【BL異世界小説】花嫁は知らない世界で咲く 第八話 「朝日の想い」
目の前にあった引き締まった身体を見た瞬間、朝日は全身が熱くなった。
――蒼様は、本当に意地悪だ。
そんなこと、もちろん口には出せない。
朝日は真っ赤になった顔を両手で押さえながら、必死に心を落ち着かせた。
それから、蒼が使い終えたぬるい湯を少し分けてもらい、手足を洗う。
そして台所の隅に立て掛けてあった藁むしろを取り、竈から少し離れた場所へ広げた。
「何してるんだ?」
「え……寝る支度です」
朝日がそう答えると、蒼は不思議そうに眉を寄せた。
その顔を見て、朝日は胸の奥がぎゅっと縮む。
もしかして。
今夜は、そういう夜なのだろうか。
けれど蒼様は、これまで朝日を嫌っていた。
汚い。
痩せている。
気味が悪い。
そう言って、近くに寄ることすら嫌がっていた。
朝日は戸惑いながらも台所を出て、寝間へ向かった。
小さな灯りの下、薄い布団が二つ並べられている。
どちらも長く使われていて、中の綿はすっかり潰れていた。
以前は、その二つを重ねて蒼が一人で使っていたものだ。
朝日は着物の腰紐に手を掛けた。
けれど、肌着まで脱ぐところで指が震えてしまう。
その時。
布団の方から、すうすうと寝息が聞こえた。
恐る恐る顔を上げる。
そこには、仰向けになってあっさり眠っている蒼の姿があった。
「……え?」
本当に寝ている。
何もしないまま。
朝日はしばらく呆然としていた。
それから、そっと近付いて顔を覗き込む。
蒼は深く眠っているようだった。
朝日は灯りを消し、隣の布団へできるだけ音を立てないように横になる。
慣れない布団。
すぐ隣から聞こえる寝息。
そのせいで、なかなか眠れなかった。
朝日には、幼い頃の記憶があまりない。
小さい頃にひどい熱を出したせいだと聞かされている。
覚えているのは、自分が誰にも望まれていない子どもだったということだけ。
身体が弱く、物覚えも悪い。
父はいつも、薬代ばかり掛かるとため息をついていた。
母は、朝日を産んだ後に亡くなったらしい。
三歳の頃、父は再婚した。
そして妹が生まれた。
だから朝日の記憶の最初には、すでに継母と妹がいた。
父に望まれなかった朝日を、継母が望むはずもない。
一度は子どもの奴隷として売られかけた。
けれど祖母が止めてくれた。
「この子は身体が弱い。今売っても高くならない。もう少し大きくしてから売った方がいい」
そう言って、朝日を守ってくれた。
それが祖母にできる精一杯の優しさだったのだと、朝日は今なら分かる。
十五歳になった時。
朝日は遊郭へ銀十五枚で売られることが決まった。
けれど契約の前日。
酒に酔って帰ってきた蒼に、山菜採りから戻る途中で掴まれた。
人違いだったのだろう。
けれど、振りほどこうともがいた拍子に、古い着物が破れてしまった。
それを見たのが、蒼の母だった。
朝日にとって、それが幸運だったのか不運だったのかは分からない。
ただ、蒼の母は朝日を家へ連れて行き、優しく手を握ってくれた。
「お願い。蒼と夫婦になっておくれ」
もし噂が村中に広まれば、蒼は村を追い出されるかもしれない。
そう言って、何度も頭を下げた。
遊郭へ売られるのも。
村で評判の悪い蒼の妻になるのも。
朝日にとっては、あまり変わらなかった。
けれど。
初めて温かい手で自分の手を握ってくれたその人を、朝日は拒めなかった。
父と継母は反対した。
しかし藤原家が銀十五枚を支払うと、二人はすぐに黙った。
蒼も最初は結婚を嫌がっていた。
けれど、家を分けてもらえること。
さらに銀五枚を自由に使えることを聞いて、ようやく朝日を受け入れた。
そうして朝日は、蒼の妻になった。
妻というより。
専属の下働きだった。
痩せていて。
髪も乱れていて。
見た目も良くない宿人。
そんな自分を、蒼が好くはずがない。
だから川に落ちて倒れている蒼を見つけた時、朝日は恐ろしくてたまらなかった。
蒼が死んだら、自分はまた売られるかもしれない。
蒼は酒に酔うと殴った。
博打で負けると怒鳴った。
それでも、蒼の母は朝日に粟を分けてくれた。
時には卵をこっそり持たせてくれた。
蒼の父も、自分の父とは違い、朝日に優しく声を掛けてくれた。
だから朝日は、必死に蒼を助けた。
けれど。
目を覚ました蒼は、まるで別人のようだった。
一緒に食事をした。
山へ行って食べ物を採ってきた。
自分で料理をした。
朝日に肉を分けてくれた。
そして今は、同じ部屋で眠ることを許してくれている。
月明かりが窓から差し込む。
朝日は、その光を頼りに隣の顔をそっと盗み見た。
静かに眠る蒼の横顔は、少しだけ優しく見えた。
「……蒼様」
朝日は聞こえないくらい小さな声で呟く。
「朝起きても、今のままだったらいいのに」
そう言って、朝日はゆっくり背を向けた。
やがて、浅い眠りに落ちていく。
朝日は知らない。
自分が背を向けたすぐ後。
隣で眠っていたはずの蒼が、そっと目を開けたことを。
そして。
ほんの少しだけ、優しく微笑んだことを。




