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【BL異世界小説】花嫁は知らない世界で咲く 第九話 「藤原の家」

会社員だった頃の習慣だろうか。


朝日が差し込む頃には、俺は自然と目を覚ましていた。


隣を見る。


朝日はもういない。


「……いつ起きたんだ?」


異世界に来て最初に困ったのは、便所だった。


ウォシュレット付きの俺の部屋のトイレが恋しい。


三万円も出して付けたのに。


今ごろ東京の部屋で、主を失って寂しく佇んでいることだろう。


そして二日目の朝に困ったのは、歯磨きだった。


電動歯ブラシ。


お前も今ごろ、洗面所で主を待っているのか。


「……考えると悲しくなるな」


仕方ない。


庭の水甕へ向かい、元の蒼の記憶を頼りに、短く切られた柳の枝を手に取る。


先端を歯で噛み、繊維をほぐす。


その房状になった部分で歯を磨いた。


「……意外と悪くない」


噛んだ瞬間、少し苦みが広がる。


けれど薬草のような爽やかな香りが口の中に残った。


朝にはちょうどいい。


学生時代にやった実験や、前世で見聞きした知識。


そのあたりをうまく思い出せば、何か作れるかもしれない。


そんなことを考えていると、台所の方から物音と湯気の匂いが漂ってきた。


朝日はもう朝食を作っているらしい。


鳳凰国の農民は、基本的に一日二食。


朝と夜だけ。


間食なんて、町の市場で少し売られている程度だ。


農家なら月に一度食べられれば裕福な方だろう。


「ポテチ食べたい……」


口寂しくなるたびにスナック菓子を食べていた俺にとって、これは地味にきつい。


まあいい。


ここは歴史にない国だ。


なら、俺が多少歴史をひっくり返しても怒られない。


現代知識で鳳凰国を発展させてやる。


……まずは手元に一文もない現実から目を逸らそう。


台所に入ると、朝日は昨夜の雉肉を粟と一緒に煮ていた。


筍も小さく刻んで入っている。


粟は本当に少ししか残っていない。


椀二つへ分けたら、俺一人でも足りない量だ。


それでも。


朝日の分を残さず自分だけ食べるなんて、俺には無理だった。


幼い頃から、従妹のあゆみに何でも分けてきた習慣のせいかもしれない。


「これ食べたら、市場へ行こう」


朝日はいつものように静かに頷き、丁寧に朝食を食べた。


食後、朝日が食器を片付けている間に、俺は売り物の籠を整える。


筍を葉で包み、上に雉の卵を四つ乗せた。


これは父と母への土産だ。


市場へ行くには、藤原家の前を通る。


なら、寄っていくべきだろう。


元の身体をもらったから、その分親孝行をする。


というより。


親を早くに亡くした俺にとって、あの二人は神様がくれた父と母のようなものだった。


しかも朝日にこっそり粟を分けてくれている。


放っておけるはずがない。


藤原家に着くと、父はすでに畑へ出ていた。


母と二人の兄嫁は、暖かくなってきたからか、冬の間使っていた綿布団を庭で干していた。


長兄と次兄も、畑へ出る支度をしている。


藤原家は農家としては大きい方だ。


瓦屋根ではないが、厚い土壁の立派な家。


広い敷地には母屋。


長兄夫婦と次兄夫婦の寝屋。


そして台所小屋がある。


周囲に盗人も少なく、村の家らしく垣はあっても門はない。


俺と朝日が庭へ入ると、兄嫁たちの顔が分かりやすく曇った。


まあ、無理もない。


俺の結婚のために、家は銀二十枚も使ったのだ。


その中には長兄夫婦や次兄夫婦の蓄えも含まれていたはずだ。


嫌われても仕方がない。


「末弟殿、来たの?」


長兄の妻、菊が言った。


言葉だけ聞けば普通だが、その響きは「また来たの?」に近い。


その時、次兄の蓮が俺を見るなり駆け寄ってきた。


「おい蒼! 頭打ったって聞いたぞ! こぶはまだあるか? なければ兄ちゃんがもう一発作ってやる」


そう言って、俺の頭をわしゃわしゃ掻き回す。


「やめろって!」


蓮は陽気で悪戯好きな性格らしい。


兄弟は年子に近く、そこまで年齢差はない。


それでもこの時代では、兄と弟の上下関係は強い。


……まあ、元の蒼だけは例外だったようだが。


「蓮、あまり子ども扱いするな」


穏やかな声が聞こえた。


長兄のいつきだ。


落ち着いていて、どこか包み込むような雰囲気がある。


「子ども」という言葉を聞いた瞬間、兄嫁二人の表情がさらに固くなった。


二十歳は、この世界では立派な大人だ。


しかも俺は既婚者。


それでも樹にとっては、俺はまだ末の弟なのだろう。


樹は乱れた俺の髪を、苦笑しながら整えてくれた。


「昨日、母さんから聞いた時は驚いたよ。すぐに行こうとしたんだが、休ませてやれと止められてね」


たぶん母は、仕事帰りの兄たちが俺の家へ駆け込めば、兄嫁たちがよく思わないと分かっていたのだろう。


前世の俺には、実の兄弟がいなかった。


年上の従兄弟もいなかった。


だから、兄二人に囲まれているこの状況は、少し落ち着かない。


けれど。


嫌ではなかった。


二人がどれほど末弟を甘やかしてきたか、今の記憶だけでも分かる。


「母さんと父さんに、雉の卵を持ってきた」


「え?」


母の手から布団が落ちそうになり、菊が慌てて支えた。


蓮の手から鍬が落ち、近くにいた朝日がびくりと肩を震わせる。


……そこまで驚く?


まあ、元の蒼から贈り物をされる日が来るなんて、誰も夢にも思わなかったのだろう。


樹は俺の手にある葉包みを見つめた。


「雉の卵……蒼、どこで手に入れたんだ?」


「えっと……」


なんで雉の卵四つで、宇宙人を見るような顔をされているんだ。


半刻ほどの沈黙。


それを破ったのは、蓮だった。


「兄貴。たぶん蒼が産んだんだ」


さっきまで、兄がいて嬉しいと思っていた自分を殴りたい。


「馬鹿なこと言わないの!」


最初に我に返った母が、足早に近付いてきた。


「これはどうしたの? まさか朝日ちゃんを山へ行かせたんじゃないでしょうね」


「違うよ。昨日、暇で山の方を歩いてたら、少し奥へ入っちゃって。そこで巣を見つけたんだ」


「奥まで行ったのか?」


蓮が眉を上げる。


「無茶するなよ。お前、山の入口にすら十回も行ったことないだろ」


この次兄、本当に俺を愛しているのか?


言っていることは正しいけど。


「蓮の言う通りだ。蒼、山奥へ一人で入ってはいけないよ」


「はい、兄さん」


素直に返事をする。


その時。


菊がため息混じりに言った。


「あなた。蒼はもう子どもではありませんよ。二十歳で、妻もいるんです」


その声には、はっきりと不満が滲んでいた。


「いつまでも本家を頼れないと分かって、山へ食べ物を探しに行ったのではありませんか」


「そうですよ」


次兄の妻、稲も続ける。


「朝日が何度も本家へ粟を取りに来るのだって、村では噂になります。可愛い末弟殿の名が悪くなりますよ」


温かかった空気が、少しだけ冷えた。


振り返らなくても分かる。


朝日はきっと、俯いている。


蓮が妻へ何か言おうとした瞬間、母が先に口を開いた。


「余計なことは言わなくていい」


その声は静かだったが、強かった。


「蒼、お前が持ってきたものは持って帰りなさい。昨日頭を打ったばかりなんだから、しっかり食べなきゃ駄目よ。うちには食べ物がある。飢えてはいないから」


「お義母様。せっかく蒼が持ってきたのに、なぜ返すのですか」


菊が食い下がる。


「お義父様やお義母様が召し上がらないなら、家の田畑をまとめている樹に食べさせるべきです」


「そうです。私の夫だって、兄上と一緒に働いているんですから」


「つまり俺たち兄弟は飢えてるって言いたいのか?」


蓮の口は、今日も裏切らない。


「蓮、あなた何を言っているの。稲はあなたのために――」


菊が言いかけた時、樹が菊へ一度だけ視線を向けた。


それだけで、声はぴたりと止んだ。


この程度ではなかったが、前世でも似たような空気を経験したことがある。


両親を失った後。


俺の保護者になることを、誰もが喜んで受け入れたわけではなかった。


家族とは、温かいだけではない。


だからこそ。


俺は軽く笑って、空気を変えることにした。


「もう、母さん」


俺は少しおどけた調子で言う。


「俺は母さんに食べてほしくて持ってきたんだよ。家にはまだあるから」


母は驚いたように目を見開き、次に柔らかく笑った。


「……そう」


「なら、ありがたくいただくわ。お父さんに夕飯で煮てあげる」


「うん」


俺は頷く。


「じゃあ、俺たちは市場へ行ってくる」


その瞬間。


家族全員の視線が、また変わった。


今度は俺だけではない。


朝日にも向けられる。


今日は町へ行くからだろう。


朝日は古いながらも、一番ましな着物をきちんと着ていた。


蓮が真顔で俺を見る。


「蒼、お前……まさか朝日を町で売る気か?」


頼む。


次兄よ。


その口を一刻だけでいいから閉じてくれ。


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