第9話「階級」
第九話 階級
教室の空気は、少しずつ変わっていた。
夏が近づくにつれ、話題も変わる。
ゲーム。
アニメ。
遊びの約束。
週末の予定。
そういう話は、まだある。
だが、以前より少し減った。
代わりに増えていくのは、受験の話だった。
「お前、どこのクラス?」
その一言で、会話の重さが変わる。
「英修館のS」
「日能会のM」
「四谷ゼミの選抜」
「俺、英修館のTZ」
名前が出た瞬間、空気が微妙に揺れる。
「マジか」
「Mって上だろ」
「TZやばくね?」
「附設狙い?」
「ラ・サール?」
評価が決まる。
一瞬で。
森岡悠真は、その様子を黙って見ていた。
(所属で序列を決めている)
孔明が言う。
悠真は小さく頷いた。
塾のクラスは、実力を示す指標だ。
だから判断材料にはなる。
上位クラスにいる者は、基本的には強い。
最難関クラスにいる者は、附設やラ・サールを本気で狙っている。
そこにいるだけで、ある程度の証明になる。
だが。
(本人を見ているわけではない)
悠真の中に、違和感もあった。
答案を見たこともない。
一緒に問題を解いたこともない。
本番でどう崩れるかも知らない。
何を得意として、何を落とすのかも知らない。
それなのに、クラス名だけで強さが決まる。
「TZって、問題のレベル違うらしいぞ」
「授業、めちゃくちゃ速いって」
「先生も怖いらしい」
「別世界やん」
誰も実際には知らない。
だが、全員が知っているように話す。
TZ選抜。
附設。
ラ・サール。
青雲。
早稲田佐賀。
その名前とつながる場所。
そこにいる子は、同じ教室にいても、どこか別の景色を見ているように扱われる。
(不思議なものだな)
孔明が呟く。
「何が」
(人は、見たこともない場所を神格化する)
悠真は黙った。
確かにそうだった。
TZ選抜の授業を受けたことがあるわけではない。
藤堂優駿が普段どんな問題を解いているのか、本当は知らない。
上位クラスの子たちが毎日どれほど追い込まれているのかも知らない。
それでも、その名前だけで圧がある。
放課後。
塾。
英修館。
掲示板の前に人だかりができていた。
クラス分け結果。
紙一枚。
だが、その紙が人の価値を決める。
少なくとも、子どもたちはそう感じていた。
静かだった。
誰も大騒ぎはしない。
だが、圧だけがある。
「俺、Aに上がった!」
「マジか!」
「すげえ!」
歓声。
羨望。
興奮。
逆もある。
「Cに落ちた……」
「ドンマイ」
落胆。
焦り。
沈黙。
同じ紙。
同じ発表。
だが、人によって意味が違う。
上がった者には、未来への扉に見える。
落ちた者には、閉じられた門に見える。
悠真は、自分の名前を探した。
Bクラス。
まだ、そこにある。
以前より位置は上がっている。
Bクラスの中では悪くない。
Aクラスへの距離も、少しだけ縮まっている。
だが、まだBだ。
その事実だけが、重く残った。
そのとき、講師が別の紙を貼った。
空気が変わった。
TZ選抜。
ざわめきが止まる。
全員の視線が集まる。
名前が並ぶ。
一人。
一人。
一人。
驚くほど少ない。
講師が声を上げる。
「TZ選抜の人は、今日は別室です」
数人が歩き出す。
騒がない。
はしゃがない。
当然のように移動する。
その中に、藤堂優駿がいた。
藤堂は掲示板をほとんど見なかった。
自分の名前があることを確認するというより、予定を確認するような動きだった。
周囲の目が、それを追う。
羨望。
尊敬。
嫉妬。
諦め。
様々な感情が混ざっていた。
(面白いな)
孔明が言う。
「何が」
(戦う前から階級が存在する)
悠真は黙る。
(軍なら、階級は役割だ)
孔明は続けた。
(将軍と兵では仕事が違う。斥候には斥候の役割があり、補給には補給の役割がある)
少し間を置く。
(だが、この戦場では違う)
「違う?」
(階級が、価値と混同されている)
その言葉が残った。
クラスは、本来は現在地を示すものだ。
何を学ぶべきか。
どの速度で進むべきか。
どの問題に取り組むべきか。
そのための区分のはずだった。
だが、子どもたちの中では違う。
上のクラスにいる者は、すごい。
下のクラスにいる者は、届いていない。
落ちた者は、弱い。
上がった者は、強い。
いつの間にか、クラスは場所ではなく、身分になっている。
授業開始。
Bクラス。
問題を解く。
最近は、少しずつ余裕が出ていた。
以前より読める。
以前より書ける。
以前より崩れない。
だが、教室全体の空気は重くない。
誰もが同じところで悩み、同じところで止まる。
誰かがため息をつく。
誰かが講師に当てられて黙る。
誰かが「分からん」と小さく笑う。
以前なら、その空気が楽だった。
自分だけではないと思えたから。
だが今は、その楽さが少し怖かった。
(環境は、人を作る)
孔明が言う。
「環境?」
(人は、周囲の基準に引っ張られる)
悠真は手を止めた。
(速い者の中にいれば、速さが普通になる。正確な者の中にいれば、正確さが普通になる。緩い者の中にいれば、緩さが普通になる)
悠真は窓の方を見る。
別室。
TZ選抜。
そこでは今、自分たちとは違う授業が行われている。
違う問題。
違う速度。
違う緊張感。
違う基準。
同じ時間を使いながら。
同じ塾の中で。
授業が終わる。
廊下に出ると、別室からTZ選抜の生徒たちが出てきた。
静かだった。
疲れている者もいる。
講師に質問している者もいる。
ノートを開いたまま歩く者もいる。
藤堂優駿が、その中にいた。
高橋蓮が、少し離れたところで藤堂に声をかけている。
悠真は、その光景を見た。
ただの友だち同士の会話。
だが、そこにも階級が見えた。
同じ学年。
同じ小学生。
同じ塾。
それでも、立っている場所が違う。
帰り道。
夜風が吹いていた。
駅前の明かりが、歩道に長く伸びている。
「なあ」
悠真が呟く。
(なんだ)
「変な世界だな」
(ほう)
「まだ小学生なのに」
少し考える。
「みんな、クラスとか順位とかばっかり見てる」
孔明は静かに聞いていた。
「学校じゃないのに」
悠真は続ける。
「成績表でもないのに」
一拍。
「それで人の評価が決まる」
沈黙。
やがて孔明が言った。
(人は数字が好きだ)
「数字?」
(見えぬ力を、見える形にしたがる)
偏差値。
順位。
クラス。
合格実績。
判定。
合格可能性。
それらはすべて、見えないものを見える形にしたものだった。
だから人は安心する。
比較できるから。
優劣を決められるから。
今いる場所が分かるから。
だが、同時に危うい。
数字は、分かりやすい。
分かりやすいものは、人を支配する。
家。
机。
悠真はノートを開いた。
新しいページ。
最初に一行だけ書いた。
受験には階級がある。
ペンが止まる。
今日分かったことがある。
受験は、勉強だけではない。
そこには、もう一つの社会がある。
見えない序列。
見えない壁。
見えない身分。
人はそれを当たり前のように受け入れている。
そして、その壁の向こうを目指している。
悠真は、さらに書いた。
階級は価値ではない。
階級は現在地である。
書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
Bクラスにいる自分が、価値の低い人間なわけではない。
ただ、今いる場所がそこだというだけだ。
ならば、上がればいい。
価値を証明するためではない。
勝つために、必要な場所へ移るために。
孔明の声が静かに落ちた。
(階級を憎むな)
悠真は顔を上げた。
(利用せよ)
ノートの文字が、夜の机の上で黒く沈んでいる。
受験には階級がある。
その日、悠真は初めて、受験という世界の本当の姿を少しだけ理解した。
そして同時に知った。
階級は、絶望するためにあるのではない。
突破するためにある。




