第13話 古き竜たちの|跪拝《きはい》あるいは黄金と鉄の契約
「ううっ……うぐッ……!! なんと……なんと慈悲深い……!!」
城塞都市ネメシスの目抜き通り。 午後の柔らかな陽光が石畳を黄金色に染め上げる高級カフェのテラス席で、一人の男の咽び泣く声が響き渡っていた。
声の主は、つい先ほどBランクダンジョンから生還し、街の英雄として凱旋したばかりの『紅蓮の獅子』リーダー、アレス・ランバートである。 彼は白銀の全身鎧をガチャガチャと鳴らしながら、周囲の白い目も憚らず、顔をくしゃくしゃにして地面に涙の池を作っていた。
「アレス様……? ど、どうされたのですか……?」
通りがかりの市民が、おっかなびっくり覗き込む。 無理もない。つい数時間前まで、魔獣の首を刎ね飛ばし、傲岸不遜な笑みを浮かべていた鬼神のごとき男が、今は迷子の幼児のように泣きじゃくっているのだから。
その原因は、あまりにも些細で、そしてアレスにとってはあまりにも重大な「事件」にあった。
カフェの店員が、主であるシンに対して、注文とは異なる品――チョコレートではなく「白磁の如き氷菓」を恭しく差し出したこと。 そして、それに対してシンが、怒るどころか「……まあ、ヴァニラも悪くない」と、仏のような慈悲をもって許容したこと。
たったそれだけの出来事が、アレスの狂信的な忠誠心に火をつけたのだ。
「注文を間違えた愚民すら許し、あまつさえその不手際を楽しむとは……! これぞ王の器! 万物を包み込む神の度量!!」
アレスはテーブルに突っ伏し、拳で天板を叩いた。 ガンッ! という鈍い音が響き、頑丈なオーク材のテーブルに亀裂が走る。
「ああ、俺ならば即座にあの店員の首を刎ねていたでしょう……! なんと浅ましい俺の魂! それに比べて、シン様の御心の広さは……まるで大海原のようだァァッ!!」
「……アレス、うるさい。アイスの甘みが台無しになる」
対面に座る黒髪の少年――シンが、スプーンを口に運んだまま、心底鬱陶しそうに呟いた。 Fランクの冒険者を装う少年の瞳は、冷ややかにアレスを見下ろしている。 だが、その冷徹な視線さえも、今のアレスにとっては至上のご褒美であった。
「申し訳ございません! ですが、この胸から溢れる感動が止まらず……うぐッ!?」
アレスが鼻水を垂らして絶叫しようとした、その時だった。
ヒュッ。
風を切る音さえ置き去りにする、鋭利な殺気。 刹那、アレスの鼻先の地面に、一本の極細の「縫い針」が深々と突き刺さった。
魔素を帯びて鋼鉄の如く硬化した古代の石畳を貫通し、銀色の残像が震えている。 それは警告であり、明確な「黙れ」という意思表示だった。
「……お静かに願います、若き英雄殿」
凛とした、しかし老獪な響きを持つ声が上から降ってきた。 アレスが涙目のまま顔を上げると、そこには対照的な二人の男が立っていた。
一人は、口髭を蓄え、仕立ての良いスーツを纏った初老の紳士。 鋭い眼光は猛禽類のように鋭く、ただ立っているだけで周囲の空気をピリつかせるほどの威圧感を放っている。 冒険者ギルド総帥、ヴィンセント・グレイ。
そしてもう一人は、枯れ木のように痩せ細った、見るからに寿命が尽きかけの老人だ。 ボロボロのローブを纏い、杖に縋る姿は「死神」を連想させる。だが、その細い指先には、地面に刺さったものと同じ「針」が数本、手品のように挟まれていた。 商業ギルドの最高顧問であり、この国の経済を裏で操る伝説の商人、ジェイド・バーンズ。
ネメシスの武力と経済、その頂点に君臨する二大巨頭。 英雄と呼ばれるアレスといえども、普段なら拝謁すら許されない雲の上の存在だ。
「な……!? ギルド総帥ヴィンセントに、ジェイドだと!?」
アレスが目を剥いた。涙が一瞬で引っ込む。 彼らがなぜ、こんな下町のカフェに? アレスの脳裏に警鐘が鳴り響く。もしや、主であるシンの正体に勘付き、排除しに来たのか?
アレスの手が、反射的に背中の魔剣へと伸びる。 殺気。 カフェのテラス席が一瞬にして戦場のような緊張感に包まれ、周囲の客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「主の前で、そのように泣き喚くなど……品位が疑われますぞ。 騒音は商談の邪魔にしかなりません」
老人のジェイドが、ゴホゴホと激しく咳き込みながらも静かに諌める。 その言葉を聞いた瞬間、アレスの動きが止まった。
(……主の前で、だと?)
アレスは反射的に「部外者が口を出すな」と反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。 二人の視線が自分ではなく、その奥――騒動を無視して優雅にヴァニラアイスを食べているFランクの少年、シンに向けられていることに気づき、戦慄したからだ。
その視線にあるのは、敵意ではない。 畏怖。 そして、狂おしいほどの崇拝。
「……場所を変えましょう。ここでは『目』が多すぎる」
ヴィンセントが短く告げ、店員に金貨を一枚弾いた。 そして、流れるような所作でシンを先導し始めた。その態度は、まるで一国の王を迎える礼賓のようであり、老いた獣が新たな群れのボスに頭を垂れる姿そのものであった。
シンは最後の一口を飲み込み、ナプキンで口元を拭うと、音もなく立ち上がった。 その瞳の奥で、深紅の光が微かに揺らめいたのを、アレスは見逃さなかった。
(……やはり、この方々も「気づいて」しまわれたか)
アレスは剣から手を離し、主の背中を追った。 この街の頂点に立つ二人の怪物が、今まさに、真の支配者の軍門に下ろうとしているのだ。
◇
数分後。 一行は、『紅蓮の獅子』が拠点としている屋敷の地下室にいた。 湿ったカビの臭いが鼻をつく、薄暗い倉庫。 だが、シンにとっては地上で最も落ち着く場所への入り口だ。
「……地上は窮屈だ。少し、羽を伸ばさせてもらうぞ」
シンが何もない石壁に手を触れる。 指先から漆黒の魔力が滲み出し、空間そのものが飴細工のようにぐにゃりと歪んだ。
「【才能:次元切断】×【才能:異界創造】」
ズズズズズズ……ッ!
腹の底に響くような重低音と共に、空間に亀裂が走り、人が通れるほどの大きさの「穴」が穿たれた。 その向こう側に見えるのは、この世の景色ではない。 底知れぬ闇と、妖しく輝く紫色の燐光。
「入れ」
シンに促され、ヴィンセントとジェイド、そしてアレスたちは穴をくぐる。 一歩踏み出した瞬間、強烈な浮遊感と吐き気が襲う。 三半規管が狂い、上下左右の感覚が消失する。これは単なる移動ではない。世界の座標そのものを跨ぐ行為だ。
視界が開けた先に広がっていたのは、地上の常識を覆す光景だった。
――『地下宮殿』。
無限に広がる黒曜石の空間。 天井には魔石で作られた偽りの星空が輝き、壁面には幾何学的な蜘蛛の巣のレリーフが刻まれている。 空気の密度が違う。呼吸をするたびに、肺が高純度の魔素で満たされ、焼けるように熱い。
「こ、ここは……」 「異界……いや、固有結界か? なんと濃密な魔素だ……」
ネメシスの頂点に立つ二人も、この光景には絶句していた。 ジェイドは杖をつく手も忘れ、ヴィンセントは髭を撫でることすらできずに立ち尽くす。
シンは悠然と歩き出した。 その足音が、広大な空間にカツン、カツンと響き渡る。 そして最奥に鎮座する、禍々しくも美しい漆黒の玉座の前まで来ると、彼は振り返り、パチンと指を鳴らした。
シュウウゥ……。
シンの身体から、黒い煙のような魔力が立ち昇る。 15歳の、頼りなげな少年の姿が揺らぐ。 骨格が軋み、筋肉が躍動し、背が伸びる音。 皮膚が一度溶解し、より強靭な形へと再構築されていくグロテスクな変貌。
擬態解除。
煙が晴れた時、そこに立っていたのは、少年ではなかった。
漆黒の髪、血の色を宿した深紅の瞳。 闇色のロングコートを纏い、全てを見下ろす魔王の如き、18歳の青年。 神域(Gランク)の始祖。
ドォォォォン……!
変身と同時に、圧倒的な覇気が解放された。 それは物理的な重圧となって空間を圧迫し、ヴィンセントたちの膝を強制的に折らせる。
「……ふぅ。やはりこの姿は楽だ」
シンは玉座に深く腰掛け、足を組んだ。 その深紅の瞳が、眼下に跪く二人を見下ろす。
「よく来たな、ジェイド、ヴィンセント。 ……俺の『正体』に気づいた褒美だ。特別にこの聖域へ招いてやった」
シンは、さも当然のように彼らを見下ろした。 まるで、飼い犬の帰りを労うかのように。
「はッ……! 恐悦至極に存じます」
ジェイドが、老骨に鞭打って額を床に擦り付けた。 その目には涙が浮かんでいる。恐怖ではない。 生涯をかけて追い求めてきた「絶対的な価値」――金や権力など塵に等しいと思わせるほどの、圧倒的な存在に出会えた感動の涙だ。
「我々が積み上げてきた金も、権力も、この御方の前では塵芥に等しい……。 ならば、従うのが生物としての正解でしょう」
ヴィンセントが脂汗を流しながら、しかし恍惚とした表情で言った。 彼らは強者だ。だからこそ、理解してしまったのだ。 目の前の玉座に座る存在が、世界の理そのものを書き換える者であることを。
「さて、ジェイド、ヴィンセント。お前たちの忠誠は本物だ。……褒美を与えよう」
シンが、つまらなそうにジェイドを見やる。 ゴホッ、ゴホッと咳き込む老体。杖がなければ立つこともままならない、衰えきった肉体。
「枯れ木のようなその肉体、見ていられん」
シンが、気だるげに指を鳴らした。 空中に、赤黒い幾何学模様が浮かび上がる。 それは、アレスたちも刻まれた【忠誠の刻印】。 支配と超進化の術式。
「お前たちを、我らが組織レギオン【蜘蛛】の最高幹部…… 『十王』の第一席『黄金の支配者』、および第二席『軍神』に任ずる」
ヒュンッ。 刻印が二人の手の甲へと吸い込まれていく。 同時に、シンの膨大な魔力が『蜘蛛の糸』を通じて二人の魂へと直接注ぎ込まれた。
「ぐ、おおおおおおッ……!?」 「熱い……! 体が、作り変えられていく……!」
二人が呻き声を上げる。 それは激痛だった。 老化した骨が内側から砕かれ、萎縮した筋肉が引きちぎられ、新たな細胞が爆発的な速度で増殖していく痛み。 だが、その痛みの奥底には、脳髄を痺れさせるような甘美な快楽が潜んでいた。
バキッ、ボキボキッ……!
不気味な破砕音が室内に響く。 ジェイドの曲がった背骨が、逆再生するように伸びていく。 枯れ木のように痩せ細った腕に、筋肉繊維が急速に編み込まれ、瑞々しくもしなやかな肉体が蘇る。 生命の砂時計が反転する。顔を覆っていた深い皺が剥がれ落ち、その下から現れたのは、透き通るような白磁の肌だった。
「こ、これは……」
光が収まった時、そこに立っていたのは、ヨボヨボの老人ではなかった。 身長一八〇センチを超える、流れるような銀髪の美青年。 その顔立ちは、かつての文明が求めた黄金比を体現するような、完成された「美」を誇っていた。 八八歳の実年齢から、最も脳と肉体が活性化する二五歳へ。 片眼鏡の奥にある瞳は、冷徹な理知と、女性を一瞥で虜にするような魔性を宿している。
傍らには、五〇代の「最も男が脂の乗る時期」まで若返り、覇気を漲らせたヴィンセントの姿があった。 その肉体は鋼のように引き締まり、ギルド総帥としての威厳に、全盛期の剣聖としての鋭さが加わっている。
「……おお! 古傷の痛みが消えました! 視界の鮮明さが段違いだ……これが本当の『全盛期』……!」
ジェイドが、低く甘い美声で感涙にむせぶ。 その美貌には、傍らで見ていたミラですら、思わず頬を染めるほどだった。
「素晴らしい……。若返りの秘術など、御伽噺だと思っていました。 ……この肉体、この力……一生、ついていきます!!」
二人は改めて、シンの足元に額を擦り付けた。 ネメシスの経済を支配する美青年と、武力を統べる古強者。 組織レギオン【蜘蛛】に、最強の「財布」と「権力」が備わった瞬間だった。
だが、ジェイドがふと我に返り、困惑の表情を浮かべた。
「しかし、シン様……。この若返った姿では、明日からの商談に支障が出ます。 ジェイド・バーンズは『老獪な老人』として知られておりますゆえ、突然美青年になっては……」
「愚問だ」
シンは退屈そうに指を振った。 その指先から、陽炎のような歪んだ波紋が広がり、二人の体を包み込む。
「【才能:認識改竄】」
世界に干渉する音がした。 シンの魔力が、周囲の空間だけでなく、ジェイドたちを見る「他者の脳」に直接作用する術式を編み上げる。
「貴様らの姿は、世界には『若返った姿こそが本来の彼らである』と認識させた。 愚民どもは、お前たちが老人だった記憶を勝手に補正する。 『あの二人は実は魔法で姿を偽っていた』あるいは『神の祝福を受けた』と、都合よく解釈するようにな」
「おお……! 隠すのではなく、真実としてねじ込むとは……! まさに神の御業!」
ジェイドは、自分の滑らかな頬を撫でながら、改めて驚嘆した。 若返りのメリットだけを享受し、社会的デメリットは世界の理をねじ曲げて解消する。 このお方にかかれば、不可能など存在しないのだ。
「よし。挨拶は済んだな」
シンは満足げに頷くと、アレスに視線を移した。
「アレス、仕事だ。ジェイドとヴィンセントが加わった祝いに、少し『掃除』をしてこい」
「掃除……とは?」
アレスが背筋を伸ばす。 シンは深紅の瞳を細め、冷酷な笑みを浮かべた。
「スラム街だ。あそこを汚染している不浄……『黒牛団』のボス、ランドルフ。そいつを、掃除してこい」
「ランドルフ……あの、スラムを牛耳る愚連隊の長ですか?」
「ああ。目障りだ」
シンは短く吐き捨てた。 ランドルフ。その名は、裏社会で凶暴な男として知られている。だが、シンにとっては路傍の石ころに過ぎない。 排除するか、あるいは――。
「俺の庭に、野良犬はいらん。……躾け直すか、処分するかはお前に任せる」
「御意! このアレス、必ずやその害虫を駆除して参ります!」
アレスが拳を胸に当て、吼える。 その顔には、新たな力への自信と、主の役に立てる喜びが満ち溢れていた。
「行け。……レギオンの旗揚げだ」
シンの号令が、地下宮殿に響き渡る。 十王の誕生。そして、組織の拡大。 世界を裏から支配する巨大な蜘蛛の巣が、今まさに広がり始めた。
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