第12話 甘い味と狂信者たち
地下迷宮からの帰還。 それは、新生「紅蓮の獅子」にとって、生まれたばかりの赤子が歩行を学ぶような、危うくも劇的な順応の過程だった。
「お、っと……!」
先頭を歩くアレスが、地下通路の何でもない石段でつまずきそうになり、とっさに手すりの岩壁に手をかけた。
バキィッ!
乾いた破砕音が響く。 アレスが軽く手を添えただけの岩盤が、まるで乾燥したビスケットのように粉砕され、その指の形に深くえぐれ落ちてしまったのだ。
「ひっ……!?」
アレスが青ざめて自分の手を見る。 傷ひとつない。それどころか、岩を砕いた感触すら希薄だった。まるで豆腐を握りつぶしたかのような軽さ。 体の中から無限に湧き上がってくる力が、皮膚の下で暴れまわっているのがわかる。
「……力の制御が追いついていないようだな」
最後尾を歩くシン――十五歳の少年の姿に戻った彼が、呆れたように告げた。 その口調に、先ほどまでの演技じみた敬語はない。配下を導く、王としての冷徹な響きがあった。
「俺が授けた【ギフト:肉体回帰】と新たな【ゼロ】。それらは、お前たちの種としての限界を強制的にこじ開けた。今の身体は、以前とは別の生物に進化しかけている状態だ」
「べ、別の生物……」
ボルトスがゴクリと喉を鳴らす。 彼もまた、自身の背中に背負ったタワーシールドの重さを感じていなかった。総重量八〇キロを超える鉄塊が、羽毛のように軽いのだ。 ミラも、チェルシーも同様だった。視界が鮮明すぎて空気中の塵まで見える。聴覚が鋭敏になりすぎて、遠くの水滴の音が耳元で鳴っているように感じる。
「慣れろ。……俺の手足となるなら、その程度の力に振り回されるな」
シンは淡々と歩きながら、自身の掌を見つめた。
「今の俺も、この『15歳の器』でいる限り、本来の力の30パーセントほどしか出せん。人間の規格に合わせて出力を絞っているからな」
「さ、30パーセント……!?」
アレスが驚愕に声を裏返した。 あの、時間を止めた神のごとき力が、たったの三割?
「ああ。地上の魔素濃度は薄すぎる。この場所で俺が100パーセント(18歳の姿)になれば、周囲の魔素はおろか、生命力まで根こそぎ吸い尽くしてしまうだろう。……俺が深呼吸を一つするだけで、この国くらいは滅ぶぞ」
「く、国が……滅ぶ……!?」
四人は戦慄した。 比喩ではない。このお方は、歩くブラックホールなのだ。 だからこそ、普段は「Fランクの少年」という殻を被り、力を封印している。
「俺はこの世界で目立ちたくない。面倒ごとはお前たちが処理しろ。そのための力だ」
「は、はいッ! 肝に銘じます!」
アレスたちは直立不動で敬礼した。
「それと、もう一つ。……その姿で街を歩くわけにはいかんな」
シンが指差したのは、彼らの容姿だ。 アレスは二十歳、ミラは十七歳、チェルシーに至っては十五歳。若返った彼らがそのまま街に入れば大騒ぎになる。
「隠蔽する」
シンが右手をかざす。 指先から、目に見えない無数の糸が放たれた。それはアレスたちの肉体ではなく、彼らを取り巻く「空間」と「因果」に絡みつく。
「【ゼロ派生:認識阻害】」
世界が、ぐにゃりと歪んだ気がした。 だが、アレスたちが自分の体を見ても、何も変わっていない。
「シン様? 何も変わっていないようですが……」
「お前たちからはな。だが、他人からは『以前と同じ』に見えるよう、認識のフィルターをかけた」
シンは説明する。 これは幻術ではない。観測者の脳に直接干渉し、「紅蓮の獅子=いつもの彼ら」という情報を強制的に上書きする精神干渉だ。
「真の実力者……『眼』を持つ者だけには、お前たちの変化が視えるだろう。……まあ、それはそれで構わん。良い『選別』になる」
シンは不敵に笑った。 この認識阻害を見破れるほどの強者がいれば、それは次の「捕食対象」か「配下候補」になり得るからだ。
◇
地上に戻った一行は、そのまま冒険者ギルド本部へと向かった。
「おおっ! 『紅蓮の獅子』が戻ってきたぞ!」 「どうだったアレス! まさか逃げ帰ってきたんじゃねえだろうな!」
冒険者たちが興味津々で集まってくる。 アレスは一瞬、どう反応すべきか迷ってシンの方をチラリと見た。 シンは無言で、怯えた荷物持ちのフリをしながら「いつも通りにしろ」と目で合図を送る。
アレスは深呼吸し、かつての――いや、かつて以上の傲慢な英雄の仮面を被った。
「ふん、騒ぐな雑魚ども。……第十階層? ああ、行ってきたぜ。散歩コースみてえなもんだったがな」
アレスがカウンターにドサリと麻袋を置いた。 中からゴロリと転がり出たのは、不死王が身につけていた黄金の冠と、砕けた杖の破片(シンが不要な部分で作った偽造品)だ。
それを見た受付嬢が、悲鳴に近い声を上げた。
「こ、これは……『古代王の冠』!? それにこの杖の残存魔力反応……まさか、伝説のSランク『不死王』ですか!?」
ギルド内が静まり返り、次の瞬間、爆発的な歓声に包まれた。
「マジかよ! Sランクのボスを狩ったのか!?」 「すげえ! やっぱりアレスたちは本物の英雄だ!」
称賛の嵐。 アレスは拳を突き上げ、歓声に応える。 だが、その背中は冷や汗でびっしょりだった。 彼は知っている。これは自分の手柄ではない。後ろで、荷物の整理をしているフリをしているFランクの少年――彼が、あくび混じりに指先一つで成し遂げた偉業の「食べ残し」に過ぎないことを。
「おい、そこの荷物持ち!」
酔っ払った冒険者の一人が、シンを指差して嘲笑った。
「お前、生きて帰ってこれて運が良かったな!」 「アレス様の金魚のフンやってて助かったな、Fランク!」
ドッと湧く笑い声。 以前のアレスなら、一緒になって笑っていただろう。 だが今は、その嘲笑を聞くたびに、アレスのこめかみに青筋が浮かび上がり、拳が怒りで震えていた。
(貴様ら……! 誰に向かって口を利いている……!)
アレスの腸が煮えくり返る。 このお方こそが、真の支配者なのだぞ。 お前らが崇める英雄など、この方のペットに過ぎないのだぞ。
殺意が暴走しかけたその時、シンが背後からそっとアレスの服の裾を引いた。
「……ア、アレス様。報告は終わりましたか? 早く宿に戻って、荷物を降ろしたいのですが……重くて……」
弱々しい、怯えた少年の演技。 だが、その声に含まれた魔力波長は、アレスの脳髄に直接「抑えろ」という絶対命令を響かせた。
アレスはハッとして、怒気を飲み込んだ。
「あ、ああ……そうだな。今日は疲れた。……帰るぞ」
アレスは逃げるようにギルドを後にした。 周囲は「おや、あのアレスが随分と丸くなったな?」と不思議がったが、それ以上追求する者はいなかった。 認識阻害の魔法が、彼らの違和感を「英雄の貫禄」として処理させていたからだ。
◇
彼らの拠点、通称「獅子の隠れ家」。 街外れにある、こぢんまりとした二階建ての一軒家だ。 Bランクパーティにしては質素な、ただの活動拠点。 その地下室――かつて倉庫として使われていた、薄暗くカビ臭い六畳ほどの部屋に、一行は集まっていた。
「……狭いな」
シンがぽつりと呟いた。
「も、申し訳ありません! 我々の拠点はこの程度でして……」 「すぐに増築させます! 職人を手配して、シン様の玉座にふさわしい場所を……!」
アレスとボルトスが慌てて頭を下げる。 だが、シンは首を横に振った。
「いや、人の手では遅すぎる。それに、地上の職人に我々の聖域を触らせたくはない。……俺がやる」
シンが床に手を触れた。 瞬間、彼の体から溢れ出した漆黒の魔力が、地下の土壌へと浸透していく。
「【ゼロ:地脈操作】×【ゼロ:迷宮創造】」
ズズズズズズ……ッ!
地鳴りが響く。 だが、家は揺れていない。揺れているのは地下空間そのものだ。 土が消滅し、岩盤が削れ、空間が爆発的に拡張されていく。 物理法則を無視した空間創造。
わずか数秒。 カビ臭い倉庫の壁が消失し、その先には、東京ドームがすっぽり入るほどの巨大な空間が出現していた。 床には黒曜石が敷き詰められ、天井には魔石の星空が輝き、壁面には幾何学模様の「蜘蛛の巣」のレリーフが刻まれている。 そして中央の最奥部には、禍々しくも美しい、漆黒の玉座が鎮座していた。
――『アンダー・ネスト(地下宮殿)』。
「こ、これは……」
ミラが腰を抜かす。 魔法というレベルではない。これは神による天地創造だ。
「ここを俺の『巣』とする」
シンは悠然と歩き出した。 そして玉座の前まで来ると、パチンと指を鳴らした。
シュウウゥ……。 シンの身体から、黒い煙のような魔力が立ち昇る。 15歳の少年の姿が揺らぎ、骨格が軋み、本来の姿へと変貌を遂げる。 漆黒の髪、深紅の瞳、そして全てを見下ろす魔王の如き18歳の青年。
「……ふぅ。やはりこの姿は楽だ」
シンは玉座に深く腰掛け、足を組んだ。 その声は低く、腹の底に響く絶対者のものに変わっていた。
「シン様……? そのお姿になられても、大丈夫なのですか?」
アレスが恐る恐る尋ねる。先ほど、国が滅ぶと言っていたはずだ。
「ここなら問題ない。この空間は俺が創った『別世界』だ。外の世界とは隔絶されている。……俺がどれだけ魔力を垂れ流そうが、この空間が吸収し、循環させてくれる」
シンは深紅の瞳で四人を見下ろした。
「さて。これより組織の体制を発表する」
シンの声が、広大な地下宮殿に朗々と響き渡る。 四人は即座に玉座の前へ整列し、片膝をついて首を垂れた。
「我々の組織名は、表向きにはレギオン【蜘蛛】とする。アレス、お前がその長を務めろ」
「はっ! 過分なる幸せ!」
「俺はあくまで『レギオンに所属するFランクの荷物持ち』だ。お前の庇護下にある弟分として振る舞う。……わかるな?」
「御意! 私の命に代えても、シン様の正体を守り抜きます!」
シンは頷き、再び指を鳴らした。 空中に、無数の光の糸が浮かび上がり、複雑なネットワーク図を描く。 頂点にシンがおり、そこから四本の「極太の糸」が伸びている。
「そして、これが我々の真の姿……『アラクネ・ネットワーク』だ」
「アラクネ……ネットワーク……?」
チェルシーが聞き慣れない言葉を復唱する。
「蜘蛛の巣だ。俺を頂点とし、お前たち全員の魂を『糸』で繋ぐ」
シンは光の図を指差した。
「俺から伸びるこの極太の糸は、お前たち『四天』に繋がっている。俺の魔力を直接供給し、お前たちを強化するパイプラインだ」
さらに、シンの下には十個の空席があり、そこには「普通の太さの糸」が伸びていた。
「いずれここに『十王』と呼ばれる幹部を加える。彼らにも俺の糸を繋ぐ」
そして、その下には無数の「細い糸」が末広がりに伸びている。
「十王の下には、それぞれの部下がつく。部下にも細い糸を繋ぎ、力を分け与える」
シンはニヤリと笑った。
「これは『循環と還元』のシステムだ。末端の部下が敵を倒し、経験や魔力を得れば、その一部が糸を通じて上司へ、そして俺へと還元される。逆に、俺が強くなれば、その余剰魔力が糸を通じて末端まで流れ落ち、組織全体が強化される」
いわば、魔力のねずみ講。 上が肥えれば下も潤い、下が働けば上がさらに強くなる。 無限の成長システム。
「アレス、ミラ、ボルトス、チェルシー。お前たち四人を、我が配下の第一席……**『四天』**に任命する」
シンが厳かに告げる。
「アレス、お前は【炎】の四天。前線で敵を殲滅する『矛』となれ」 「ボルトス、お前は【鋼】の四天。組織を守る『盾』となれ」 「ミラ、お前は【聖】の四天。配下を癒やし、生かす『慈母』となれ」 「チェルシー、お前は【影】の四天。闇に紛れ、情報を運ぶ『目』となれ」
「ははぁッ!!」
四人の声が重なる。 彼らの掌に刻まれた蜘蛛の紋章が、熱く脈打った。 極太のパスが繋がり、シンの膨大な魔力がドクドクと流れ込んでくるのを感じる。 それは、彼らがただの冒険者から、世界を裏から支配する組織の最高幹部へと生まれ変わった瞬間だった。
「表向きは冒険者として振る舞い、名声を高め、より多くの『餌』と『情報』を集めろ。……俺に仇なす者は、その影から排除しろ」
「全ては、シン様のために!」
彼らの目に迷いはない。 圧倒的な力への心酔が、彼らを忠実な下僕へと変えていた。
◇
その日の夕方。 組織の結成とアンダー・ネストの創造を終えたシンは、15歳の少年の姿に戻り、アレスを連れて街の大通りにあるオープンカフェを訪れていた。
夕日が差し込む優雅なテラス席。 だが、アレスはガチガチに緊張していた。 主との食事。粗相があってはならない。彼は直立不動で椅子の横に立っていたかったが、シンに「目立つから座れ」と命じられ、空気椅子のような姿勢で浅く腰掛けていた。
「……ふぅ。やはり外の空気は悪くない」
シンはメニュー表を眺めながら呟いた。 数万年の森生活では味わえなかった、文明の味。 特に、この時代の「甘味」には興味があった。
「すいません」
シンが手を挙げると、若いウェイトレスが駆け寄ってきた。
「はい、ご注文をお伺いします!」
「この『濃厚チョコレートアイス』を一つ」
「かしこまりました! お客様(アレスの方を見て)は?」
「お、俺は水でいい!」
アレスが裏返った声で答える。 ウェイトレスは不思議そうな顔をしながら、オーダーを通して厨房へと戻っていった。
数分後。 ウェイトレスがお盆を持って戻ってきた。
「お待たせいたしました~。濃厚ヴァニラアイスでございます」
コトン、と置かれたのは、真っ白なアイスクリームだった。 シンが注文したのはチョコレート(黒)。 出てきたのはヴァニラ(白)。
単純なオーダーミスだ。 忙しい店内ではよくあることだ。 シンは「おや」と眉を少し上げた程度だった。
――しかし。 向かいに座っていたアレスの反応は、劇的すぎた。
「き、貴様ァァァァァァァッ!!!」
ガタァッ! アレスが椅子を蹴倒して立ち上がった。 その全身から、Aランクに迫るほどの赤黒い殺気が噴き出したのだ。
「ひっ!?」
ウェイトレスが悲鳴を上げて腰を抜かす。 周囲の客も騒然となる。
「万死……! 万死に値するぞ下郎がァッ!」
アレスの目は血走っていた。
「あのお方が! シン様が! チョコレートをご所望されたのだぞ!? それを貴様、その耳は飾りか!? その脳みそは腐っているのか!?」
「も、申し訳ございませ……!」
「謝罪で済むか! これは反逆だ! 神への冒涜だ! この店ごと消し炭にしてくれるわァッ!!」
アレスの手元に炎の魔力が収束していく。 本気だ。 彼は本気で、アイスの注文を間違えただけで、この店を地図から消そうとしている。 狂気。 だが、それが彼なりの「忠誠」の形だった。主への不敬は、世界の崩壊よりも重い罪なのだ。
炎が放たれようとした、その瞬間。
「……よしなさい、アレス」
凛とした声が、炎をかき消した。 シンが、スプーンを口に運んだ音だった。
「シ、シン様……! しかし、こやつは貴方様に泥を……!」
「ヴァニラも、悪くない」
シンは白いアイスを一口食べ、目を細めた。
「濃厚なミルクの香り。そして、何にも染まっていない純白の色。……まるで、これから俺たちが染め上げるこの世界そのものじゃないか」
シンはウェイトレスに微笑みかけた。
「美味しいよ。ありがとう」
「は、はいぃ……っ!」
ウェイトレスは涙目で逃げるように去っていった。 シンは二口目を食べ、アレスを見た。
「座れ。目立つ」
「は、はい……!」
アレスは慌てて座り直した。 その目からは、ボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。
「……なんと……なんと慈悲深い……!」
アレスは男泣きした。 ただのオーダーミスを、世界征服の隠喩に変えて許す度量。 そして、下賤な店員のミスすらも笑って受け入れる、海よりも深い優しさ。
「私は……私はこの御方のために、命を捧げる……!」
アレスは拳を握りしめ、嗚咽を漏らした。 周囲から見れば、アイスを前に泣きじゃくる変な男と、それを冷めた目で見ながらアイスを食べる少年の奇妙な図だ。
だが、シンは知っている。 この狂信こそが、最強の武器になることを。
(……騒がしい奴だ。味は普通だな)
シンは心の中で辛辣な評価を下しながら、甘いアイスを口に運んだ。 ネメシスの夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。 その影は、やがてこの街すべてを覆い尽くすことになる。
――そして、その様子を、通りの向こうから静かに見つめる二つの影があった。 一人は、鋭い眼光の老紳士。 もう一人は、枯れ木のような老人商人。 この街の裏側を知り尽くした彼らの目が、アイスを食べる少年の背中に釘付けになっていた。
ここまで読んで「面白い!」「長いけど楽しめた!」と思っていただけたら、ページ下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマーク登録をしていただけると、作者は疲れも吹き飛ぶほど喜びます。
明日(大晦日)も18時過ぎに更新予定です。
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