、申し訳ありません! 我々の拠点はこの程度でして……」 「すぐに増築させます! 職人を手配して、シン様の玉座にふさわしい場所を……!」
だが、シンは首を横に振った。
「いや、人の手では遅すぎる。それに、地上の職人に我々の聖域を触らせたくはない」
シンは、カビの生えた石壁に、無造作に手を触れた。
「……俺がやる」
瞬間。 空間が、飴細工のようにぐにゃりと歪んだ。
物理的な壁が破壊されたのではない。空間そのものに、別の場所へと通じる「穴」が穿たれたのだ。
「【才能:次元切断】×【才能:異界創造】」
ズズズズズズ……ッ!
腹の底に響くような重低音。 開かれた穴の向こう側に、信じがたい光景が広がっていくのが見えた。
それは、この屋敷の地下ではない。土も岩もない。 シンが魔力で編み上げ、世界の理を書き換えて作り出した、この世界とは異なる座標に存在する「亜空間」。
「入れ」
シンに促され、アレスたちが恐る恐る穴をくぐる。
その先に広がっていたのは、息を呑むような威容だった。
どこまでも続く、鏡のように磨き上げられた黒曜石の床。 天井には、魔石で作られた偽りの星空が無限に広がり、冷ややかな光を投げかけている。 壁面には幾何学模様の「蜘蛛の巣」のレリーフが刻まれ、その最奥には、禍々しくも美しい漆黒の玉座が鎮座していた。
――拠点『地下宮殿』。
物理的な出入り口は存在しない。この空間は世界から隔離されたシンの腹の中。 外部からの干渉を一切受け付けない、完全なる聖域。
「こ、これは……」
ミラが腰を抜かす。 魔法というレベルではない。これは神による天地創造だ。
「ここを俺の『巣』とする」
シンは悠然と歩き出した。 その足音が、広大な空間にカツン、カツンと響き渡る。 そして玉座の前まで来ると、彼は振り返り、パチンと指を鳴らした。
シュウウゥ……。
シンの身体から、黒い煙のような魔力が立ち昇る。 15歳の、頼りなげな少年の姿が揺らぐ。骨格が軋み、筋肉が躍動し、背が伸びる。
擬態解除。
煙が晴れた時、そこに立っていたのは、少年ではなかった。 漆黒の髪、血の色を宿した深紅の瞳。 闇色のロングコートを纏い、全てを見下ろす魔王の如き、18歳の青年。
神域(Gランク)の始祖。
「……ふぅ。やはりこの姿は楽だ」
シンは玉座に深く腰掛け、足を組んだ。 本来ならば、地上でこの姿になれば、呼吸一つで周囲の魔素を吸い尽くし、国ごと滅ぼしかねない。 だが、ここはシン自身が創造した異界。シンの真の姿を受け止められる数少ない場所だ。
「アレス、ミラ、チェルシー、ボルトス。前へ」
重厚な声。 四人は、震える足で玉座の前に進み出た。 そして、一斉に跪く。本能が、そうしろと叫んでいた。
「我らの組織名は、レギオン【蜘蛛】とする。 ……貴様ら四人を、その最高幹部である『四天』に任命する」
「『四天』……!」
アレスたちがゴクリと喉を鳴らす。 その響きに、魂が打ち震えるほどの重みと名誉を感じたからだ。
「アレス、貴様は四天のリーダーだ。表の顔である『レギオンマスター』として、この街の有象無象を統率しろ」 「はッ! この命、組織のために燃やし尽くします!」
「ミラ、貴様は『サブマスター』。組織の内政と治療を担え」 「うふふ、裏切り者は魂ごと『浄化』して差し上げますわ」
「ボルトスは『守護者』。チェルシーは『諜報』。……それぞれの役割を果たせ」 「御意!」
配役は決まった。 シンは、ゆっくりと右手を掲げた。 その指先から、目に見えない無数の糸――【支配の神糸】が放たれ、四人の掌に刻まれた黒い『刻印』へと接続される。
「さて、仕上げだ。……お前たちの魂と、俺の思考を直結させる」
「……え?」
アレスたちが顔を上げる。 次の瞬間、シンが静かに告げた。
「――『起動』。精神感応網」
ドクンッ!!
四人の脳内で、何かが爆発的に繋がる音がした。 視界が開ける。思考が澄み渡る。 自分たちの脳裏に、シンの視ている景色、シンの感じている魔力の流れ、そして「主の絶対的な意思」が、濁流のように流れ込んできたのだ。
「あ、ああああ……ッ!?」 「凄い……! 頭の中に、シン様の御声が……!」
それは、個という壁を取り払われた感覚。 絶対的な上位者と意識が共有されるという、禁断の全能感と安心感。 孤独からの解放。
「これが『精神感応網』だ。 俺とお前たちを繋ぐ、絶対の回線。距離が離れていようと、俺の声は届く。お前たちの見たものは俺も見る」
シンの解説と共に、アレスたちの脳裏に、組織の構造図が鮮烈に焼き付けられる。
第零階層――心臓。 それはシン自身。無限の魔力を生み出し、組織全体へ血液のように送り出す源泉。
第二階層――主血管。 それがアレスたち四天。主から受け取った魔力を、さらに末端の組織へと行き渡らせるための太いパイプ 。
「この刻印は、ただの飾りではない。俺という巨大なシステムの端末だ」
シンは満足げに頷いた。 脳内の水晶板に、システムログが流れる。
【第1階層:構築完了】 【接続個体数:4名(アレス、ミラ、チェルシー、ボルトス)】 【レギオン【蜘蛛】、正常稼働】
「……ふむ。悪くない」
シンは口元を歪めた。
これで、手足となる強力な駒が完全にシステムに組み込まれた。 彼らはもう、裏切ることなどできない。思考のレベルで、シンの支配下にあるのだから。
「この刻印は、俺の眷属である証。そして、ネットワークへの接続端末だ。 ……励めよ、我が四天」
「ははッ!! 一生、この命を捧げます!」
四人は平伏し、シンの色に染め上げられた魂で忠誠を誓った。
シンはパチンと指を鳴らし、再び15歳の少年の姿へと戻った。
シュウウゥ……。
黒い霧が晴れ、玉座には先ほどまでの魔王ではなく、あどけない少年が座っていた。 溢れ出ていた覇気がスゥッと消え、無害なFランクの気配になる。
「……ふぅ。やはりこの姿は窮屈だな」
シンが肩を回すと、アレスたちが弾かれたように顔を上げ、悲痛な面持ちで駆け寄ろうとした。
「シ、シン様! ご無理をなさらず!」 「お体の制限……ああ、なんと痛ましい……!」
ミラが涙ぐみ、ボルトスが盾を構え直す。 彼らの脳裏には、前回の啓示が深く刻み込まれていた。『地上の魔素濃度では、全力を出せば国が滅ぶ。ゆえに力を封印し、弟として振る舞う』という設定が。
「主が力を抑えておられる間、我らがその手足となり、盾とならねば……!」
アレスが拳を握りしめ、使命感に燃えている。 シンはその過剰な反応を見て、内心で苦笑した。
(……よく調教されている。これなら地上でもボロは出すまい)
シンは玉座から飛び降り、ボロボロのマントを羽織り直した。
「心配するな。……それより、地上に戻って飯にするか。 たまには、甘いものでも食いたい気分だ」
◇
数分後。 ゲートを通り、屋敷を経由して地上へ戻った一行。 ネメシスの大通りに面した、高級カフェのオープンテラスに、Fランクの少年と、フルプレートの鎧を着た英雄アレスが席についていた。 違和感の塊のような二人組に、周囲の客が遠巻きに注目している。
「ご注文をどうぞ」 「……俺は、チョコレートアイスだ」
しばらくして、店員が戻ってきた。 シンの前に置かれたのは、白いアイスクリームだった。
「……あれ? ヴァニラだ。チョコを頼んだんだが」
シンがボソリと呟いた、その瞬間。
バンッ!!
アレスが拳でテーブルを叩き割った。
「貴様ァァァァァァ!! 万死に値するゥゥゥ!!」
アレスが立ち上がり、激昂する。 店員が悲鳴を上げて腰を抜かす。
「我らが……い、いや、我が弟分に対し、オーダーミスだと!? チョコと言ったはずだ!! なぜ白ヴァニラだ!? 貴様の耳は飾りか!? それともレギオンへの反逆か!?」
アレスの全身から、Aランク相当の殺気が噴き出す。 店内の空気が凍りつき、他の客たちが悲鳴を上げて逃げ出す。
「ひぃッ! も、申し訳ございませんアレス様! すぐに、すぐに作り直しますからぁッ!」
「遅いッ! 弟君の『甘いものが食いたい』というささやかな願いを、貴様は踏みにじったのだ! その罪、店ごと消し炭にして償わせてやる!」
アレスの手に紅蓮の炎が灯る。本気だ。 力を封印している(という設定の)主の代わりに、自分が害虫を排除しなければならないという過剰な使命感が暴走している。
「……おい、アレス。座れ」
シンの一言。 瞬間、アレスは「スンッ」と真顔になり、炎を消して直立不動で着席した。
シンは、目の前のヴァニラアイスをスプーンですくい、口に運んだ。 冷たくて、甘い。
「……まあ、ヴァニラも悪くない」
その一言を聞いた瞬間、アレスは子供のように顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
「あ、ありがたき幸せェェェェ!! 慈悲深い……なんと慈悲深いお方だ……!!」 「注文を間違えた愚民すら許し、あまつさえその不手際を楽しむとは……! これぞ王の器! 万物を包み込む神の度量!!」
大の大人が、カフェのテラスで号泣している。 その異様な光景に、通りがかりの市民たちが引いているが、アレスには関係ない。 シンは苦笑しながら、冷たいアイスを口に運んだ。
別次元に作られた秘密の玉座。 理をねじ曲げた禁忌のギフト。 そして、ネットワークで繋がれた狂信的な部下たち。
(……まあ、Fランクの生活も、退屈はしなさそうだ)
始祖の気まぐれから始まった国盗りの物語は、こうして甘い味と騒がしい忠誠と共に、本格的に動き出したのである。
ここまで読んで「面白い!」「長いけど楽しめた!」と思っていただけたら、ページ下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマーク登録をしていただけると、作者は疲れも吹き飛ぶほど喜びます。
明日(大晦日)も18時過ぎに更新予定です。
年末年始もガッツリ更新しますので、引き続きよろしくお願いします!




