第11話 神の座、あるいは共犯者の契約
ドサァァァァァァッ……!!
世界に色が戻った瞬間、玉座の不死王が砂の山となって崩れ落ちた。 核を失い、存在維持の魔力を絶たれた肉体は、一瞬にして数千年の時を受け止め、風化消滅したのだ。 王冠と杖だけが、虚しく瓦礫の上に転がる。
「はっ……、ぁ……!?」
床に縫い留められていたアレスが、金縛りから解かれ、荒い息を吐き出す。 心臓が早鐘を打ち、全身から脂汗が噴き出す。 動ける。声が出る。 だが、思考は恐怖に染め上げられ、指一本動かす気力が湧かない。
ゆっくりと振り返るシンの姿は、18歳の青年のままだった。 漆黒の髪、深紅の魔眼、そして見る者を圧倒する魔王の威圧感。 さっきまでの、弱々しいFランクの少年はどこにもいない。
カツン、カツン。
死刑執行の足音が迫る。 アレスたちは、蛇に睨まれた蛙のように縮こまることしかできない。 ミラは涙を流し、ボルトスは盾の陰に隠れるように震え、チェルシーは視線を合わせることすらできずに俯いている。
「ひっ……あ、ああ……」
アレスはガタガタと震えながら、床を這って後ずさりしようとする。 だが、背中はすぐに壁にぶつかる。 逃げ場はない。 眼前に立つ深淵が、冷酷に見下ろしている。
「……殺さ、ないで……」
アレスの口から漏れたのは、掠れた、情けない声での命乞いだった。 プライドも、名声も、英雄への夢も、どうでもいい。 ただ生きたい。 この絶対的な捕食者に、食われたくない。
だが、降り注いだ言葉は、予想外のものだった。
「……殺しはしない」
シンは、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。 その背後から、ダンジョンの天井を突き抜けて差し込むかのような、神々しい魔力の光が溢れ出す。 幻覚ではない。圧倒的なオーラが視覚化され、後光のように彼を包み込んでいるのだ。 その表情には、先ほどの残虐さは微塵もない。 迷える子羊を見守る聖人のような、穏やかで、慈悲深い微笑み。
「貴様らはよく頑張った。恐怖に耐え、最後までここに留まった。……その勇気ある魂に、俺は感銘を受けたんだ」
嘘だ。 逃げようとしたことも、無様に命乞いをしたことも、失禁したことも知っている。 だが、その瞳を見ていると、そんな事実はどうでもよくなる。 深紅の瞳が、心の奥底にこびりついた「罪悪感」や「劣等感」を、優しく溶かしていくのだ。
(あぁ……なんだ、この感覚は……)
アレスの胸に、熱いものが込み上げてくる。 これまで重ねてきた悪行。他人を蹴落とし、弱者を虐げてきた罪。 それら全てが、この光の前では些細なことに思えてくる。 許されている。 この絶対的な存在が、自分の全てを受け入れ、肯定してくれている。
「俺はな、貴様らのような『可能性』が好きだ」
シンの手が、アレスの頬に触れる。 冷たいはずのその温度が、魂を焼くほどに温かく感じる。
「貴様らは弱い。愚かで、欲深くて、浅はかだ。……だが、それでいい」
甘い囁きが鼓膜を撫でる。 それは毒だ。依存性の高い、魂の麻薬。
「その不完全さこそが、貴様らが俺の『手足』となる資格だ。……俺に全てを委ねろ。そうすれば、もう迷うことも、恐れることもない」
それは悪魔の契約だった。 思考を放棄し、自由を捨て、ただ従うだけの道具になれという宣告。 だが、アレスにとってそれは、この上ない「救済」だった。 自分で考えなくていい。強がって虚勢を張らなくていい。 この絶対的な王に従っていれば、自分は永遠に安泰なのだ。
「あ……、あぁ……」
アレスの目から、涙が溢れ出した。 恐怖の涙ではない。 神に出会った信者が流す、法悦の涙だ。
「あなた様は……神、ですか……?」
「神ではない。……だが、貴様らの『世界』にはなってやれる」
シンはゆっくりと立ち上がり、右手を掲げる。
「よろしい。ならば、契約の証を授けよう」
指先から、黒紫色の魔力が糸のように伸びる。 それは四人の掌へと吸い込まれ、複雑な幾何学模様――蜘蛛の紋章を描いた。
【権能発動:忠誠の刻印】
ジュウウウウウウッ……!
魂に焼き印を押される音。 だが、痛みはない。むしろ、主との繋がりが深まる快感に、四人の体は打ち震えていた。
「……契約は成立だ。報酬として、お前たちの『限界』を壊してやる」
シンの指先から、莫大な魔力がアレスへと流れ込む。 それは、数万年かけて蓄積した「希少才能」の一部。 そして、【肉体回帰】による肉体の最適化。
「ぐ、ぐァァァァァァ!!」
アレスが絶叫する。 骨がきしみ、筋肉が再構築され、魔力回路が強制的に拡張される激痛。 だが、その痛みの後に訪れたのは、奇跡だった。
ボシュッ。
アレスの切断された右肘から、筋肉と骨が高速で再生し、新しい腕が生え変わったのだ。 それだけではない。 二八歳だった彼の肉体が、細胞レベルで若返り、最もポテンシャルの高い「二〇歳」の状態へと再構築された。
無精髭は消え失せ、疲れが見え始めていた肌には若々しい張りと神々しい光が宿る。 傷だらけだった鉄鎧は、彼の魔力に呼応して真紅の魔導甲冑へと変貌を遂げ、背中には炎の翼のようなオーラが噴き出している。
そして、脳裏に「世界の理」からの通知が響く。
対象:アレス(20歳) 位階:【B】 → 【A】(英雄級) 【現才能:【紅蓮の炎】】 → 【新才能:【紅蓮の炎・極】】 第一恩恵:【不滅の炉心】 共通恩恵:【肉体回帰】
「……こ、これは……」
アレスは自分の再生した右手と、若返った肌を見つめた。 力が溢れてくる。全盛期? いや、それ以上だ。 自身の炎が爆発的に強化されただけでなく、心臓の奥に「尽きることのない魔力炉」が埋め込まれたのを感じる。 これならば、何日戦い続けても息切れすることはない。
「腕が……生えた……? それに、魔力が尽きない……!」
アレスは、涙を流しながら、再び深く頭を下げた。 その目には、もはやかつての傲慢な光はない。 あるのは、狂信的なまでの忠誠心のみ。
「……感謝いたします、我が主」
アレスの声は、歓喜に震えていた。
「我が剣は貴方様のために。我が命は貴方様の盾に。……この身の全てを、貴方様に捧げます」
ミラも、自身の体に起きた変化に震えていた。 彼女の二七歳の肉体が、光に包まれ、輝きを取り戻していく。 年齢詐称のために厚塗りしていた化粧が剥がれ落ち、その下から現れたのは、シミ一つない透き通るような肌。 成熟した大人の女性だったミラが、見た目だけは可憐な「一七歳」の美少女へと変貌を遂げたのだ。 その手には聖書が握られ、背後には神々しい光の輪が出現している。
対象:ミラ(17歳) 位階:【B】 → 【A】(英雄級) 【現才能:【聖域】】 → 【新才能:【聖域・極】】 第一恩恵:【代償の天秤】
「私の肌が……魔力が……! まるで、十代の頃のようですわ……いいえ、それ以上……!」
彼女は理解した。新たに与えられた【代償の天秤】の力を。 それは、他者の命を奪い、別の者へ与える禁断の回復術式。 サディストである彼女の本性に、これほど相応しい力はない。
「素晴らしいですわ……! これが、神の力……! 貴方様こそが、私の唯一神ですわ!」
ボルトスもまた、驚愕に目を見開いていた。 三三歳の傷だらけだった肉体が、二三歳の全盛期の肉体へと若返っている。 無骨だった鉄鎧は、輝くような白銀の全身鎧に変わり、手にした大盾は城壁のように巨大化していた。
対象:ボルトス(23歳) 位階:【B】 → 【A】(英雄級) 【現才能:【金剛の守護】】 → 【新才能:【金剛の守護・極】】 第一恩恵:【物理反射】
「……硬い。今の俺の身体は、オリハルコンよりも硬い。これなら、主への攻撃をすべて跳ね返せる……!」
ボルトスは盾を構え、不動の姿勢で主に敬礼した。
そして最後、チェルシー。 二四歳だった彼女の肉体が縮み、最も敏捷性に優れた「一五歳」の少女の体へと再構築される。 殺伐とした盗賊の服装は、愛らしいフリルのついたメイド服へと変わり、手にはお盆とカップケーキが乗っている。 だが、その足元の影からは、無数の刃が覗いていた。
対象:チェルシー(15歳) 位階:【B】 → 【A】(英雄級) 【現才能:【影移動】】 → 【新才能:【影移動・極】】 第一恩恵:【影渡り】
「……軽い。影の中を、空間ごと渡れる……」
彼女は自分の手を見つめ、戦慄と歓喜に震えた。 メイド服という無害な外見。だが、その実態は影を操る死神。 暗殺者として、これ以上の装備はない。
「素晴らしい……! ありがとうございます、我が主よ!」 「一生、この命を捧げます!」
四人は口々に忠誠を叫び、名を讃えた。 その様子を、慈愛の笑みを貼り付けたまま冷ややかに観察する瞳がある。
(……ちょろいな。恐怖で心を折ってから、優越感と力を与えれば、人間は簡単に依存してくる)
洗脳完了。 これで手足となる強力な駒が手に入った。 しかも、彼らは自分が「洗脳されている」などとは露ほども思っていない。自らの意思で、神に選ばれた戦士として忠誠を誓っているのだ。 これこそが、【慈悲なき収穫】の第一歩。
「……さて。儀式は終わりだ」
シンは満足げに頷くと、パチンと指を鳴らした。
シュウウゥ……。
シンの身体から、黒い煙のような魔力が立ち昇る。 18歳の魔王の姿が揺らぎ、骨格が軋み、背が縮んでいく。 圧倒的な覇気が急速に収束し、無害な器の中へと封じ込められていく。
「な……!?」
アレスたちが息を呑む前で、煙が晴れた時、そこに立っていたのは――。 どこにでもいそうな、黒髪の少年。 15歳の、Fランク冒険者としてのシンの姿だった。
「……ふぅ。やはり地上では、このサイズが落ち着くな」
少年姿のシンは、軽く肩を回しながら、跪く四人を見下ろした。 その声は、18歳の時の重厚な響きではないが、瞳の奥にある冷徹な光だけは変わっていない。
「……一つ、再確認しておく」
シンは自身の胸に手を当てた。 15歳の姿に戻った途端、溢れ出ていた覇気がスゥッと消え、無害な少年の気配になる。
「地上では、この『15歳の器』でいる限り、本来の力の30パーセントほどしか出せん。人間の規格に合わせて出力を絞っている」
「30パーセント……!?」
アレスが驚愕に声を裏返した。 先ほど目の当たりにした、時間を止め、Sランクを瞬殺した神のごとき力が、たったの三割? それでは、本気を出せば一体どうなるというのか。
「ああ。地上の魔素濃度は薄すぎる。 この場所で俺が100パーセント(18歳の姿)になれば、周囲の魔素はおろか、大気中の生命力まで根こそぎ吸い尽くしてしまう。 ……俺がただ歩くだけで、この国は魔力枯渇を起こして滅びるだろう」
「く、国が……滅ぶ……!?」
アレスたちは戦慄した。 比喩ではない。このお方は、歩くブラックホールなのだ。 力を隠しているのは、弱者を欺くためだけではない。世界そのものを壊さないための、安全装置だったのだ。
「俺はこの世界を『牧場』として管理したい。……家畜を飼う檻を、家主が壊してどうする」
シンは、悪戯っぽく人差し指を立てた。
「だから、表向きは今まで通り、俺を『Fランク冒険者』として扱え」
「は、はい……」
「そして、こう設定しろ。 さっきの姿――真の俺は、この少年の姿の『兄』である、と」
「兄……でございますか?」
「そうだ。 『偉大なる兄は、強大すぎる力を制御するために地下宮殿に籠もっている』。 『地上にいる弟は、兄の言葉を伝える唯一の代弁者であり、守られるべき器である』。 ……どうだ? これなら、俺がFランクとして振る舞う理由にも箔がつくだろう?」
シンはニヤリと笑った。 それは、世界を騙すための完璧なシナリオ。
「普段は俺を『弟君』として守れ。そして、俺の命令は『兄』からの神託として受け取れ。 ……いいな?」
「御意のままに、シン様……!」 「いえ、弟君様……!」
アレスたちは深く頭を垂れ、その設定すらも神の啓示として受け入れた。
彼らの中で、新しい忠義の形が確立される。 地下に座す『絶対的な支配者(兄)』と、地上を歩く『守るべき依代(弟)』。 もし弟君の身に何かあれば、抑えが効かなくなった兄君が顕現し、国ごと消し飛ばしてしまうかもしれない。
(守らねば……! 俺たちの命に代えても、この「弟君」を守り抜かねば……!)
アレスの瞳に、悲壮なまでの決意が宿る。 地獄の釜の底で、最強にして最悪の「過保護な共犯者たち」が生まれた瞬間だった。
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